「すみません、お食事中失礼します」
出稽古の翌日の、昼時だった。
剣心とふたりで赤べこで牛鍋をつついていた薫は、上から降ってきた声に口許を押さえて顔をあげる。
そこに立っていたのは見覚えのない壮年の男性だった。
薫が「誰だったかしら」と首を傾げるのと同時に、男性の背後から昨日知り合ったばかりの少年がひょこっと顔を出す。
「薫さん、こんにちはっ!」
「真太くん・・・・・・あ、じゃあこちらの方は」
「どうも、昨日は道場で真太がお世話になったそうで・・・・・・」
そう言って、改めて挨拶をした男性は真太の叔父であった。薫は慌てて口のなかにあった肉を飲み込み、剣心も居住まいを正す。
ふたりは自己紹介をしようとしたが、真太の叔父は「緋村剣心さんに薫さんですね、お噂はかねがね伺っております」と機先を制した。
「噂・・・・・・でござるか?」
「そりゃもう、この界隈で剣術をかじった者にとってはお二方は憧れの的ですから。当代一の剣客と剣術小町が夫婦になったと、年の初めにはこれまた評
判になっていましたし」
面映い台詞を笑顔で言われて、剣心と薫は縮こまるように恐縮する。薫は赤面しながらも「叔父様は、前川道場に通っていらしたんですか?」と尋ねた。
「ええ、大した腕前でもなかったんですが・・・・・・あの頃は楽しかったですなぁ。先日真太を連れて道場まで挨拶に行ったのですが、懐かしかったですよ。
先生もお変わりなくて何よりでした」
前川のひととなりをよく知る剣心と薫は、顔を見合わせて微笑んだ。きっと前川も、かつての教え子が縁者を連れて再び門を叩いてくれたことを喜んだに
違いない。
「前川先生に教えていただけるんですから、きっと真太くんは上達しますよ。ご存知のとおり、とてもいい先生ですから」
「はい、そう願いますよ。まぁ、しかし・・・・・・真太としてはわたしが神谷活心流の門下じゃなかったことが不満なようでしたが」
「え・・・・・・?」
真太は「ちょ、余計なこと言うなよ!」と小声で言いながら叔父を小突いたが、叔父はむしろそんな真太の反応を面白がるように、にやにや笑いながら話を
続けた。
「いや、こいつはですね、東京に着いた日にたまたま稽古帰りの薫さんの姿を見かけたんですよ。それで、あの女剣士は誰だって熱心に訊いてきまして
ね。生意気に『どうしてもあの綺麗な剣術小町に指南をお願いしたい』と言ってきかないものですから、それなら前川道場でならと・・・・・・」
「あーもういいから! 叔父さん喋りすぎだよっ!」
「あははははすまんすまん、それではお二方とも、どうもお邪魔をしました」
真っ赤になった真太に背中をぐいぐい押されながらも叔父はふたりに挨拶をし、妙の案内で席に向かった。剣心は「あー、どうもでござる・・・・・・」と答えな
がら、ちらりと横目で薫の顔を覗き見た。
案の定、薫の表情はぴしりと固まって、口許がこわばっている。
剣心は小さく息をついて、薫の手元の皿を取り上げた。新しく煮えた肉をよそって、うつむいた彼女の前に置いてやる。
「残したら、妙殿に叱られるでござるよ」
剣心の声は優しかった。薫は「・・・・・・うん、ありがとう」と言って再び箸を握り、年頃の娘らしからぬ勢いでかきこむように肉を食べ始める。その様子はまる
で小さな子供が拗ねているようで、剣心は「かわいいな」と目を細めた。しかし―――
今しがた現れた真太。
たまたま赤べこを訪れたらそこに薫がいた、というような風情だったが、はたして本当に偶然なのだろうか。
薫に会いたいが為に、狙いすましてこの時間に店に来たのではないか、と。
そう勘ぐってしまうのは、穿った見方だろうか―――
実際、それは剣心が想像したとおりだった。
真太は給仕にやってきた弥彦を捕まえると、肉の皿を取りながら苦情を申し立てた。
「なんだよ、お前の言うとおり確かに薫さんはいたけれど、もうあらかた食事も終わる頃じゃねーか。くっそ、もっと早く来てりゃ良かったなー。っていうかち
ゃんと正確な時間も教えてくれよー」
「阿呆か! 何時何分に来るかとかそんな細かいこと俺が知るわけねーだろーが!」
昨日、帰り道で真太は「近々どこに行ったら薫さんに会えるのか教えてくれ」と弥彦に詰め寄り、弥彦は呆れつつも「明日は赤べこで昼飯食うって言ってた
ぞ」と伝えたのだった。
★
「あのっ、薫さん!」
鍋を食べ終えた剣心と薫は、会計を済ませて店を出ようとしたところで真太に声をかけられた。
叔父を残して、ひとり席を立ってきたらしい。
「えーと、すみません、さっき叔父さんが言ってたことなんですけど・・・・・・」
「・・・・・・なあに?」
促す薫の声は硬く、隣に立つ剣心は口の中で小さく「おろろ」と呟いた。
