初 恋







     1 満月の夜












        「・・・・・・泣いて、いるの・・・・・・?」





        仄暗い部屋の中、目に映るのは見慣れた天井。
        身体に預けられた剣心の遠慮のない重さを感じながら、薫はぽつりとつぶやいた。
        仰向けになった彼女の胸を枕にしていた剣心は、のそりとそこから頭をあげる。


        「何?」
        「泣き声が、聞こえなかった?」

        剣心は身体をずらして薫の顔を覗きこみ、眦に溜まった涙をぺろりと舐める。
        「薫殿が泣いてる」
        「わたしじゃなくて・・・・・・」
        泣かせた張本人にそう言われて、薫は頬を染めてそっぽをむく。


        「誰かが泣いてる声が聞こえたような気がしたの。子供の声だと思うんだけど・・・・・・」
        「拙者には聞こえなかったが・・・・・・夢でも見たのでござるか?」
        「眠ってないもん」
        「うん、まだ寝るには早い」

        剣心は横を向いた薫の首に指を這わせ、汗で貼りついた髪を掻き分ける。露わになった白いうなじに軽く歯を立てられ、薫は僅かに身を捩らせた。
        「夢じゃないなら・・・・・・幽霊とか妖怪とかの声かな」
        「やだっ! 怖いこと言わないで!」
        怯えたように身を震わせた薫が、慌てて剣心にすがりつく。それを幸いと、剣心は抱きついてくる細い身体を布団に強く押しつけて、唇を唇で塞いだ。



        「好き・・・・・・」



        この夜、幾度も聞いた言葉がもう一度繰り返される。
        何度言われても、耳に届く度に頭と身体の奥が熱くなって、このまま溶けてしまうのではないかと心配になる。

        薫は夢中で腕をのばして、剣心の背を抱きしめようとした。
        再び始まった交わりに、彼のこと以外考えられなくなる。






        それでも、おそらく空耳であろうその微かな泣き声は、何故か薫の心の隅に引っかかってなかなか消えようとしなかった。









        ★









        「今日も凄い人ねぇ」




        縁日の、二日目である。
        神社の参道は初日に負けず劣らず、大勢の人で溢れていた。


        昨晩、剣心と薫は「夜店に行きたい」という弥彦と燕に付き添って縁日に足を運んだのだが、実はそれは前川道場の少年たち主導による「計画」の一端だ
        った。彼らが起こした騒ぎによって、薫は剣心から引き離され連れ去られ、とある少年から「告白」をされて―――そんなこんなと色々あって、思いがけず
        ばたばたした一夜となってしまった。
        せっかくの縁日は、やはりゆっくり楽しみたい。と、いうわけで剣心と薫は仕切り直しのつもりで、今夜改めてふたりで繰り出したのだった。

        「まぁ、このくらい賑やかなほうが、縁日にはちょうど良いでござろうな」
        剣心が鷹揚にそう言って、薫は「確かにそうねぇ」と頷いて微笑んだ。今夜の彼女は白地に紫陽花の浴衣姿である。微妙に色調の異なる紫や桃色の花
        がいくつも散って、帯は目の覚めるような青色。まとめあげた髪には帯とよく似た色の蝶のかんざしが挿されている。


        「あの子たちには可哀想なことしちゃったわね。普通に縁日、楽しみたかったでしょうに」
        薫が指して言ったのは、前川道場の年若い門下生たちのことである。彼らは昨日ここで騒ぎを起こし、そのうちのひとりは図らずも摂社の扉を壊してしまっ
        た。その後大人たちに捕まって大目玉を食らった彼らは、罰として今年いっぱい交替で境内の掃除をさせられることになったらしい。

        「真太くんが、後から事情を話しに行ったみたい。そしたら、ちょっぴり情状酌量がついたらしくて―――あ、勿論わたしの名前は出してないって弥彦が言
        ってたけど」
        「当然でござる。あんな馬鹿な企みの所為で、薫殿にまで累が及んでたまるか」
        薫に横恋慕をしていた少年の名前を聞いた途端に、剣心はあからさまに不機嫌な顔になった。あまりに急すぎる表情の変化が可笑しくて、薫はつい笑っ
        てしまったが、剣心はその反応にますます眉間の皺を深くする。
        「笑い事じゃないでござるよ。あいつはもう子供と言い切れる年齢でもないでござろう? もし変な真似でもするつもりだったのなら―――」
        「真太くんはそんな悪い子じゃないし、万一そんな事になったとしても、わたしはあの子くらいなら撃退できるわよ。それに、結局は剣心だって追いかけて
        きて、傍についててくれたじゃない」
        「それは・・・・・・そうでござるが」


