3  更にアプローチ










        普段着の夏物を脱いで、道着に袖を通す。
        自室の姿見の前に立った薫は、きゅっと袴の腰紐を締めて、気合を入れるようにふうっと息を吐く。


        もうすぐ門下生の子供たちがやってくる。弥彦も今日は彼等につきあいたいと言っていたから、間もなく顔を出すだろう。
        薫は居間を通って道場に向かおうとしが、壁に掛けられた日めくりが視界の隅に入り、一旦足を止めた。

        日めくりに手をかけて、ぱらぱらとめくる。
        次の出稽古までまだ数日あるなと思い、なんとなくため息が唇をついて出た。



        昨日赤べこで、真太にきつい言葉を吐いてしまった。



        いくら言われたくない事を正面から言われたとはいえ、彼に悪気はなかったのだ。と、いうか彼なりに一所懸命好意を伝えようとして素直に言ったことが、
        あの内容だったのだろう。
        ある意味、自分も「素直に」気持ちを言葉にして返したとも言えるが―――子供相手に些か大人気なかった、と思う。

        もし、これがきっかけで真太が剣術から離れてしまったら、それは悲しいことだ。
        薫はもうひとつため息をつくと、日めくりから指をはなして小さく自分の頬を手ではたいた。

        「いけないいけない、こんな情けない顔見せてちゃ駄目よね」
        ひとりごちて、唇の端に指を添えてぐいっと上向きに持ち上げる。その動作をきっかけに気持ちを切り替えたつもりで、薫は再び歩を進めた。


        と、道場に近づくと、賑やかな音が聞こえてきた。
        どたどたと、素足が床を蹴る音。一度止まって、再び同じリズムの足音が続く。

        ああ、雑巾がけをしているのだな、と気づいた。
        まだ門下生の子供たちは来ていない筈だから、この時間だと弥彦だろう。一番に来て掃除をするなんて随分殊勝なことだ―――などと思っていたら、後ろ
        から声をかけられた。


        「うぃーっす、今日も暑くなったなー」
        「ほんと、梅雨が明けたばかりなのにね・・・・・・って、え!? 弥彦!?」

        驚いて振り向くと、そこには竹刀を担いだ弥彦の姿があった。と、いうことは―――
        薫はぱっと身を翻し、小走りで廊下を進んだ。そして、道場の戸口をくぐると明るい声に出迎えられた。



        「あ、お邪魔してます、薫さん!」



        屈んで床を拭いていた真太が、顔を上げて機敏な動作で立ち上がる。咄嗟に挨拶を返せず目を白黒させている薫に、追いついてきた弥彦が背中から声を
        かけた。
        「俺が連れてきたんだよ。昨日真太に頼まれてさ」
        「頼まれたって・・・・・・真太くん、いったいどうして・・・・・・」
        「まずは謝らせてくださいっ! すみませんでしたっ!」
        尋ねる声を遮って、真太はがばっと頭を下げた。


        「昨日は失礼なことを言ってしまいました! 俺、絶対に不純な気持ちで剣を学んだりはしません! 前川先生の下で真面目に精進します! 本当に、すみ
        ませんでした!」


        床に頭がつかんばかりに腰を折り曲げて謝る真太に、薫は呆気にとられる。つまり―――こうして謝罪するために道場まで押しかけたということか。
        「こいつ、どうしても謝りたいって言ってさ。で、次の出稽古でお前が前川道場に来るまで待ちきれないっていうから」
        「だから、あんたが案内してきたの?」
        「ついでに、行動で誠意を示したほうがいいんじゃないかって助言しといた」
        「・・・・・・って、あんたがやらせたのね!? ここの雑巾がけ!」
        「いえっ!弥彦くんの言うとおりです!むしろこんな事くらいじゃ俺の気が収まらないっていうか・・・・・・なんだったら、今日はここの家中全部掃除しますっ!
        ってゆーかさせてくださいっ!」

        きっちり腰を折りたたんだままの姿勢で、真太はそう言い切った。顔は見えないが―――子供らしい大きな声からは、真剣さが感じられた。
        なんというか、昨日あれだけきつい台詞を浴びせられたのにもかかわらず、こうして翌日すぐに自分のもとにやってきた真太の逞しさというか「図太さ」に、
        薫は感心してしまった。

        謝るだけ謝って、それでもまだ真太は腰を曲げたままの頭を上げようとしない。彼の頭の上でひとつに結われた髪が、床にむかって垂れてゆらゆら揺れ
        ていて―――その、剣心と同じ色の緋い髪を見ていたら、何故だか薫は無性に可笑しくなってきた。


        「・・・・・・顔、上げて」
        ぴく、と真太の肩が反応したが、それでも礼の姿勢は崩れない。その幼い頑なさに、薫はこみ上げるくすくす笑いをなんとか押しとどめながら、「掃除はい
        いから、稽古、していく?」と続けた。
        「・・・・・・え?」
        「そんなに言うなら、誠意は稽古で見せてちょうだい? ちゃんと、真剣に剣に向き合っているところをね」

        真太はばっと勢いよく頭を上げた。薫を見上げるその目は明らかに歓喜にきらきら輝いていたが、また「浮ついている」と思われたくなかったのだろう。「あ
        りがとうございますっ!」と言いながら再び深く頭を下げて顔を隠す。