しかし、真太は薫のそんな様子には気づかずに話を続ける。
「叔父さんは、なんか面白おかしい感じに言ってましたけどそうじゃなくて・・・・・・俺、真剣ですから」
「真剣って、何が?」
「あの日偶然薫さんのことを見て、心から、また会いたいって思ったんです。そうしたら叔父さんが前川先生の門下だったっていうから、この繋がりを逃し
ちゃいけないと思って。俺も剣術を始めたら、薫さんにまた会えると思って、だから・・・・・・」
「真剣になるところを、間違えているんじゃないの?」
薫のその声は、大きくはなかったが硬質な厳しさに満ちていて、真太の言葉を遮るには充分な迫力だった。
え、と真太は不思議そうな顔を薫に向けたが、続く言葉は更に容赦のないものだった。
「真剣になるべきところは、剣そのものにでしょう? それじゃああなたの師匠になった前川先生に対して失礼よ。そんな浮ついた気持ちで剣術を始めたん
だとしたら・・・・・・残念だわ」
きっぱり言い切ると、薫はくるりと踵を返し真太に背を向けた。剣心は、咄嗟に声も出せないような様子の真太に軽く会釈をしてから薫を追った。
彼女の隣に並んで歩きながら、すっと手をのばしてリボンを結んだ髪に触れる。
「びっくりするほど、素直でござるなぁ」
「・・・・・・素直ならいいってもんじゃないわよー!」
わざと少しおどけた調子で剣心が言うと、薫は我慢ならないとばかりに大きな声をあげる。すれ違う人々の驚いた視線が集まり、剣心は苦笑しながら薫
の頭をわしわしと撫でた。怒っているように見えるけれど、これは泣きたいのをこらえているときの彼女の顔だ。できれば肩を抱き寄せてやりたいところだ
が、人目があるのでそれについては断念する。
真太は実に正直に「薫に会いたくて剣を始めた」と言ったが―――実際、似たようなことを考えている若者は多いのだ。
以前、前川が剣心に「彼女を客寄せに使っているようで申し訳ない」と語ったこともあったが、剣術小町に稽古をつけてもらうことを一種の「娯楽」のように
考えて道場に足を運ぶ者は少なくない。
そして薫自身も、その事実を知らないわけではない。自分は真剣に剣術に向き合っているというのに、竹刀を交わす相手が期待しているのは剣の腕では
なくただ「女であること」なのかと思うと、悲しく情けなくなるときもある。
しかし、前川をはじめ彼女が世話になっている道場主たちは皆、薫が若い女性であることは関係なしに、単純に技量と剣術に対する姿勢に信をおいて稽
古に招いてくれているのだ。その事も判っているから―――だから、その信頼に応えたいと思いながら、薫は剣を教えている。
たとえ不純な動機で通ってくる者がいたとしても、浮ついたことなど考える暇もないくらいにびしばししごいてやろう。
薫は常にそう思っているし、むしろそのくらいの気概がなければ女の身で剣の師匠などやっていけるわけがない。とはいえ―――
「・・・・・・あそこまで堂々と言われちゃったら、やっぱりへこむわよ・・・・・・」
「まぁ、本当に不純な動機だけだったら、薫殿の稽古に辟易して早々に道場通いもやめてしまうでござろう。しかし、そこは師範代殿の手腕でござろう?」
「・・・・・・うん、そうよね」
「ちゃんと剣術に向かい合ってくれうよう、発奮させることが出来るといいでござるな」
「・・・・・・うんっ! ありがとう剣心、わたし、頑張る!」
ぐっ、と拳を握った薫の目には既に使命感の火が点っており、剣心は更に彼女を元気づけるように背中を叩いた。
そして―――「それはいいのだが、しかし」と唐突に声を低くする。
「それは別として、拙者も拙者で大いに気に食わないのだが」
「え? 何が?」
「何がではないでござるよ。さっきのあれは、殆ど告白みたいなものでござろう?」
「え、そうかしら?」
剣心は「何を呑気な」というふうに深刻そうに眉根を寄せると、首を横に振った。
「しかも、隣に拙者がいるにもかかわらずでござるよ? あの少年、拙者の事が目に入っていないのか、それとも地蔵か木像の類とでも思っているのでござ
ろうか・・・・・・」
あからさまに不機嫌な語気に薫は目を丸くして、そしてくすりと笑った。
「剣心、妬いてるの?」
「妬くというか、いや、だって仮にも良人が横で聞いているというのにまた会いたいだの真剣だのと―――」
「やっぱり、妬いてるんだ」
剣心はくすくす笑いをこぼす薫の顔をちらりと見て、小さくため息をつく。そしてぐいっと薫の手を捕まえて、指を絡める形に繋いだ。
街中だけれど、まぁ肩を抱くよりは恥ずかしくないだろうと心の中で言い訳をしながら。
「まったく、よくもあれだけ堂々と、思ったことをそのまま口に出せるものでござるな」
