5  ふたりきり










        「お疲れ様でしたー!」



        真太の身の上話を聞いてから、数日後。前川道場での稽古を終えた薫は、開け放たれた戸口から見える空の青さに目を細める。
        いい天気だ。日差しの下は結構な暑さだろう。いよいよ本格的な夏の到来だな、などと思っていたら、どん、と突然背中を押された。
        びっくりして振り返ると、門下生の少年たちが、ぐいぐいと薫の背中を押していた。

        「え? ちょっとみんな、何?」
        「薫さん、川に行きましょう! 川遊び!」
        「川・・・・・・?」
        「せっかくこんないい天気なんだから、みんなで遊びに行こうって話になったんですよ」

        川遊び、と薫は口の中で反芻した。確かに、去年もこんな暑い日に稽古の帰りにみんなで遊びに出かけたことがあった。今日みたいな日に、冷たい水に
        足をつけるのは気持ちいいだろうけれど―――
        「弥彦も行くって言ってますよ。だから、薫さんも一緒に行きましょうよ」
        そう言って、薫の腕を引っ張ったのは真太だった。薫は皆の「絶対に連れて行くぞ」的な勢いに目を白黒させながら、くるりと後ろを振り向いた。


        「・・・・・・ですって、剣心」
        「ああ、それは楽しそうでござるなぁ」


        その声に、少年たちも一斉に振り返った。
        ・・・・・・そうだった、今日はこいつもいたんだった、と。真太は薫に気取られないよう、こっそり目を半眼にする。
        剣心の声の調子はのんびりと穏やかで、顔にはにこにこ微笑が貼りついていたが、視線の圧は相当なもので―――その無言の迫力に負けて、真太は
        抱えるようにして掴んでいた薫の腕をしぶしぶ離した。

        剣心が前川から「もっと顔を出すように」と言われたのはつい先日の事で、今日は早速それに応えて稽古を覗きにやって来た。しかしながらそれは半ば建
        前で、一番の目的は真太の牽制である。剣心が薫についてきた時点で、真太も彼の意図に感づいてはいたが、牽制されているということは向こうも自分
        を「敵」と認めたということだ。


        自分の倍以上の年齢の相手に敵と認識されたということは、手応えはあるということだろう。
        真太は、そう前向きにとることに決めた。






        ★






        前川道場からほど遠くない場所に、水遊びにはうってつけの川がある。
        子供が足をつけて遊べる程度の深さで、流れもさほど早くないのでうっかり転んでも大事には至らない。適度に岩がごろごろしていて、運がよければ魚も
        捕まえられる。そんなわけで年少の門下生たちは、真夏だけといわず余程の寒い季節以外は、ちょくちょくこの場所に足を運んでいる。

        剣心は、ここに来るのは二度目である。一度目は昨年京都から帰ってきて間もない頃で、今日と同じ様に稽古の後に水遊びに繰り出した門下生たちと薫
        についてきたのだった。その時は―――子供たちの前では水には入らずに、河原で皆が清流と戯れるのを眺めていた。


        「ひゃー! 気持ちいいっ!」
        「魚探そうぜ! 魚!」

        少年たちは川に到着するや否や、履物を脱ぎ捨てて次々と流れに踏み込んでゆく。
        「薫さんも、早くー!」
        真太や他の子供たちに呼ばれた薫は、隣に立つ剣心の顔をちらりと覗き見た。
        「行ってくるといい、拙者はまた、ここで待っているでござるよ」
        「・・・・・・うん、じゃあ、そうしようかな」
        薫はちょっと笑うと、下駄を脱いで裸足になり、子供たちに続いて川に足をつけた。剣心は適当な岩を見つけると、そこに腰掛ける。

        強い日差しに、河原の石も熱を持っている。今日の暑さなら、水に入るのも気持ちよいだろうなと思った。
        弥彦の笑い声が聞こえた。そちらに視線をやると、他の子供たちと一緒になって水面を蹴り上げ、飛沫をかけ合っているのが見えた。屈み込んで岩の間
        に魚を追いこんでいる少年もいれば、はしゃいで転んですでに頭からびしょ濡れの子供もいる。薫はといえば、真太や他の数名と流れに足を浸したまま追
        いかけっこをしているようだ。



