厄日、とでもいうのだろうか。
何故か、何事においても妙についていない日というものがある。
その日の午後のこと。出稽古に向かおうとした薫が、玄関で下駄に足を入れて一歩踏み出した途端、「ぶちっ」と鼻緒が切れた。
剣心に助けを求めると、「応急措置」と言って歯切れを使って器用に挿げてくれた。薫はありがとうと礼を言って、少し慌てて家を出た。
下駄を直してもらうのに時間をくったぶん、早足で前川道場へと向かう。その途中、店先に打ち水をしていた商家の娘に、柄杓で水をかけられた。
青くなった娘からはしきりに謝られたが、袴が濡れただけだし綺麗な水だったし、薫は「大丈夫ですから!」と先を急いだ。
この時点で「今日はついていない日かも」と、うっすら薫は考えた。
ちょっと気持ちが下向きになりかけたが、しかし前川道場に行けばやる気に満ちた門下生たちが待っている。彼らに稽古をつけているうちに、きっと鼻緒や
水の事なんて忘れてしまうだろう。そう思って、気持ちを切り替えることにする。
★
志々雄真実の一件が幕を下ろし、皆で京都から帰ってきてから、出稽古に行くのはこれが二回目だった。
前回は、皆いつも以上に張り切っての稽古になって、薫としてもやりがいがあった。剣心にその事を言ったら「薫殿が帰ってきたから、皆喜んでいるのでご
ざるよ」と言われたが―――まあ、いずれにせよ稽古に熱が入るのは良いことであろう。
しかし、今日の前川道場はいつもと少し様子が違っていた。
どうしてか、道場の周りに数名の若い娘がたたずんでいる。薫と同じくらいの年齢であろう。皆一様に華やかな色合いの着物を身に着けている。
誰かを待っているのかしら、と思いつつ、薫は彼女らに会釈をして道場に入った。そしてまもなく彼女たちの「目当て」が誰かを知ることとなった。
「先日から通い始めた、榊くんだよ。薫くんからもよく指導してやってくれ」
そう言って、前川から紹介された榊という青年は、すらりとして上背もあり、役者のような整った顔をしていた。薫は、なるほどあの女の子たちは彼を待って
いたのかと、瞬時に納得する。
「お噂は聞いています、よろしくお願いします」
と、にっこり笑った榊の表情は確かに魅力的で、彼女たちの気持ちもわからなくはない。
でも、剣心の笑顔のほうが素敵だわ―――と、ついそんなことを考えてしまった薫は、それは榊に対して失礼だろうと内心でこっそり反省した。
「失礼ですが、薫さんはおいくつなんですか?」
稽古の後、薫はおもむろに榊にそう話しかけられた。
「数えで、十七ですけど」
剣心を追いかけて京都に行っているうちに誕生日が来たので、満年齢だと十六歳だ。せっかく歳をとっても剣心と同じ六月生まれなので、彼もひとつ歳を
とってしまう。できるだけ彼に似合う大人になりたいと思っているのに、一回り以上の年齢の差は何をどうしても縮めることができなくて、薫としてはそれが
なんとももどかしい。
そんなことを考えていたら、榊が「へぇ、僕と同い年ですね」と笑ったので、薫も「あ、そうなんですか」と笑って返す。
「じゃあ、今日はお疲れ様でした。また次の稽古で・・・・・・」
そう言って薫は道場を辞そうとした。が、お辞儀をして踵を返したところで、ぱし、と後ろから手首を掴まれた。
「あの、お時間あるなら、この後どこかに寄っていきませんか?」
突然の誘いに、薫はきょとんとする。そして、周りの門下生たちは一様に目をむいた。
寄っていきませんか、って。
だって表には彼を待っている娘たちが他にいるというのに。
薫の手を掴んだ榊は、にこにこと隙のない笑顔を向けている。
そうか、きっと彼は己の容姿が魅力的であることを理解したうえで、女性に対してはこんなふうに誘いをかけないと失礼だと思っている―――そんな人種
なのだろう。そして、自分に誘われたら女性は皆喜ぶに違いないと、そう思っているのだろう。
でもそれは、誤った考えである。少なくとも、既に心に決めたひとがいる薫にとっては。
「・・・・・・すみません、今日は時間がないんです」
びっ、と勢いよく手を振りほどきながらやはり笑顔で返した薫に、門下生たちはうんうんと大きく頷く。気を利かせて「薫さん、次回もよろしくお願いしま
す!」と送り出す言葉をかけてくれた者もいたので、薫はその厚意に甘えて「こちらこそ、お疲れ様でした!」と挨拶をして前川道場を後にした。
―――しかし、榊は薫の後を追いかけてきた。
彼を待っていた娘たちは、榊が自分たちを尻目に飾り気のない道着姿の薫に追いすがるのを見て、揃って表情を険しくした。
「薫さんは、どうして剣術を始めたんですか?」
娘たちが後ろから突き刺すような視線を投げかけてくるのが、ひしひしと感じられる。薫は「なんだか面倒なことになっちゃったなぁ」と思いながらも、「父が
やっていたので、自然に」と正直に答えた。弥彦などにはこういうところを「お人好しだよなぁ」と言われるのだが、他流の門下生を邪険にするわけにもいか