薫はうっすら頬を染めながらも、その手を振りほどきはしなかった。絡めた指を袖で覆って人目から隠すようにして、ほんの少しだけ隣を歩く剣心との距離
を縮める。
「まだ子供だから、あんな事が言えるのよ。妬いてくれるのは嬉しいけれど、ちょっと相手が幼すぎるんじゃない?」
「薫殿だってその子供相手に、さっきは結構きつく言っていたでござろう」
「・・・・・・きつかったかしら、やっぱり」
薫はかくんと首を前に倒して、うーんと唸った。
もともと薫は、年少の門下生を叱るときは遠慮なしにしっかり叱っている。けれど先程の真太に対しての言葉には、子供を「叱る」のとは違う鋭さがあった。
剣心に指摘されたとおり、薫自身もそれを自覚していたし―――その理由も、自分で判っていた。
「だって・・・・・・あの子、剣心に似てるんだもん」
「は?」
予想していなかった言葉に、剣心は思わず聞き返す。
「剣心と似てるくせにあんなこと言うものだから、なんだか悲しいのと腹立たしいのとでわけがわからなくなっちゃって、つい・・・・・・あそこまできついこと
言うつもりじゃなかったのになぁ・・・・・・」
「と、いうことは、拙者を叱りつけているつもりであんな口調に」
「ううん! それは違うの! だって剣心があんなこと言うわけないもん!」
薫は勢いよくぶんぶん首を横に振り、剣心の問を即座に否定する。
悪気がなかったとはいえ、真太は薫が気にしていることを、言われたくない言葉を次々と口にした。薫にしてみればそれだけでも充分堪えるというのに、
更には「剣心に似ているのに、どうしてこんなことを言えるんだろう」という思いも加わって―――結果として、つい厳しい言葉を吐いてしまったのだ。
「だから、そんなに似てないでござるよ・・・・・・拙者とあの子は別の人間でござるし」
「ん、そうよね。剣心の言うとおりだわ」
あくまでも「似ていない」を強く主張する剣心に、薫はくすりと笑みをこぼした。それから、小さく肩を落とす。
「きつい言い方になっちゃったのは、単にわたしが感情的になっちゃったからなのよね・・・・・・そこは、わたしこそ反省しなきゃだわ」
「なに、今日は弥彦も赤べこにいるのだから、きっと今頃とりなしてくれているよ」
「弥彦がねぇ・・・・・・却って変なこと吹き込んでいそうで心配なんだけれど」
もう、とっくに赤べこは視界から消えてしまってはいるけれど―――なんとなく後ろを振り返りながら、薫はそう呟いた。
その真太は、薫に「残念だわ」ときつい言葉を見舞われたときとまったく同じ姿勢で、赤べこの店先に立ち尽くしていた。
後ろ姿はとっくに見えなくなっていたが、それでも薫が歩き去った道の先に顔を向けたままぼんやりしていると、ひょいと店の中から弥彦が顔を出す。
「な、わかったろ? あのとおり薫は重度の剣術バカなんだよ。あいつの頭の中は剣心と剣術の事しかねーんだから、早いとこ諦めて・・・・・・」
弥彦は手にした盆の縁で真太の背中を小突きながら、とりなしというか駄目押しの声をかけた。しかしそれは―――感極まった声で遮られる。
「・・・・・・かっこいい・・・・・・」
「は?」
弥彦は真太の目に回りこんで、自分よりも高い位置にある彼の顔を見上げた。
その頬はどういうわけか赤く上気して、遠くを見つめる瞳はなんだかやたらと輝いている。
「すっげぇぇぇ! かっこいいっ! なんか、ぴしっと綺麗に芯があるっていうの? 毅然としているっていうの? うわどうしようかっこいいよ薫さんー!」
弥彦はじりりと一歩後ずさった。
興奮気味にまくしたてる真太に反比例するかのようにげんなりと眉を下げ、薄気味悪いものを見る目で真太の顔を見る。
「悪趣味の横綱級がもうひとりいた・・・・・・」
いや、結婚していると知りながらのこの盛り上がり様からいって、ある意味趣味の悪さは剣心以上かもしれない。弥彦はうそ寒い思いで肩を竦めると、真
太を置いてそそくさと店に戻ろうとした。が、その襟首を後ろからむんずと掴まれる。
「いやー、惚れ直したっていうのはこういう事を言うのかなー。あの高潔さ、四民平等の世になっても日本人が失くしちゃいけない侍の心だよなー・・・・・・」
「あいつは女だから侍じゃねーだろ。つーか離せ、俺は仕事に戻るんだ」
「弥彦、ちょっと頼みがあるんだけど」
「人の話聞いてるか!?」
弥彦の襟首を捕まえながらぶつぶつ呟いていた真太だったが、思いのたけを吐き出しきって満足したのか、今度はおもむろに「お願い」を切り出した。
真太の頼みに対して「嫌なこったなんで俺がそんなこと」とはじめははねつけた弥彦だったが、「この店で一番高い肉注文するから」と手を合わせられ、
渋々ながら了承した。
3 「更にアプローチ」 へ続く。