西洋の神様の遣いは、背中に羽が生えた人の姿をしているらしい。
人間の背中にある肩甲骨はその名残―――かつて、人に羽があった頃の名残だという。
貝殻のような背中の骨をなぞりながら、そんな事をふと思い出したのは、先程「神様からの贈り物」という話をしたからかもしれない。
肩甲骨から、背中の中央にうすく浮き出た背骨を指で辿って、そのまま手のひらを横に滑らせる。
細い腰をゆっくりと撫でて、柔らかさを堪能しながら、その手を前の方へと移動させようとしたところで―――ぺしん、と。手の甲を叩かれた。
「こら、背中だけでいいって言ったでしょう?」
「せっかくだから、前も」
「せっかくだからの意味がわからないんだけど・・・・・・子供じゃないんだから、自分で洗えますっ」
「子供じゃないから、洗ってあげたいんでござるよ」
食い下がると、無言でぎりぎりと甲を抓られた。
本気で痛かったので、剣心は白旗を揚げてひとり湯船に戻った。
プレゼント(おまけ)
「あんまり見ないでよ・・・・・・」
湯船の縁に預けた腕に顎を乗せてこちらを眺めている剣心に、薫は身体を洗いながら苦情を申し立てる。
「いいかげん、見慣れてるでしょう? わたしの裸なんて」
「では、薫殿だって見られるのには慣れてる筈でござろう」
屁理屈のような反証だったが、薫はぐっと言葉に詰まる。巧く言い返せるような台詞を探したが結局見つからず、諦めたように息を吐いた。
「剣心がこんな人とは思わなかった・・・・・・」
ぬか袋を腕に滑らせながら、ぽつりと呟く。その声はごく小さなものだったが、剣心は聞き逃さなかった。
「でも、薫殿だけにでござるよ? こんなふうにしたくなるのは」
誰彼構わずこんなふうになるわけではない。剣心にしてみれば、これは大変重要なことなので大真面目に言い切った。しかし、薫はそれになんと答え
たらよいのかわからず、湯気で上気した顔をますます赤く染めて、無言のままうつむく。そんな彼女を見ながら、剣心はしみじみ「綺麗だな」と思った。
「見慣れてるでしょう」と薫は言うものの、こんなふうに湯の中での彼女を目にするのははじめてだった。
桜色に染まった色白の肌も、なめらかな曲線を描く肢体に湯が伝い落ちる様も、ただ純粋に美しいとしか言いようがなくて、目を離せなくなる。
そりゃ、よこしまな念も多分に抱いてはいるが、こうしてただ見ているだけでも充分、目に楽しい。
薫は遠慮なく注がれる視線にやや辟易しつつ、髪に巻いていた手ぬぐいをほどいた。さらり、と長い黒髪が流れて、背中を隠す。桶ですくった湯を頭から
かぶって、長い髪を洗い始める。
「・・・・・・やっぱり、神様に感謝しなくてはな」
ひとりごとのように呟いた剣心に、薫は「え?」と問い返した。髪を洗いながらなので、自然言葉は短くなる。
「薫殿が、拙者に愛想を尽かさないでいてくれることに」
「・・・・・・何それ?」
「さっきも、こうして無理矢理風呂にひっぱりこんだわけだし」
「そりゃ・・・・・・いきなりだったからびっくりはしたけれど」
濡れた顔を手ぬぐいで押さえて、薫は髪を洗うのを一旦中断し、剣心の顔を見る。
「でも、わたしが剣心に愛想を尽かすはずないじゃない。そんな変なことで感謝しないでよね」
ちょっと怒ったようなその声に、剣心は目尻を下げる。
「そう言ってもらえるとありがたい。なにせ、自分でもびっくりしているくらいでござるからなぁ」
ますます意味がわからず、薫は首を傾げる。髪から滴った雫が、まるい膝に落ちて桜貝のような足の爪へと流れるのをなんとなく目で追ってから、剣心は
再び薫に視線を戻した。
「時々、驚くんでござるよ。薫殿に対して、拙者はずいぶんとあさましくなってしまうから」
「あさま・・・・・・」
自らを形容するにはあんまりな言葉に、薫はぎょっとする。
「薫殿だって、『こんな人だとは思わなかった』のでござろう? 実際、自分でもそう思うんでござるよ」
それはつい先程だけではなく、これまでも何度か薫に言われてきた言葉だ。
ちゃんと、想いを伝えあうまで、剣心は薫に指一本触れようとしなかった。半年以上ひとつ屋根で暮らしてきたなか、ずっと紳士的に振舞ってきた。
しかし、「好きだ」と告げて、心に科していた枷を外してからは―――この有様で。
でも、それは剣心自身でも驚いていることだった。
ただ、愛しいという気持ちから、彼女のことがもっと欲しくなる。
他の誰にも見せない顔をもっと見たくなる。誰にも聞かせない声をもっと聞きたくなる。
そして、薫はいつも、戸惑いながらも自分の我侭を受け入れてくれるから、それに甘えて歯止めがきかなくなる。
こんなことは、今までなかったことだ。