        剣心はその様子を目で追いながら「・・・・・・さて、いつ頃がいいかな」とひとりごちた。











        「ごめん! わたし、一旦休憩!」


        薫がそう言ったのは、水に入ってから十分ほど経った頃だった。
        「えー? まだほんのちょっとしか遊んでないじゃないですかー!」
        不満の声をあげたのは、勿論真太である。薫は「ごめんねー、でも・・・・・・」と謝りながら、河原の方を示す。真太がそちらを見ると、岩から腰をあげた剣心
        が薫に向かって軽く手を振っていた。

        「呼んでるみたいだから、ちょっと行ってくるわね」
        薫はそう言って、ぱしゃぱしゃと水面に飛沫を作りながら河原へと向かう。「邪魔をするなんて大人気ないぞ」と真太は思ったが、だからといって「そんなの
        無視して遊ぼう」と駄々をこねては、逆にこちらが子供だと思われてしまうだろう。そう考えて、無理に引き止めはしなかった。

        また後で戻ってきてくれるかな、と。そんな事を思いながら、水から上がった薫の姿を遠目に眺める。
        薫は川のほとりで待っていた剣心と喋っているが、真太のいる位置からでは内容までは聞き取れない。何の話をしているのだろうと思っていると、ふたり
        が何か頷きあうのが見えた。そして、それを合図にしたように―――剣心と薫は、ぱっと河原の小石を蹴って走り出した。


        「なっ・・・・・・!?」
        真太は目をむいた。川沿いに駆け出したふたりの姿が、あっという間に小さくなってゆく。
        「どうした? 何かあったのか?」
        血相を変えた真太に、弥彦は声をかける。真太は此処からどんどん離れてゆくふたつの背中を見ながら「か、薫さんたちがっ!」とうわずった声をあげた。
        弥彦は真太の視線の先を追い、ああ、と納得したように頷く。
        「上流のほうに行ったんだろ、確か去年もそうやってふたりで抜け出してたぞ」
        真太は「ふたりで・・・・・・」と呟いてから、ざばざばと水を蹴って河原へと向かった。

        「おい、どうする気だよ」
        「決まってるだろ、 追いかけるんだよ」
        「やめとけって、お邪魔虫になるぞ?」
        「だからって! ふたりきりにさせとくのを我慢できるかよ!」


        真太は返事をするのももどかしい様子で弥彦に叫び返し、濡れた足もそのままで下駄をつっかけ走り出した。
        上流を目指す後姿を見送りながら、弥彦は呆れたように「って、あいつら家に帰りゃ年中ふたりきりだろうが・・・・・・」と呟く。他の少年たちも同意して、一様
        に頷いた。







        ★






        木漏れ日が水面に落ちて、きらきらと光がはじける。
        冷たい水に足を浸しながら、薫は白い首を反らして空を仰いだ。

        川面を渡る風が、長い髪を梳くようにして流れてゆくのが心地よい。
        思わずうっとりと目を閉じると、心の呟きをなぞって読んだかのように剣心も「気持ちいいでござるなぁ」と言った。


        門下生の皆と遊んでいた場所から上流に向かって暫く進むと、そこは木々が生い茂ってちょっとした森の佇まいになっている。木陰がある所為か、裸足に
        なって踏みこんだ水は下流より冷たかったが、暑い中走った後の身体にはその水温が気持ちよい。
        「剣心、ありがとね」
        薫は振り向いて、後に続いて川に入ってきた剣心に笑顔を向けた。
        「昨年と、反対でござるな」
        そう言って、剣心も笑う。

        前の夏も同じ面々で川遊びをしたが、その時は薫が剣心をこの場所まで連れ出した。「ここなら大人である剣心も、他の門下生たちに気兼ねなく水遊びが
        できる」というのがその理由だったが―――今回は逆に、剣心が薫を岸に呼び戻して「上流に行こうか」と誘ったのだった。