ないので、仕方がない。
「あとは、強くなりたいからです。人を活かし、人を守る剣というのが、父の遺した教えですから」
「なるほど、立派な答えですねぇ」
その言葉の持つ―――なんというか「馬鹿にしたような」響きに、おや、と思い足を止めて振り返る。
「それに・・・・・・剣術をやっている女性なんて滅多にいませんから、こうして出稽古に出れば紅一点で『珍重』されますしね」
ひやり、と。冷水をかけられたように心が冷えた。
咄嗟に言葉を返すことも出来ず、薫はその場に立ち竦んだ。
何故、この男はこんな事をいうのだろうか。わたしが誘いを断ったからだろうか。
女性と見れば、誘わなければ失礼だと思いこんでいるような男。と、いうことは、女性は皆誘いに乗るのが当然とも思っているわけで―――ならば誘いを
断られるのは屈辱だとでも思っているのだろうか。確かに、薫は大勢の門下生たちの前で彼の手を振り払った。薫にしてみれば当然の自衛であったが、
榊にしてみれば「大勢の前で恥をかかされた」とでも思ったのかもしれない。
「周りは男性ばかりで、好きなように選び放題遊び放題というわけですもんね。そりゃ、僕なんかが相手にされないのは当たり前だな」
後からついてきている娘たちにも聞こえるよう、わざと大きな声で榊は言った。
常の薫ならば、謂れのない雑言を投げかけられたものならば、逆上して殴りかかっていたことだろう。しかし、榊の言葉には陰湿な悪意がこもっていた。今
までに言われたことがないような、あまりに下卑た内容だった。だから、薫の身体はすくんでしまった。
何と言い返せばよいのかわからず、薫は無言のまま振り向いた首を前に戻す。そして、何も言わないまますたすたと歩き始める。
「さようなら、剣術小町さん」
からかうような声を背中で聞きながら、薫は悔しさに唇を噛む。このくらいで、何も言えなくなってしまった事が情けなかった。
少し前に、妙から「薫ちゃんは剣心はんを好きになってから、えろう女らしくなったわねぇ」と言われたことがあった。その後には「前と比べて、ってことよ?」
と悪戯っぽくつけ加えられたのだが、確かに剣心を好きになってから、自分は以前よりも「女」であることを意識するようになったかもしれない。
しかし、女らしくなる、ということは、こんなふうに気が弱くなってしまうという事なのだろうか。いや、そんなことはない。これは単に、あいつがあまりに品の
ない、相手にするのも馬鹿らしいような事を言ってきたから―――
「きゃあっ!」
ぐるぐると鬱な考えをめぐらせながら歩いていると、突然後ろから衝撃を感じた。
どん、と背中を突き飛ばされるようにして、薫は受け身をとる間もなくその場に倒れこんだ。
「ごめんなさい、大丈夫ですかぁ?」
鈴を転がすような可愛らしい、でも棘のある声だった。
見上げると、例の娘たちがすぐ後ろに立って、くすくす笑っていた。
「急いでいたからつい、ぶつかっちゃいました。ごめんなさいね」
どう考えても、それは嘘だ。先程の榊の台詞を耳にした上で体当たりをしてきた―――つまりは、嫌がらせであろう。
それこそ、怒るべきだったのかもしれない。しかし、ここで怒って張り手のひとつでもかましたなら、きっとこの娘たちは怪我をする。薫は、見た目こそ普通
の少女と変わらぬ体格だが、腕っぷしと喧嘩の技術に関しては規格外だ。自分がやられたからといってやりかえしたものならば大変なことになる。前川先
生にも迷惑をかけるし、第一悪いのは榊であって、この女の子たちではないのだ。
「いえ、大丈夫ですから、お気遣いなく」
精一杯、平静を装った声でそう言って、薫は立ち上がる。そのまま、まっすぐ前を見て歩き出す。この場合、相手にしない事こそが勝ちなのだ―――と、自
分に言い聞かせながら。
幸いにして、彼女たちがそれ以上嫌がらせをしてくる気配はなかった。
なんだか、無性に泣きたい気持ちになる。
出掛けに鼻緒が切れたのがいけなかった。あれはやはり凶兆だったのだ。
今日は厄日だ。確実に、ついていない日だ。
でも、後は家に帰るだけなのだから、さすがにもう何も起こらないだろう。道場に帰ったら、剣心と弥彦が待っている。今日は剣心が夕ご飯を作ってくれると
言っていた。ご飯を食べながら、ふたりに今日あったことについて聞いてもらおう。弥彦はきっと一緒になって怒ってくれるか、もしくは「なんでやり返さない
んだよ」と、いずれにしても怒るかもしれない。そして剣心は「大変だったでござるな」と慰めてくれるだろう。だから早く帰って―――
と、前方から蹄の音が聞こえた。
見ると、一頭立ての小さな馬車がこちらに向かって走ってくる。
薫は、手にしていた竹刀袋を放り投げて駆け出した。
ついていない一日に嫌気がさして、自棄になって馬車に飛び込もうとしたわけではない。
そうではなくて、今まさに馬車が向かってくる道の真ん中で、首に鈴をつけた猫が怯えた様子で身を固まらせていたからで―――
2 へ続く。