        剣心は人混みに押されるふりをして身体を傾けると、そのまま薫の手を捕まえた。薫も同様にそっと肩を寄せて「・・・・・・でも、ごめんなさい」と、囁くような
        声で謝る。剣心は小さくため息をつくと、「またこんな事があったら、次は許さないでござるよ」と、殊更に低い声で凄んでみせた。ついでに、握った手にぎ
        ゅっと力をこめる。強すぎるくらいの力加減がむしろ嬉しくて、薫はされるがままになっていた。

        「みんな罰そうじは命じられたけれど、秋のお祭りには御神輿を担がせてもらえるらしいわよ。それについては喜んでいたみたい」
        「おろ、ご褒美もつくとは重畳ではござらんか。いい機会だから、ここはたっぷりと善行を積んで―――」


        と、ふたりが昨日のことについて話していると―――まるでその騒ぎをなぞって再現するかのように、参道の先でわっと声があがった。



        「ひったくりだぁっ!」



        楽しげなざわめきとは明らかに異質な叫びが響く。
        ふたりははっとして声がした方へ顔を向ける。夜店をひやかす人々の群れの中、前方の人混みに不自然な乱れを見つけた。
        参道の真ん中で、被害に遭ったとおぼしき洋装の老人が膝をついているのが遠目に見えた。助け起こしている男性が「誰かぁっ! そっちに逃げやがっ
        た! 捕まえてくれぇっ!」と大声をあげる。

        剣心が、ぱっと反射的に薫を見る。
        「行って!」
        薫も反射的に頷いて言う。困った人を見逃せない点は似た者同士の夫婦だ、剣心はちょっと笑ったような表情を見せて、繋いだ手を離して地を蹴った。
        混雑をものともせず、人々の間をすり抜けるように走り出した剣心の背中が、あっという間に見えなくなる。薫は、ふぅ、とひとつ息をついた。


        うまく捕まえられるといいな、と思いながら、薫は参道の脇に寄る。
        剣心が戻ってきた時にすぐわかるように、このまま同じ場所で待っていようと思った。

        縁日の会場に溢れる人波の賑やかさは、道の先で起こった騒ぎの物騒な気配をあっという間に押し流してゆく。
        人いきれの暑さを感じながら、薫が参道の客たちを眺めていると―――白い狐と、目があった。



        一瞬、前川道場の誰かかと思った。昨晩騒ぎを起こしたとき、彼らは全員狐の面をかぶっていたから。
        でも、そうではなくて―――面を手にしていたのは、赤い着物を身にまとった小さな女の子だった。



        人混みのなか、少女はひとりで歩いていた。
        年の頃は六つかそこらだろうか。おかっぱ頭の小さな少女が、きょろきょろと物珍しげに露店を眺めながら大人たちの間を歩く様子は、まるで藻の繁った
        水中をひらひらと泳ぐ金魚のようで、薫は目をひかれた。誰か大人は一緒じゃないのかしら、などと思っていたら、すれ違う人に軽くぶつかった少女が、薫
        の目の前ですてんと転んだ。

        「きゃ・・・・・・大丈夫!?」
        薫は慌てて駆け寄って、縁日の客の足から庇うようにして少女に手を貸す。少女はさして痛そうな様子でもなく、むしろ「何が起こったんだろう」というような
        不思議そうな顔で立ち上がる。
        「どこも痛くしなかった? はい、これ・・・・・・あら?」

        転んだはずみに取り落とした面を手渡そうとして、薫はその面が壊れかけていることに気づいた。
        紐を通してある部分の片方がよれて、今にも紐が取れそうになっている。
        「そっか・・・・・・だからかぶらないで、手に持っていたの?」
        少女がこくんと頷くのを見て、薫はちょっと考えた。そして少女の手をとって、「おいで」と参道の脇へと促す。


