4  身の上ばなし









        薫が道場に戻ると、竹刀を手に床に座り込んでいる少年の姿があった。



        「・・・・・・真太くん?」
        名前を呼ばれて、真太が顔を上げる。
        「剣心が、真桑瓜切ってくれたの。一緒に食べない?」
        「ありがとうございます! これ終わったら、すぐに行きますから・・・・・・」

        竹刀の中結が緩んでしまったのを結び直しているらしく、真太は再び手元に目を落とした。
        横に立った薫は、なんとなく彼の顔を眺めてみる。


        緋い前髪と長い睫毛の下に覗く、真太の目。
        色素のやや薄い、暖かで優しい瞳の色は、薫の良人と同じ色だ。

        剣心は頑なに似ていないと主張していたが―――もし、彼等と面識のない者にふたりを同時にひきあわせて「兄弟です」と紹介したならば、間違いなくそ
        う信じられるだろうな、と薫は思った。


        「・・・・・・真太くん、今日うちで稽古してみてどうだった?」
        自分も床に腰をおろしながら、薫は尋ねた。真太は作業の手を止めて顔を上げる。
        「楽しかったです、とても!」
        そう言う彼の目は生き生きと輝いていた。真太は竹刀を脇に置いて、ぐっと拳を握って薫の顔を見る。
        「まだ俺、始めたばっかりですからここでも前川先生のところでも基礎が中心ですけれど・・・・・・それでも、今まで全然やったことのないことをやるのって、
        面白いです! それに、一所懸命身体を動かして集中していると、家のことも考えずにいられるし・・・・・・」

        そう言った真太の表情が、僅かに曇るのを薫は見逃さなかった。そういえば、真太の実家は鎌倉だと聞いた。では、彼はどんな理由があって東京に出て
        きて、叔父のもとに身を寄せているのだろうか。
        真太は、薫の瞳に疑問の色が宿るのに気づいて、ちょっと笑ってから話し出した。


        「この前、鎌倉で結構大きな火事があって、何軒か焼けちゃったんですよ。うちもその一軒です」


        思いがけない答えに、薫は驚きに目を大きくする。
        しかし真太はさして重い調子になるでもなく、話を進めた。

        「あ、幸いとか言っちゃいけないかもですが、うちは火元じゃなかったです。でもまぁ、焼けたのは事実で、俺はこうしてまったくの無傷で逃げられたんです
        けど、とにかく色々大騒ぎで」
        「・・・・・・じゃあ、あの、ご家族・・・・・・は?」
        ためらいがちに訊くと、真太はすっと薫の瞳を見て、そして困ったように笑った。
        「・・・・・・寂しいものですね、俺ひとりだけ、っていうのは」
        薫ははっとして息を飲む。真太は彼女に言葉を挟ませずに早口で続けた。

        「いや、叔父さん一家のところに身を寄せてるんで、ひとりじゃないんですけど。叔父さんたちは大好きですし、色々大変そうだからとりあえずしばらくは東
        京で暮らせって言われて、嬉しかったんですけれど」
        そこまで言って、真太は俯いた。薫と同じ、高い位置で結った髪がさらりと流れて、彼の表情を隠す。
        「でも、時々『今頃鎌倉はどうなってるのかなぁ』とか、やっぱり考えちゃいますから。だけど、道場で稽古をしているときって、そういうのが頭に浮かぶ暇が
        ないっていうか」
        真太は、再び顔をあげた。その表情は、曇りのない笑顔だった。



        「きっと俺、夢中になれるものが欲しかったんだと思います。だから・・・・・・薫さんには感謝しているんです」



        薫は、唇を噛んだ。
        まだ子供なのに、家族を突然に亡くしたばかりなのに、こうして笑顔を見せる真太のいじらしさに、胸を突かれる思いだった。
        慰めの言葉をかけようとした薫は、喉まで出かかった台詞を飲みこんだ。きっと、彼を力づけるのはそんな言葉ではないだろう。むしろ―――

        「・・・・・・じゃあ、よかったら、またうちの稽古にも参加してちょうだい? 他の子たちも、真太くんが来てくれたらきっと喜ぶわ」
        「え?! いいんですかっ?!」