        「でも・・・・・・わたし、そんなに顔に出てたかしら?」
        「いや、大丈夫でござるよ。気づいたのは拙者くらいではないかな」
        心配そうに尋ねる薫に、剣心は首を横に振ってみせる。薫は「よかった」というふうに、すとんと肩を落とした。
        「何でもお見通しなのね、剣心は」
        「そうありたいと思って、日々努力しているでござるから」
        おどけたように答える剣心に、薫は「見習わなくちゃ」と笑った。剣心は薫に歩み寄り、袴の裾を持ち上げている手に触れた。

        「不思議ね、去年までは何とも思わなかったのに、なんだか今日は・・・・・・恥ずかしいなって思っちゃって」
        おかしいわよね、といいながら、薫は剣心のつま先を自分のそれで軽くつつく。


        去年までは、門下生たちと一緒になって水遊びをすることに、何の抵抗もなかった。
        しかしこの度は何故か、裸足になって袴をたくし上げて水に入ることを「恥ずかしい」と感じてしまったのだ。
        もっと正確に言うと、普段は着物や袴の裾に隠れている足首やくるぶしを人目に晒すことを―――恥ずかしいと、感じてしまった。
        それでも、周りで楽しそうにはしゃいでいる子供たちの手前、薫はその事を口に出して言わずにおいた。だが、剣心は彼女から投げかけられた視線と、川
        に入ったときの表情とで心情を察して―――頃合を見計らって、薫を呼んだのだ。

        「拙者としては嬉しいでござるよ? 子供相手とはいえ、薫殿の肌を他人に見せたくはないでござるから」
        「肌って言っても・・・・・・足じゃないの。確かに恥ずかしいなって思ったけれど」
        「色っぽいでござるよ? 薫殿の足は」
        つぅ、と。剣心はつま先で、薫の足の甲をなぞった。
        「きゃ! ちょっと、こらっ!」

        悪戯するのを軽く蹴飛ばしてやると、お返しとばかりに柔らかく指先を踏まれる。
        ぱしゃぱしゃと水面を揺らしながらじゃれあっていると、薫が僅かにバランスを崩して小さな悲鳴をあげた。剣心は傾いた細い肢体を、ぎゅっと抱きしめて支
        える。


        「・・・・・・恥ずかしいと思うようになったのは、大人になったからでござろうな」
        耳元で、低く囁かれて。その台詞に含まれる意味に気づいて、薫の頬にさっと血が上る。
        「・・・・・・その言い方、なんだか、いやらしいわ」
        拗ねた口調で咎めると、剣心は「でも、それで間違いないでござろう?」と、くすくす笑いで耳朶をくすぐる。耳元に口づけられたので、薫はお返しのつもり
        で首をのばして、剣心の頬にちゅっと唇を寄せる。ふたりは顔を見合わせて笑って―――どちらともなく、唇を重ねあった。


        木漏れ日と涼風と、足をくすぐる清流が心地よい。
        そして勿論、互いのぬくもりも。


        「・・・・・・涼みにきた筈なのにね」
        そう言って薫が笑うと、剣心は「それとこれは別でござるよ」と、より強く細い身体をかき抱いた。








        ―――そして。



        彼らを追いかけて川沿いを辿ってきた真太は、ようやく見つけたふたりの様子を遠目に眺めながら、どうすることもできずに立ち竦んでいた。







        ★







        「おかえりー。なぁに? どこかに寄ってきたの?」
        「うん・・・・・・道場のみんなと一緒に、川に」

        帰宅した真太を出迎えた叔母は、彼があからさまに元気の無い顔をしているのに首を傾げた。「ただいま」の声もうっかりすると聞き逃してしまうくらに小さ
        かったし、さては新しくできた友達と喧嘩でもしたのだろうか、と叔母は考えた。
        「すみません、道着ちょっと泥で汚しちゃって・・・・・・自分で洗いますから」
        「ああ、いいのいいの川遊びしたなら仕方ないわ。そんなのわたしがやっておくから後で脱いで渡しなさい。それより、ほらっ」
        ぱっ、と。顔の前に白い何かを突き出され、真太はびくっとする。あまりに近すぎてすぐには焦点が合わなかったが、どうやら、手紙のようだ。
        「さっき届いたばかりよ。ずいぶんしょぼくれた顔してるけど、それ読んだらきっと元気になるわよ」
        「・・・・・・ありがとう、叔母さん」