        縁日客の邪魔にならない場所に立ちどまって、薫は少女に「これ、お姉ちゃんが直してもいい?」と訊く。
        少女はぱちぱちとまばたきをして、それから大きく頷いた。

        薫は微笑んで、とれかかっていた紐を引っ張り、一度面から外した。そして、おもむろに自分の髪に手をやると、青い蝶のかんざしをすっと抜く。
        ふわり、と長い髪が肩から背中へと流れた。薫はかんざしの先端の尖った部分を、もともと紐が通っていた穴から少しずらした位置に突き立てる。
        注意深く面の脇に新しい穴を開け、かんざしの先で押し込むようにしてそこに紐を通した。左右のバランスを確かめながら調節をして―――


        「はい、できあがり」
        薫が狐面をかざしてやると、少女はぱっと顔を輝かせた。
        「かぶってみる?」
        少女が頷いたので、薫は小さな顔に面をあてがって、頭の後ろで紐を結んでやった。少女はくるりと振り向き薫の前に立つと、深々とおじぎをする。狐面ご
        しにくぐもった声で、小さく「ありがとう」と言うのが聞こえた。「どういたしまして」と薫は笑って返したが、こんな時間に明らかに弥彦より年下の少女がひと
        りで歩いていることが気になった。

        「ねぇ、あなたおうちのひとと一緒に来たの? もしかして、迷子になっちゃったの?」
        おろした髪をざっと適当にまとめ上げた薫は、しゃがんで狐の顔に向かって問いかける。返事をしない少女に「お父さんかお母さん、わたしも一緒に探しに
        行こうか?」と提案すると―――少女は答えるかわりに、すっと薫の前に手を差し出した。


        薫は、半ば反射的にその手をとった。
        狐の目が、じっと薫を見ている。


        何故だろう、面越しだというのに、少女の子猫のようなまるい大きな瞳にじっと見据えられているのをひしひしと感じる。
        少女が、薫の手をひいた。

        「・・・・・・ついて来て、って?」
        少女は薫の問いに頷きながら、なおも握った手を引っ張る。
        なんだか、昨日の再現のようだ、と思う。またしてもついて行ったりしたら、今度こそ剣心に怒られるかしらとも思ったが、相手が迷子の幼子となれば話は
        別だろう。薫は小さな手に従うことにする。しかし―――








        「ねぇ・・・・・・ほんとにこっちでいいの?」



        どういうわけか、少女が進む方向まで昨日と同じだった。小さな摂社がある、縁日の賑わいから離れた方へ、少女は歩いてゆく。こんな寂しいところで、連
        れが待っているというのだろうか。
        狐の耳が立ったおかっぱ頭を見下ろしながら歩いていた薫は、ふと清涼な風が首筋を撫でるのを感じて、顔をあげた。

        今日は日中かなり気温が上がったため、夜になっても空気は昼間の熱を孕んだままで、ましてや縁日会場は大勢の人出である。
        その熱気もあって、じっとしていても汗ばむような夜なのだが―――この風は、どこから吹いてきたのだろう。


        「・・・・・・あら?」


        心地よい涼しさに一瞬気をとられた薫は、次の瞬間、視線を下に落として目をみはる。
        今の今まで手をつないでいた、少女の姿が―――消えていた。


        「・・・・・・えっ!?」
        慌ててあたりを見回したが、金魚のような赤い着物姿はどこにも見当たらない。
        気づかぬうちに手をすり抜けて先を急いだのかとも思ったが、子供の足で、そんな僅かな間に遠くまで行けるとも思えなくて―――

        「うそっ、やだ、どこ行っちゃったの!?」
        きょろきょろと首を動かして少女を探す薫は、もうひとつ違和感に気づいた。
        ここは、薫も小さい頃から馴染みのある神社のはずれにある道で、つい昨日も歩いた場所のはずだ。
        その筈だが、なんだか昨日より、周りの藪が濃く茂っているような気がする。道幅も狭いし、木々の様子も違うように感じるし―――それに、此処はこんな
        にも暗い場所だっただろうか?