        明らかに、輝きが増した目で真太は身を乗り出した。そして今の自分の反応には「不純さ」が混じっていなかったかと思って慌てて顔を引き締める。薫は
        忙しく表情を変える彼に微笑んで、「そろそろ行きましょ、全部食べられちゃうわよ」と促した。
        「あ、ちょっと待ってください、これ直しちゃうんで・・・・・・」
        真太は竹刀を拾い上げて、刀身の中結をきつく締めようとした。ぎこちない手つきに、薫は首をのばして彼の手元を覗きこむ。
        「大丈夫? 結び方わかる?」
        「はい、前川先生に教わったんですけど」
        「ちょっと、見せてみて」


        すっ、と。
        薫の白い指が竹刀へと伸ばされる。
        真太のすぐ目の前で、ふわりと黒髪が揺れた。

        「こうやって、弦の下にくぐらせて・・・・・・」
        薫は説明しながら中結を直してみせたが、真太にはほとんどその声は届いていなかった。
        薫の伏せた睫毛から目が離せなくなった真太は、胸の奥で鼓動がばくばく高鳴り始めるのを感じていた。


        どうしてだろう、このひとのそばにいると、こんなにも胸が苦しくなる。
        このまま手を伸ばして、柔らかそうな髪に触れてみたいと思うけれど、とてもじゃないが指を動かせそうにない。
        せっかくふたりきりなのだから、何かこのひとを喜ばせるようなことを言いたいのに、舌が固まってしまったみたいだ。

        身体が動き方を、口が喋り方を忘れてしまったようで―――それはきっと、この近すぎる距離の所為だろう。
        初めての感覚に真太は戸惑ったが、それでも彼は蛮勇をふるって眉間に力をこめた。
        そして、竹刀に添えられた薫の指に手を伸ばそうとして―――



        「真桑瓜、なくなってしまうでござるよ」



        よく通る低い声が道場に響き、真太はぱっと手を引っ込めた。
        戸口の方を見やると、そこには薫の良人が―――剣心が立っていた。


        「やだ、ちょっと待って! わたしと真太くんのぶんとっておいてよー!」
        薫は慌てて中結を締めると、竹刀を真太に返した。
        「沢山買ってきたのだが、みんな気持ちいいくらいの食べっぷりで・・・・・・さすが育ち盛りでござるなぁ」
        「今日みたいな暑い日には特に、冷たい果物はご馳走だもの。さ、真太くんも行きましょ」

        真太は薫の言葉に素直に「はい」と答える。
        しかしその後剣心に向けた視線はひんやりと冷たく、そこには「よくも邪魔しやがって」という抗議の意が満ち満ちていた。






        ★






        「・・・・・・でね、そういう訳で真太くんは東京に来たんですって」



        弥彦や真太、そして他の門下生たちが帰路についた後、薫は道着から普段着に着替えながら真太が叔父のもとにひきとられた経緯を剣心に話した。
        「そんな事情があったなんて思わなかったわ、真太くん明るい子だから・・・・・・でも、精一杯そう振舞っているだけなのかもね」

        襖に背中で寄りかかりながら話を聞いていた剣心は、薫の声から深い同情の色を感じて身を起こした。そして、おもむろに襖を開けて部屋に踏み込む。
        薫は驚いて振り向いたが、既に着替えは帯締めを結べば終わる段階だったので、「覗くなー!」という声をあげるようなことはしなかった。


        「薫殿」
        「なぁに?」
        「あの子の身に起きたことは気の毒だと思うし、拙者もできる限り力になるが・・・・・・でも薫殿は、あまりあの子を特別扱いしては駄目でござるよ」
        目の前に立ってそう言う剣心の瞳は思いがけず真剣で―――けれど、何をそこまで真剣に心配しているのか判らず、薫はきょとんとする。

        「別に、そんな特別扱いするつもりはないけれど・・・・・・」
        「でも、いつでも道場に来てもよいと言ったのでござろう?」
        「言ったけど・・・・・・でも、わたし普段から大抵の子にそう言ってるわよ?」