自分はもっと、何事においても理性的な人間だと思っていたのに。こと薫に関しては、どうやら例外らしい。
「自分でも、面食らっているんでござるよ。こんなふうになってしまったのは、はじめてでござるから」
そう言って緩く笑う剣心を、薫は髪を洗う手を止めて見つめていたが―――ふいに、足元にあった湯桶をとって、すっと剣心のほうに差し出した。
剣心は一瞬きょとんとしたが、それは明らかに「湯を汲んでほしい」というジェスチャーだったので、素直にそれを受け取ると、浴槽からなみなみと湯をすく
って手渡した。薫はそれを「ありがとう」と受け取ると―――高々と掲げて、自分の頭の上でひっくり返した。
「お、ろ?!」
当然、重力に従って湯は下に落ちる。勢いよくぶちまけられた湯は派手な飛沫となって、薫だけではなく湯船にいる剣心の顔も存分に濡らした。
薫は、ぶるりと一回頭を振ると、ざっと両手で顔を拭いあげ、その手で長い黒髪を撫でつける。そして、唇を尖らせた顔を剣心のほうに向けた。
「あさましいとか、そんな身も蓋もないこと言わないで。それじゃあわたしも、あさましいってことじゃない」
「・・・・・・え?」
「誤解しないでね? 別に、めちゃくちゃにされるのが嬉しいってわけじゃないのよ? でも・・・・・・」
髪から流れた雫が、薫の頬を伝って胸元へと落ちる。
濡れた髪を白い肌に貼りつけた姿の艶っぽさに、剣心は薫に気取られないようこっそり唾を飲み込んだ。
「でも、わたしにだけ、剣心がそんなふうになっちゃうっていうのは・・・・・・正直言って、嬉しいんだからね?」
剣をとった時以外は、人が良くて穏やかで、誰に対しても優しい人物、と。剣心を知る誰もが、彼のことをそう認識しているだろう。
けれど、そうではない彼を、薫は知っている。
貪欲で我侭で、意地悪で甘えたがりで。
それは、薫に対してだけ見せる彼の一面で、剣心自身も今まで知らなかったという一面。
彼がそこまで―――自分ひとりにだけタガを外してしまうのは、正直言って、嬉しい。
それだけわたしは、彼にとって「特別」になれたのかと思うと―――実のところ、泣きたいくらいに嬉しいのだ。
薫の頬が、ほんのり赤く染まっている。どうやら、頭から湯をかぶったのは、彼女なりの照れ隠しだったらしい。
思いがけない告白に、剣心はまばたきを忘れたように薫を見つめた。やがて、唇を動かして何かを言いかけ、右手を薫に向かってのばしかけたが―――
言葉は発さずに飲みこみ、その手も途中で湯船の中へと逆戻りさせた。
「・・・・・・なぁに?」
「あ、いや、何でもないでござる」
「気になるわよ」
「いや・・・・・・うん、そうでござるよな。でも、後でいいでござるよ」
「変なの」
くすりと笑って、薫は姿勢を元に戻す。そして、足元に置いてあった深緑の瓶に手を伸ばし、蓋を開けて中身を数滴手のひらに取った。洗った仕上げに、少
しずつ髪になじませてゆく。
「そうやって使うんでござるか」
「そうよ、こうすると香るだけじゃなくて、髪の毛がつやつやになるの」
瓶の中身は、薫のお気に入りの香油である。もともとは妙から貰ったもので、訳あって一本目は開封して間もなく瓶を割ってしまったが、その後改めて自
分で購入して使い続けている。ほのかに甘い異国の花の香油は、剣心も好きな香りだった。
「薫殿、ちょっとそれ、貸してみて」
「えー? なあに、剣心もつけてみたいの?」
薫はくすくす笑いながら、瓶を手渡した。剣心は「うん」と頷きながら、香油をたっぷりと手のひらに垂らす。
そしてその手を―――すっ、と。おもむろに薫の腰に向かってのばした。
「ひゃあっ!」
まとめた髪に手ぬぐいを巻きつけていた薫は、両手を上げた無防備な格好で。
そこを突然、腰から胸のふくらみにかけて、撫で上げられた。
ただ触れるとのは違う、ぬるりとした感触に、薫は調子のはずれた悲鳴をあげる。
「なっ、なっ、何するのぉっ!」
いよいよ真っ赤になって、距離を取ろうとして腰を浮かせた薫の腕を、剣心はぱっと捕まえた。
「ちょっと、そのままこっちに来て」
「ふえっ? な、なんでっ?!」
「いいから、ほら」
「きゃ・・・・・・!」
半ば抱きかかえられるようにして、薫は湯船に引っぱりこまれた。
「・・・・・・あ」
そのまま肩まで湯に浸からされて―――そこで薫は、剣心の意図を理解した。
肌に塗りつけられた油が温かい湯にとけて、ふわり、と馥郁たる花の香りがたった。
髪につけたときとはまた違う、香りに包み込まれるような感覚に、薫は驚いたように目を大きくする。
「すごーい・・・・・・」
「うん、いい香りでござるな」
柚子湯や菖蒲湯の感覚で試してみたのだが、成功だったようだ。剣心はその香りと薫の反応とに、満足げに頬をほころばせる。