        にこにこ笑う叔母から手紙を受け取り、真太は礼を言う。元気づけようとしてくれる厚意は嬉しいが、俺はそんな傍目にもわかりやすい落ち込み方をしてい
        るのか―――と、自分はやはり単純な「お子様」なのかと思い、また数段深く落ち込んだ。



        真太の叔母は、彼があてがわれている自室に引っ込んで暫くしてから、その部屋の戸を叩いた。
        昨日、叔母夫婦のもとにも同じ差出人から手紙が届いている。内容についてはおおよそが同じであろう。あの手紙は真太にとってはさぞ嬉しい知らせの
        筈だ、きっと喜ぶに違いない。叔母はそう思って、真太に声をかけたのだが―――

        「真太、入るわよ? 洗濯するなら、道着を・・・・・・」
        彼女の台詞は、中途半端なところで途切れた。理由は、部屋の空気があまりにもずっしり重かったからだ。
        真太は、着替えもせずに部屋の真ん中にへたりこむようにして座っていた。手には、既に読み終えたのだろう。開封されたあの手紙がある。


        「・・・・・・叔母さん」
        「な、なぁに?」

        叔母の予想に反して、真太は元気になるどころか死刑宣告を受けたような顔つきになっている。
        地の底から響いてくるような低い声で呼ばれ、叔母は思わず後ずさりをしそうになった。


        「叔父さんの若い頃の道着で、試合用のって、ある?」
        「え? ええ、あるわよ。これを着たら負け知らずだったっていう験のいいやつ、まだとってあって・・・・・・」
        「明日、それ貸してください」
        思いつめたような真太の雰囲気に圧倒されながらも、叔母は「試合でも、あるの?」と尋ねた。



        真太は手紙を封筒に戻し、中空をぎっと睨みつけた。
        まるで、そこに視線をむけるべき相手が存在しているかのように。




        「・・・・・・討ち入りですよ」






        ★






        「ひと雨、来そうだな」



        洗濯物をとりこみながら、剣心はひとりごちた。頭上に広がる空は、昨日とはうって変わって鼠色の雲に覆われている。いつ泣き出してもおかしくなさそう
        な空を仰ぎ、「帰ってくるまでもってくれるとよいが」と考える。
        現在薫は外出中で、傘は持って行かなかった筈だ。いっそ迎えに行ったほうが手っ取り早いかな、などと思いながら縁側の沓脱石に足をかけた剣心は、
        人の気配に気づいた。

        ばさり、と洗濯物を畳の上に落とし、玄関に向かう。
        そこに立っていた客の姿を認めた剣心は、僅かにだが、眉をぴくりと動かした。


        「・・・・・・薫殿なら、出かけているでござるよ」


        白い道着に身を包み、竹刀袋を手に玄関に現れたのは、真太だった。
        剣心の言葉に、彼はほんの少し口の端を持ち上げ、笑っているような顔を作る。
        「それは、よかったです。今日はあなたに用があったので、むしろ留守でありがたいくらいです」
        「おろ、拙者に? 何の用でござるか?」
        剣心はあくまでにこやかに、他の年少の門下生たちに接するのと同じ柔らかな物腰で、そう尋ねた。真太は口許にあった笑みらしきものをふっと消し、険
        しい顔で剣心を睨みつける。



        「俺と、勝負してください」



        もし、この場に剣心の腕前を知っている第三者がいたならば、真太の発言を出来の悪い冗談ととって大笑いしたことだろう。
        しかし、真太は大真面目であり、勝負を申し込まれた剣心もまた笑うでもなく驚くでもなく、真太と同じ色の瞳を二、三度瞬かせると―――



        「承知したでござる」





        あろうことか、そう答えた。













        6 「対決」へ 続く。