8  彼女の思い出










        彼の苦衷を察した薫は、あえて自分から、巴の名前を口にした。
        ぴくり、と剣心の肩が僅かに震える。



        「そんな、気にすることじゃないでしょう? 剣心、たった今自分でも言ったじゃない。真太くんの理屈は間違ってる、って」



        「はじめての恋」というのは、もうただそれだけで鮮烈にそのひとの心に刻み込まれるものだろう。
        けれど、はじめての恋が最上の出逢いになりうるとは限らない。大抵のひとは幾つもの出逢いがあって、同じ数だけのさよならがあって漸く、たったひとり
        の彼、あるいは彼女に辿り着ける。
        そうやって、ひとは巡り逢えたそのひとへの想いで心を満たす。そして過去は「思い出」に昇華して、自分の一部となる。

        今がまさに「はじめての恋」の真っ只中にいる真太は、薫だけを心に住まわせている自分こそが「一番彼女を想っている」と信じているが―――薫は、ひと
        の心がそんなに単純なものではないことを、もう知っている。


        ひとの心のうちを透かして見ることはできないけれど、感じることはできるから。
        例えば、剣心が手をとって抱きしめてくれるときにわたしを見つめる瞳と、時折、巴さんの思い出話を口にするときの彼の表情は、全く違ったものだから。
        彼女のことを語るときに剣心の目に浮かぶのは、かつての大切なひとを懐かしむ色で、思い出を慈しむ色だ。だから―――



        「きゃ!」
        突然、腕に加わった力に驚いて、薫は声をあげる。
        薫の手を掴んだまま、剣心はがくんと腰を落として床に座り込む。下へと引っ張られた薫も、背中を壁につけて床にぺたんと尻餅をつく格好になった。

        「・・・・・・でも、薫殿だって、気にしているでござろう」
        「え?」
        「この前、拙者に訊いたでござろう? 拙者が巴と一緒になったのは、あの子くらいの頃だったのか、と・・・・・・あんなふうに尋ねるということは、やはり、
        気にしているからでは・・・・・・?」
        「あー・・・・・・」
        そういえばそんな事を言ったなぁ、と薫は思い出す。
        「剣心、それはね・・・・・・」と、彼の言葉に続けて声を発そうとしたが、それは剣心の苦しげな謝罪に遮られた。


        「・・・・・・すまない」
        「え?」
        「拙者の『過去』が、薫殿を傷つけてばかりで・・・・・・本当に、すまない・・・・・・」








        ―――もしも、自分と薫が逆の立場だったらと、考えることがある。



        もしも、かつて薫に、俺の他に愛しいひとがいたとしたら。
        俺と出逢うずっと前に、生涯を誓っていた相手がいたとしたら。

        だとしても、そんなことは意に介さず俺は君を愛するだろう。
        君の過去も思い出もすべて一緒に抱きしめて、君が好きだときっぱり大声で宣言するだろう。


        けれど、その一方できっと、嫉妬もするに違いない。
        出逢う前の、過去の君の心を手に入れることなんて出来るわけがないのに。そうは判っていながらも、俺の知らない時間の君が知らない誰かと寄り添って
        微笑んでいる姿を、きっと想像してしまうだろう。そして、それだけで焼けつくように胸が苦しくなることだろう。

        だから―――薫も、そうなのだろうかと思う。
        俺の過去に、心を痛めているのではないだろうか、と。


        ましてや、薫は知っているのだ。
        俺が昔どんな女性を愛していたのか。どんなふうに彼女―――巴と出逢って、彼女との時間が始まったのか。
        どんなふうに彼女を好きになって、想いを育んで、どんなふうに終わったのかを。

        もしも、自分が薫と逆の立場だったらと、考える。
        かつての想い人のことを、出会いから終焉までを微に入り細に入り語られたとしたら―――正直に言って、冷静でいられる自信はまったくない。


        自分の犯した罪を告白するためには、巴とのことを語らないわけにはいかなかった。だから、嫌われても幻滅されても仕方ないと思いながら、君にすべて
        を打ち明けた。君はそれでも俺を受け入れてくれて、俺を好きなままでいてくれた。

        それは俺にとって、幸福に他ならないことだった。
        でも―――薫にとっては?



        過去を受け入れてくれたということは、こんなにも細い肩に、俺の過去を背負わせてしまったということだ。
        自分がしてきた事や、犯した罪、出会ったひとたちの記憶から逃れようとは思わない。
        けれど、もし、俺の過去が真太のようにまっさらだったなら。だとしたら、君に背負わせるものなど何も無かっただろうに―――








        剣心は、もう一度「すまない」と繰り返す。
        薫は、途中になってしまった言葉を飲み込んで、小さく首を傾げた。そして、剣心に拘束されたままの手を、ぎゅっと強く握りしめた。


        「剣心」
        いやに平坦な声で呼ばれて、剣心は眉を動かして薫の目を見る。
        「手、離して」
        「あ、ああ」

        何故だろう、なんとなく薫のまとう雰囲気が変化したような気がする。
        この、有無を言わせないこの感じ、これは―――

        剣心は、気圧されるようにして手を離した。
        拘束を解かれて、両手が自由になった薫は握った手のひらをぱっと開き、そして。



        「・・・・・・馬鹿っ!」



        剣心の頬を、ひっぱたいた。



        「・・・・・・へ?」
        左頬で小気味よい音が鳴って、叩かれた理由がわからない剣心は呆気にとられる。そうだ、これは怒っているときの彼女の雰囲気だ。
        とはいえ今のは薫にしては充分に加減した一撃だったようで、打たれた頬はそれなりに痛かったものの―――どちらかというとこれは、「目を覚まさせる」
        程度の力である。