「ほんと。なんだか、贅沢な感じがするわね」
薫は笑顔で頷き、目を閉じてゆっくりと息をしてみる。花園の中にいるような豊かな芳香に、しばしうっとりと身を浸す。
しかし―――やがて目を開いた薫は、打って変わっての半眼になってじとりと剣心を睨みつけた。
「・・・・・・でも、別にあんなふうにしなくても、直接お風呂にたらせばよかったんじゃないの?」
明らかに、あの手つきには下心が感じられた。けれど剣心は少しも悪びれることなく「ああすると、気持ちよいかと思って」と答えた。そして湯につかったま
ま、先程と同様に薫の腰から胸へと手を這わせる。
「ほら」
「や、ちょっと・・・・・・」
「ああ、残念。もう流れてしまったか」
ぬるりとした、あの感触はなかったけれど。それでも、剣心の指が胸の上で動くのを感じて、薫はぎゅっと目を閉じた。その隙をつくように、剣心は薫の
身体をぐっと引き寄せる。
「んんっ・・・・・・!」
ぎゅうっと抱きしめられたかと思うと、顎を捕まえられて熱っぽく口づけられた。
裸の肌と肌とが、隙間ができないくらいぴったり密着する感じに、頭の中が熱くなる。
彼がこの後何をしようとしているのかは明白で、薫は反射的に逃げようと身をよじったが、剣心の腕の拘束は堅牢だった。手でしっかりと頭を押さえこまれ
ながらも、薫はなんとか唇を動かして、息の合間に掠れた声を紡いだ。
「だ・・・・・・め、剣心、こんなところで・・・・・・」
「いや、せっかくだから」
「だから、せっかくだからの意味がほんとにわからないんだけど・・・・・・やあっ!」
ざば、と湯が溢れてこぼれ、湯気が甘く香る。腰を掴まれ持ち上げられた薫は、向いあうように剣心の膝の間に座らされた。そのまま、桜色に上気した胸
のふくらみに唇を這わされる。薫の眉が切なげに歪み、喉の奥で堪えきれない声が鳴った。
「・・・・・・さっき、後でいいって言ったこと」
「えっ・・・・・・?」
「薫があんまり嬉しいことを言うものだから、襲ってしまおうかと思って」
「な」
「でも、やっぱり髪を洗い終えるまでは待とうと思ったんでござるよ」
「そっ、そんな気を遣えるなら、お風呂あがるまで待ってくれてもいいじゃないー!」
「ここじゃ、いや?」
白い乳房の、人目には決して晒さない場所に赤い痕を残しながら、剣心は尋ねた。
湯につかっている所為だろうか、触れ合った互いの身体の温度が、いつもより高いように感じられる。
「い、嫌っていうか・・・・・・そもそも、お風呂でこんなことして、いいものなの・・・・・・?」
目の縁を紅色に染めながら、困惑した顔でそんなことを訊いてくるのが可愛らしくて、剣心は口元をゆるませた。
「別に、誰に叱られるわけでもなかろう」
「わたしが怒るかもしれないわよ」
「気持ちよくしたら、怒らないでござるか?」
「・・・・・・ばか」
薫は俯いて、剣心の頬を指でぐにっとつまんで引っ張った。とはいえ、本気で怒っているわけではないらしく、さほど力はこもっていない。
「でも、まぁ」
指を離してもらったところで、剣心はもう一度かすめるように薫の唇に触れた。そして、悪戯っぽく笑う。
「拙者もはじめてだから、どんな感じなのかはわからないが」
薫は一瞬、羞恥を忘れたかのように大きく目を見開いた。脚の間に座らされたまま、至近距離にある明るい色の瞳をじっとのぞきこむ。
「剣心にも、はじめてのことってあるのね」
邪気のない目でそう言われて、剣心は何を今更、と可笑しそうに笑った。
「そんなの、沢山あるでござるよ。特に、薫殿に関しては」
ひとりの存在に対して、ここまで我侭になるのもはじめてだし、そんな状況を心地よいと思うのもはじめてだ。
彼女と一緒にいると、今まで知らなかった気持ちがどんどん増えてゆく。
制御しきれない愛おしさや、みっともないくらいの独占欲。
そんな困った感情さえも―――新鮮で、悪くないなと思う。
そんな事を考えながらにこにこ笑う剣心を、正面から見つめていた薫は、不意に、首を傾けて彼に顔を近づけた。
そっと目を閉じて、ちゅ、と小さく口づけを落とす。
「・・・・・・薫?」
「えっと・・・・・・今のも、嬉しかったから」
そう言って、照れくさげに微笑むのが、たまらなく可愛かった。
「あっ、誤解しないでね? ここでそういうことをするのが嬉しいってわけじゃなくて・・・・・・」
「嘘つき」
「う、嘘じゃな・・・・・・っ!」
もういろいろと我慢できなくなって、剣心は唇で薫の言葉を遮った。
そして、むせかえるような花の香りの中、甘い甘い「はじめて」を心ゆくまで味わった。
了。
2013.07.16
モドル。