16  笑顔










        一世一代の告白をしてあえなく撃沈した真太は、剣心がいなくなったあと、悔しさと悲しさで涙がこみ上げてきて止まらなくなった。
        周りに人目がなかったのをいいことに、制御できない感情にまかせて泣くだけ泣いたら、見事に赤く泣きはらした目になってしまった。

        このまますぐに帰ったら確実に叔父に「何があった」と問い詰められるだろう。そして、事の次第を話したものなら完膚なきまでの失恋に叔父は大爆笑する
        ろだう―――いや、違うか。これだけの騒ぎを起こしたのだから、まず怒られるのが先だろうか。


        とにかく、すぐには叔父宅に帰る気にはなれなくて―――真太は社に寄りかかって座り込み、ひとりぼんやりと遠くの縁日の喧騒に耳を傾けていた。小さ
        いとはいえ、神様を祀っている社を背もたれにするのは罰あたりかとも思ったが、先程仲間のひとりが扉を壊してしまったのだから今更だろう。あれについ
        ては、自分も同罪であると思っているし。

        心地よい夜風を頬に受けながら、潮騒のようなざわめきを聞いているうちに、いつしか真太はうつらうつらしてしまったらしい。
        幾許かの間、意識が途切れて―――はっと我に返ったのは、背中にかたんと小さな振動を感じたためだった。



        「う・・・・・・わっ?!」
        短いまどろみから覚めるなり、真太は驚きの声をあげる。
        なんとなれば、目を開けて振り向くと、すぐ近くに小さな女の子が立っていたからだ。



        年の頃は六つか七つくらいだろうか。つややかな髪は肩の上できっちり切りそろえられたおかっぱで、真っ赤な着物に明るい山吹色の帯を締めている。
        眦が僅かに上がった子猫のような大きな丸い目が、じいっと真太を見つめていた。

        「・・・・・・おどかすなよ、吃驚したじゃないか・・・・・・なんだお前、ひとりなのか?」
        縁日の会場から離れたこの場所に、この時間小さな子供がひとりでいるということは、迷子だろうか。その割には、少女からは不安げな様子は感じられな
        い。少女は問いには答えずに、無言で真太を―――と、いうより、彼の手元を凝視している。
        「あ・・・・・・これか?」
        視線に気づいた真太が、軽く手をあげてみせる。そこにあったのは例の狐面だ。

        「これ、紐が片方とれかけてるんだけど。でも、欲しいならあげるよ」
        面を差し出すと、少女はそれを受け取ってしげしげと見つめた。紐の部分が壊れそうになっているのはさして気にならないようで、撫でてみたり額の前にか
        ざしてみたりして、そして、満足そうににっこりと笑う。邪気のない笑顔につられて口許をほころばせた真太は、立ち上がって袴についた土をほろった。
        「後で、誰か大人に直してもらうといいよ。っていうか、もう遅いから帰ったほうがいいぞ? 父さんや母さんと一緒に来てるなら、俺がそこまで・・・・・・」


        連れて行ってやるよ、と。言うつもりだった。
        しかし、真太は今の今まで目の前にいた少女の姿がかき消えているのに気づいて、言葉を途切れさせる。



        「あ、れ・・・・・・?」



        いや、違う。
        あの子がいなくなったんじゃなくて―――ここは、何処だ?

        今は夜だった筈なのに、何故か昼間のように明るくなっている。頭上を仰ぐと、そこには澄み渡った水色の空。
        そして、神社の境内のはずれにいた筈なのに、まわりにはちらほらと通行人の姿―――真昼の、往来である。



        真太はきょろきょろとあたりを見回した。
        なんだろうこれは。俺は夢でも見ているのだろうか?

        ここはいったい何処で―――いや、この場所は知っている。叔父さんの家に向かう、何度も歩いたことのある道だ。
        そうだ、はじめて薫さんの姿を見たのも、この道を歩いているときで―――


        と、その時。
        後ろから近づいてきた気配が、立ち竦む真太の横をすっと追い抜かした。



        「・・・・・・え?」



        梅雨の名残の水たまりを、彼女は軽々と飛び越えた。
        飾り気のまったくない紺の袴の裾を軽くさばいて、小さく助走をつけるようにして一歩踏み込んで。
        青空を映した水たまりを難なく飛び越え、着地に成功した彼女はぱっと笑顔になった。



        「薫、さん・・・・・・?」



        きらきらと、光が弾けたような笑顔。
        そうだ、この時だ。


        この時、はじめて薫さんの姿を目にして、この笑顔を見て―――この瞬間から、はじまったんだ。



        高い位置でひとつに結った髪が揺れて、ほんの僅かにだが、甘い香りが漂う。
        袖からのぞくとがった肘は胴着の白に負けないほど白く眩しくて、真太は思わず目を細めたが―――次の瞬間、小さく息を飲んだ。
        水たまりを飛び越えて、嬉しそうに笑った薫。その笑顔の先に、ひとりの男性が立っているのが見えた。