        例えば、稽古を見学に来た子供がいればそのように言って、まずは何度か自由に足を運んでもらう。そうしているうちに本格的に剣術に興味を持つように
        なったら、正式に入門してもらう。そんな流れで門下に入った子供は何人もいるので、薫は同じような感覚で真太に「いつ来てもよい」と言ったのだ。
        しかし剣心は「そういう事ではなくて」というふうに眉を寄せてため息をついた。


        「・・・・・・あの子は、薫殿に懸想しているでござろう。むやみに優しくして妙な気を持たせるような事はしないほうが良い、と言っているんでござるよ」


        薫は呆気にとられたように目をぱちくりさせ、そして、可笑しそうに笑った。
        「笑い事ではないでござるよ・・・・・・」
        剣心はまたひとつため息を吐きながらそう言うと、薫の前に膝をついた。先程から薫の手は、帯の前で交差させた帯締めを持ったまま動きが止まってしま
        っている。剣心はその手から帯締めを取り上げると、ぐっと力をこめて引っ張った。弾みで足元がよろけそうになった薫は、「あ、男のひとの力だ」と思う。

        「苦しくない?」
        「ううん、ちょうどいい」
        「ここ、これでいいでござるか?」
        「そう、ここにくぐらせて・・・・・・はい、そのまま引っ張って」
        緩まないように、薫は帯締めの結び目を指で押さえる。そこを剣心がぎゅっときつく締めて、一結びする。薫は残った房の部分を帯の両脇に回しながら、
        「ありがとう」と微笑んだ。剣心は薫の前に膝をついたまま、彼女を見上げて諭すように続ける。
        「薫殿が、指導者としての親切をもってあの子に接しているのはわかっているでござるよ。しかし、向こうは明らかに違うでござろう?」


        真太は薫のことを「剣の先生」としてではなく、明らかに異性としての好意を持って接近してきている。
        そんな相手に、同情からとはいえ今まで以上に優しく接したとしたら、いったいどうなることか。
        それが気が気でならないというのに―――しかし薫は剣心の心配を余所に、にこにこ笑いながら彼の髪へと指をのばす。

        「・・・・・・剣心、また妬いてる」
        髪を撫でる細い指が気持ちよかったが、剣心はその甘い感覚を振り切るようにしてすっくと立ち上がり、むぅ、と睨むように薫の目を見据えた。
        「薫殿があんまり無防備だから、心配なんでござるよ」
        叱っているというよりは拗ねているような声に、薫は「ちょっと子供みたいだな」と可笑しくなったが、勿論口には出さない。何にせよ、こうやって素直に妬か
        れるのは嬉しいことなのだし。でも。


        「大丈夫よー、わたし昨日も言ったでしょ? 真太くんはまだ子供なんだから、そんな心配することないってば」
        「確かに子供だが・・・・・・それでも、十四歳でござろう? ならば、まるきり子供というわけでもなかろう」

        剣心の反論に、薫は少し目をみはって、二度三度とまばたきに睫毛を上下させた。
        そして、剣心を見つめながら唇に指をあて、「そういえば・・・・・・」と小さく首をかしげる。



        「剣心が巴さんと一緒になったのって、真太くんくらいの頃だっけ」



        思いがけない台詞に、剣心は言葉を失った。
        なんと答えたものかと幾許かの間逡巡した後、言いにくそうに唇を動かす。

        「いや・・・・・・拙者は、十五でござったよ」
        剣心は目を泳がせながらそう言ったが、薫はごく普通の調子で「あ、そっか。でもだいたい同じ年頃よね」と納得したように頷く。



        ―――なんだか、余計な藪をつついてしまったような気がする。



        薫は純粋に胸に浮かんだ疑問を口にしただけで、きっと他意はないのだろう。
        とはいえ、釘を刺すつもりが結果として話が微妙な方向に流れてしまい、剣心はそれ以上何も言えなくなった。








        この日、真太の話はそれで終了となったが―――
        剣心は弥彦の「例外に気をつけろ」という忠告のとおり、今後も彼に対しては警戒を怠らないようにしようと胸に誓った。




        随分と、大人気ない誓いではあったが。











        5 「ふたりきり」 へ続く。