        彼らのやりとりを脇で眺めていた弥彦は、薫の耳に入らないよう小さな声で、こっそり「お人好し」と呟いた。






        ★






        買出しに出ていた剣心が戻ってくると、道場の方からの賑やかな気配が玄関先にまで届いていた。
        風にのって流れてくる子供たちの元気な声に目を細めながら、剣心は台所に向かう。結構な荷物だった真桑瓜をごろごろと台の上に転がすと、ひょいと手
        元を覗きこんだ顔があった。


        「ずいぶん沢山あるんだなぁ」
        「おろ、弥彦。稽古の途中では?」
        「ちょっと水飲みに来たんだよ・・・・・・美味そうだな、それ」
        「うん。ひとつ所望したら、今朝はたくさん穫れたのでおまけをつけると言われて、このとおりでござるよ。稽古が終わったら皆でいただくことにしよう」

        普段よく利用しているという行商の農婦から買い求めたのだろう。良い買い物をしたとほくほく顔の剣心を見ていたら、弥彦はなんだか申し訳なくなってき
        た。つい「一番高い肉」に買収されてしまい、真太を道場に連れてきたのは自分である。子供の横恋慕程度で、この夫婦の間に波風が立つことなどないと
        は判ってはいるのだが、しかし―――


        「・・・・・・前に剣心、薫以外の女は、女と思ってないって言ってたよな」
        「おろ、よく覚えているでござるなぁ。そのとおりだが、それがどうかしたでござるか?」
        あれはかなりインパクトのある発言だったから忘れるはずがない。そう思いながら弥彦は続けた。

        「薫も間違いなく、お前以外の男は男と思ってないんだろうけど・・・・・・例外ってのはあるかもしれないから気をつけろよ」
        「は?」
        「いや、今お前に似た顔の奴が来てるからさ」


        弥彦はそう言うと、汲み置いてあった水を一杯飲み干してから台所を出て行った。
        剣心は怪訝そうに眉を寄せる。自分に似た顔の人物といえば―――自分ではそう似ているとは思っていないのだが、心当たりはあの少年しかいない。
        なんとなく胸騒ぎをおぼえた剣心が道場の方へ足を向けようとしたら、廊下から弥彦の「真桑瓜、冷やしておいてくれよー」という声が飛んできた。内心を
        見透かされたようなばつの悪さを感じつつ、剣心は回れ右をして真桑瓜を抱え上げた。











        薫が思っていた以上に、真太は「真剣」だった。
        勿論、剣術に対しての姿勢が、である。


        彼はつい先日前川道場に入門したばかりで、それまでは一度も竹刀を持ったことがなかった初心者だ。なので、今日の稽古では薫は真太にすぐに竹刀
        を持たせず、足払いの練習や素手での上下振りなど、前川道場でもみっちり叩き込まれているであろう基礎をまずは復習させた。
        神谷道場に通っている門下生は皆真太より年下の者ばかりで、そんな彼らが横で竹刀を振るっている間も、真太はその事に頓着せず黙々と課せられた
        練習をこなしていた。更には、自分よりずっと年下の子供にも「今日一日よろしくお願いします、先輩!」と挨拶をし笑わせたりもしていた。


        そして後半、彼に竹刀を持たせてみた薫は、「この子は伸びるかもしれない」と思った。


        真太は言われたことはすぐに飲み込むし、身体の動きものびやかで無駄な力が入っていない。
        上達するかどうかには向き不向きの素質も関係するが、勿論当人の真剣さが大切である。真太の場合剣術を始めようと思った動機は不純だが―――
        「真面目に精進する」と言ったのは、口先だけではないようだ。

        昨日赤べこで、真太から剣を始めた理由を聞いたときは腹もたったし悲しくもあったが、今日、彼が叱責にもめげずにやってきて真面目に稽古をしている姿
        を見ていると、「素質がある子がやめないでくれて良かった」と思えてくる。


        薫はそんな自分に気づいて「我ながらほんとに剣術馬鹿だなぁ」と可笑しくなって、ひとりこっそりと笑いを漏らした。







        ★







        「薫先生、真太お兄ちゃんは?」


        稽古を終えた後、薫が顔を洗って縁側へと足を運ぶと、一番年少の門下生が駆け寄ってきた。
        「真太くん? あら、ほんと、いないわね」
        あたりを見回した薫が首を傾げると、他の子供が「真太兄ちゃんならまだ道場にいたよ」と教えた。
        「何してるのかしら? ちょっと呼んでくるわね。真桑瓜があるって教えてあげなきゃ」
        「あ、薫殿、それなら拙者が・・・・・・」

        ちょうど縁側に顔を出した剣心は「呼びに行こう」と続けたかったのだが、いかんせん彼の手には切った真桑瓜を乗せた盆があった。稽古で喉をからからに
        した子供たちは切り口もみずみずしい瓜を見るなり一斉に剣心の袴に飛びついた。あっというまに囲まれて身動きがとれなくなってしまった剣心を見た薫
        は、笑って「やっぱり、わたしが行ってくるわね」と踵を返した。

        「いや、薫殿、ちょっと・・・・・・」
        剣心は食い下がろうとしたが足元にまとわりつく子供たちをふり払うわけにもいかず立往生する。


        無念そうな剣心の顔を眺めながら弥彦はまた申し訳ない気持ちにかられたが―――ひとまず自分の分は確保せねばと思い、子供たちの群れに加わって
        盆の上へと手を伸ばした。









        4 「身の上ばなし」へ続く。