        と、その時。
        風にのって、微かな声が聞こえた。



        昨夜、寝所で聞こえた声。どこか聞き覚えがあるような、子供の。
        あの女の子かしら。わたしとはぐれてしまった所為で、泣いてしまったのかしら。

        ううん、この声は、あの子とは違うような気がする。
        他の誰かが、どこかで泣いて―――


        それは、ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声だったが、聞こえてきたのはおそらく、小道の脇の、藪の奥からだ。薫はがさりがさりと藪を掻き分け、
        中に踏み込む。夜の暗さが濃くなり、人肌に温められていないひんやりした空気が薫を包んだ。

        何故か、はぐれてしまったあの少女のことは、このとき薫の頭の中から消えていた。
        ただただ、この泣き声の主を探さなくてはと、それだけを考えていた。
        そして、薫は気づいていなかったが―――あの少女が消えるのと同じくして、背後から聞こえていた縁日の喧騒がぴたりと止んでいた。
        音が「遠ざかる」というよりは、まるでぶ厚い扉を閉ざしたかのように、突然に。


        闇に目を慣らしながら歩く。夜露を乗せた下草が下駄履きの足を濡らしたが、その冷たさは不快ではなかった。
        頭上を仰ぐと、黒々とした木の葉の間から星空が覗いている。ちょうど、月が雲を被っているらしい。真珠色の月光を孕んだ綿雲のふちから、明かりが零
        れ出ている。月が見えたら、それなりに明るくなるだろうなと思いつつ、薫は泣き声の主を探した。

        僅かに空気が揺れ、風がまた声を運んできた。微かな泣き声をたよりに、足を進める。
        すると、不意に袖にまとわりつく藪が途切れ、ひらけた場所に出た。星あかりで、ここは僅かながら明るい。



        声の主は、そこにいた。
        やはり小さな子供で―――男の子だった。



        膝を抱えて、丸くなって泣いている子供。
        薫のいる方からは、彼の背中しか見えない。

        どうして、この子はこんな泣き方をするのだろう、と薫は思った。
        それは子供らしくない、必死に声を殺しているような、我慢をしているような泣き方で、聞いているこっちの胸が痛むような―――


        「・・・・・・どうしたの?」
        突然うしろから声をかけられて、子供の肩がびくりと震えた。

        「どうしたの? 迷子になっちゃった? お父さんお母さんとはぐれたの?」
        背中をむけたまま、子供は首を横に振った。
        「じゃあ、どこか痛いの・・・・・・?」
        反応してくれたことに安心した薫は、子供のすぐそばにしゃがんで話しかける。泣きじゃくっているのをなだめるような、柔らかい声音で。
        「こんな暗いところにひとりでいたら、危ないわよ。お姉ちゃんと一緒に、お父さんとお母さん探しに行きましょう?」
        しかし、子供はまた首を横に振った。抱えた膝に顔を押しつけながら、くぐもった声で薫に答える。


        「・・・・・・もう、いない」
        「え?」
        「・・・・・・死んじゃった・・・・・・さっき」

        予想だにしなかった言葉に、薫は驚いて子供の肩に触れた。
        子供は僅かに顔をあげたが、夜の暗さで表情ははっきりとわからない。


        「・・・・・・さっき?」
        「父さんも、母さんも虎狼痢で・・・・・・ずっと治らなくて、ふたりとも、さっき・・・・・・」

        子供は精一杯の様子でそれだけ言うと、ふたたび顔を伏せる。出来るだけ、泣き声をあげないようにしているのだろう。うーうーと唸るように無理に抑えこ
        んだ声が、薫の胸を突いた。
        「おうちに・・・・・・誰もいないの? おとなのひとは?」
        また子供は首を横に振る。と、いうことは―――この子はたった一人で、両親の死を看取ったばかりだというのか。


        考えるより先に、身体が動いた。
        薫はぐいと子供の肩に手をかけて自分の方を向かせて、正面からぎゅうと抱きしめる。

        「・・・・・・我慢しないで、泣いていいのよ」
        躊躇いがちに、小さな手が胸元を握るのがわかった。
        「・・・・・・父さんが」
        「うん」
        「父さんが、言ってたんだ。男は、すぐに泣いたりしちゃダメなんだって。だから・・・・・・」
        もういない父親のいいつけを守ろうとする健気さが痛々しくて、薫のほうが泣きそうになる。けれども、それを気取られないように、ゆっくりと落ち着いた声で
        彼に言い聞かせた。