        「あのね剣心、傷つくとか気にするとか、そういう事を勝手に決めつけないでよ。わたしは確かに弱っちいただの小娘だけれど、そこまで脆いわけでもない
        んだからね?」
        彼女が「怒った」理由を理解して、剣心ははっとする。
        薫は、たった今彼を叩いた手のひらで、今度は同じ場所をそっと優しく包みこむように触れた。

        「けれど、まぁ、正直に言うとね。わたしは聖人君子じゃないんだから、そりゃたまには巴さんのことを考えてやきもちを焼くことだってあるわよ。剣心が好き
        だったひとなんだし、わたしの知らない昔の剣心を知っているのは単純にうらやましいなぁって思うし、それに」
        薫の表情が、ほんの少しだけ、揺らいだ。
        「・・・・・・剣心と巴さん、お互いに嫌いになって終わったのとは、違うわけだし」


        剣心が「それは・・・・・・」と口を開きかけたので、薫はそれを阻んだ。
        彼の首に両手をまわして、ぐいっと抱き寄せて自分の胸に顔を埋めさせるという、かなり力技な方法で。

        むぎゅっと抱きしめられながら、剣心は目を白黒させる。
        無理矢理引き寄せられたちょっと苦しい体勢だけれど、彼女のぬくもりに包まれるのは心地よかった。



        「ああもう! むしろ、剣心がそういう顔するのが気になるのっ!」
        「・・・・・・え?」
        「困った顔っていうか・・・・・・迷子の子供みたいな顔してるんだもん」



        思いがけない指摘に、剣心は息を飲む。薫は彼の頭を掻き抱き、緋い髪に唇を寄せた。なんだか、いつもと逆みたいだわ、と思いながら。
        そして、幼子を諭す母親のような優しい声で、腕に抱いた大好きなひとにむかって語りかける。
        「あのね、剣心。他人が聞いたら詭弁とか綺麗事とか言うかもしれないけれど・・・・・・わたしね、踏み込みたくないの。剣心と巴さんとの思い出の中には」
        これは大切なことだから、きちんと誤解がないよう伝えたいから。薫はゆっくりと唇を動かして、丁寧に言葉を紡いだ。

        「巴さんとの思い出って、最後は、悲しいものになってしまったけれど・・・・・・それだけじゃなかったでしょう? 辛かった頃に支えてもらって、幸せだった思い
        出もいっぱいあるんでしょう?」


        悲劇がきっかけで始まり、結びついたふたりだった。
        幕切れもやはり、悲劇で終わってしまった。

        でも、ふたりの間には穏やかで優しい時間も、確かに存在したのだ。
        決して長くはなかったが、幸福に過ごせた時間はあったのだ。だから―――


        「上手く言えないけれど・・・・・・わたしのやきもちなんかで折角のふたりの思い出を汚しちゃうのは、嫌なの。大事な思い出は、ちゃんと大事にしていてほ
        しいの。わたしのことを気にして、剣心がそんな困った顔するの・・・・・・見たくないのよ」

        薫は、腕の力を緩めた。
        剣心が、顔をあげる。まだ彼の首に腕を絡めたまま、薫は明るい色の瞳を覗き込んだ。


        「だいたい、今までの過去とか思い出とか、そういうものが全部あるから、今の剣心があるんでしょう? わたしが好きになったのは、その剣心よ。あなたの
        過去も思い出も、全部一緒にひっくるめて―――今ここにいるあなたの事が、わたしは好きなの」
        だから、あなたの過去がわたしを傷つけるとか、もう言わないで、と。薫はまた少し怖い顔になって剣心を睨む。


        剣心は薫の眼差しを受けながら、驚いたように目を大きくする。
        もし、自分が彼女の立場だったとしたら、彼女の過去も思い出もすべて受けとめて彼女を愛するだろう、と。そんな事を考えていた。

        そんな事を考えていたけれど―――君は既に、ずっと前からそうやって俺のことを好きでいてくれたんだ。
        こんなにも大きく。限りなく優しく。過ちも後悔も、すべて包み込んでくれるように。




        「あと、もうひとつ―――剣心、勘違いしてる」
        「え?」
        「わたしがこの前、巴さんと一緒になった頃についてあなたに訊いたのはね、嬉しかったからなのよ」
        「・・・・・・え?」

        怪訝そうに問い返す剣心に、薫はくすっと笑ってみせた。
        首を前に傾けて、額をこつんと剣心のそれにぶつける。


        「だって、真太くんって剣心に似ているじゃない。だからね、あの時『ああ、十四歳の剣心ってこんな感じだったのかなぁ』って思って・・・・・・昔の剣心に会え
        たような気分になっちゃったの」


        想像もしていなかった言葉に、剣心は一瞬声を失い薫をまじまじと見つめた。そして、慌てたように「いや! だからそんなに似ていないでござるよ!」と否
        定する。
        「もう!そりゃ瓜二つとまではいかないけれど、そうやって想像できるくらいは似てるってば!・・・・・・だからね」
        この期に及んで「似ていない」に拘る剣心を薫は軽くたしなめ、それから―――ふわりと優しく目を細める。





        「わたしが知らない十代の剣心に、わたしも会えたような気がして・・・・・・嬉しかったのよ」













        9 「はじめての」へ 続く。