        「・・・・・・剣心さん・・・・・・」


        その男性―――剣心は、薫に笑顔を返す。
        薫は軽やかな足取りで彼の傍へと向かい、そしてふたりは楽しげに話しながら並んで歩き出す。



        ―――なんだ、そうだったのか。



        俺があのとき、なんてきれいなんだろうと思った、あの笑顔。
        あれは、ただ笑ったのではなく、剣心さんに向けて笑った顔だったんだ。
        薫さんが、大好きなひとのために見せる笑顔を、俺はたまたま目にしてしまって、そして―――


        真太は、すとんと肩を落として、ほんの少し笑った。
        先程薫は、「真太くんが好きになったわたしだって、『剣心のことが好きなわたし』なんだよ?」と言っていた。






        ほんの少しだけ、その意味がわかったような気がした。













        「やあ、捜しましたよ。こちらに戻られていたのですか」



        耳に飛び込んできた知らない声に、真太は我に返る。
        気がつくと、そこは夜の神社の小さな社の前で、傍らにはあの赤い着物の少女が立っていた。
        そして、もうひとり。そこには仕立てのよい洋物のスーツを着た、老紳士の姿があった。

        何故か彼の手には屋台で買ったであろう白玉の器があって、真太の目にはそれがなんだか不釣り合いな印象に映った。が、少女は老紳士とその器とを
        目にしてぱっと顔を輝かせた。


        「あ・・・・・・ひょっとして、この子のおじいさん、ですか?」
        少女の反応から察してそう尋ねると、老紳士は「はい、そのようなものです」と首肯する。少女は彼の前でぴょんぴょん飛び跳ねて白玉の器に手を伸ばそ
        うとしていた。
        「申し訳ありません、屋台にこれを買いに行っていたものでして・・・・・・この子がご迷惑をおかけしていたのでは?」
        「あ、いや全然そんなことないです。迷子じゃなくてよかったというか・・・・・・」
        真太は顔の前で手を振って、老紳士が恐縮するのを制する。そして、白玉の器を手に目をきらきらさせている少女を見て―――

        「なんか、おかげで吹っ切れました。納得いって、すっきりしたというか」
        「はて・・・・・・?」
        「あ、いいえ、なんでもないです」



        どうしてだろうか、今の光景は―――薫にはじめて会った瞬間の、あの過去の光景は、この少女が見せてくれたような気がした。
        そんな夢みたいな事があるわけはないと、わかってはいるけれど。でも、何故かそう思えてならなかった。



        「・・・・・・じゃあな、ありがとう」
        真太が礼を言うと、少女は匙を持った手を申し訳程度に振ってみせた。彼女の興味は、既に白玉の器の方に移っているらしい。真太はまた少し笑うと、老
        紳士に頭を下げて踵を返した。


        まずは、帰って叔父さんに怒られよう。
        そして、明日は道場のみんなにお礼を言って、神主さんにも謝りに行こう。

        東京にいられるのはあと少しだ。鎌倉に帰ったら、いい剣術道場を探してそこに通おう。
        もっと努力してもっと強くなって、そうして日々を送ってゆくうちに、剣心さんが言ったように―――いつか、薫さんよりもっと好きになれるひとに出逢えるか
        もしれない。それが、何年先になるかはわからないけれど。



        自分でも意外なほど素直にそう思えたのは、先程見た「過去」の薫の笑顔の所為かもしれない。
        ひとり家路を急ぎながら、真太はそんなことを考えた。








        ★








        「明日には扉の修理にとりかかるそうですが、元のように直るのには一週間かかるそうです」



        少女にもの問いげな目を向けられた老紳士は、「一週間とは、最近取り入れられた日数の区切りで、七日のことだそうですよ」と説明する。そして、軽くた
        め息をついて壊れた扉に手をかけた。
        「大分痛んできていましたから、壊れるのは時間の問題とは思っていましたが・・・・・・でも、こちらにいる間、あまり悪戯をされてはいけませんよ」

        彼の「注意」を聞いているのかいないのか、少女はどこ吹く風という風情で白玉を口に運んでは美味しそうに目を細めている。老紳士はやれやれと肩をす
        くめて、少女の足元に無造作に置かれた狐面に目をやった。先程の少年から貰ったものだろう。

        「そうは言っても・・・・・・もう遅かったようですね」
        まぁ、あの少年の場合は一瞬の出来事だったし、遡ったのもほんの数日前の過去なので、さして問題はないだろう。
        去り際の真太の清々しい表情を思い返しながら、老紳士はそう判断することにした。







        赤い着物の少女は小さな声で「いっしゅうかん」と呟き、そして白玉をもう一個口にした。
















        
初恋〈前奏曲〉 了。 
             そして、「初恋」へ続く。





                                                                                         2014.05.21






        モドル。