        「どうしても、泣きたいときには泣いてもいいの。ちゃんと、声をあげて泣いておかなきゃ、あとからもっと悲しくなることもあるの。それに―――」


        抱きしめた背中を、ぽんぽんと優しく叩いてやる。
        おそらくはこの子の母親も、生前そうしていただろうと思いながら。


        「それに、わたしはあなたが泣いたこと誰にも言わないから、大丈夫よ。誰にも知られないように、秘密にしておくから・・・・・・ね?」



        薫の胸に顔を埋めながら、子供が小さくつぶやく。
        「絶対に言わないって、約束、する・・・・・・?」
        「ええ、約束するわ」

        薫は、頷きながら彼の背中をそっと撫でた。
        その言葉が、きっかけだった。



        「・・・・・・っう」
        胸元にあった手が、ぎゅっと薫の着物を握りしめる。
        力をこめて、必死にすがりつくように。




        「わ・・・・・・あああああああああ!」




        堰を切ったように、子供は泣き出した。
        肺腑をえぐるような声。今まで抑えていたものをすべて解き放った、叫ぶような泣き声。

        彼は時折足をばたつかせ、薫の胸をこぶしでどんどん叩いて暴れた。
        噴き出した悲しみを制御しきれない小さな身体を、薫は何も言わずしっかりと抱きしめて受け止めた。









        ★









        薫の胸を借りて、子供は暫くのあいだ年相応な声をあげて存分に泣いた。
        やがて彼の肩の震えは落ち着いてきて、しゃくりあげる声も小さくなる。それが完全に途切れた頃、泣き疲れた彼は細い息を吐きながら、そろりと顔を起こ
        した。


        「・・・・・・ごめんなさい、お姉さんの着物、濡らしちゃった」
        「ん? こんなの全然平気へいき」

        涙と鼻水で濡れた胸元に子供は申し訳なさそうにつぶやいたが、薫は気にしないでと笑って彼の髪を撫でてやる。
        「ありがとう・・・・・・俺、うちに帰る」
        帰っても、彼をむかえてくれるひとは誰もいないのに。そう思うと、薫の胸はまた痛んだ。
        「お姉ちゃんも、一緒に行こうか?」
        しかし子供は首を横に振って、否定の意思を伝える。
        「父さんたち、虎狼痢だったから。伝染ったらいけないから」
        「でも」
        「近所のおばさんたちとかもいるから、ほんとに大丈夫だよ。母さんたちが病気になってから、よく様子を見に来てくれてたんだ」

        泣きすぎて掠れた声で、でもはっきりと子供は言い切る。
        そういう世話をしてくれる人がいることに、薫は安堵した。両親を一度に亡くしたのだ、今悲しいのは勿論だが、きっと今度も大変なことが色々出てくるだろ
        うから。自分はただの通りすがりでしかないが、それでも袖触り合うも多生の縁だ。こんな瞬間に居合わせてしまった以上、どうしてもこの子のこれからが
        気にかかってしまう。


        「あなた・・・・・・名前は?」
        なんとなく、そのまま別れがたくて、薫は尋ねた。
        「しんた」
        彼の口をついて出たのは聞き覚えのある名前で、薫は思わず、え、と聞き返す。




        「心太、っていうんだ」




        それは、幼い頃の剣心と同じ名前。
        いや、同じ名前の人間など世の中には沢山いるのだけれど、でも―――


        その時、ずっと月を覆っていた雲が風に流された。
        月が顔を出し、ふわりとあたりが明るくなる。

        振り仰ぐと、煌々たる満月。
        薫は、おそるおそる子供の顔を見る。




        月の光に露わになった彼の顔は、薫の世界で一番大切なひとに、そっくりな面差しだった。




        「・・・・・・じゃあね。ありがとう、お姉さん」
        薫が驚きに言葉を失っているうちに、子供は―――心太は頬に残った涙を拭い、身を翻して走り出す。

        小さな背中が遠ざかる。
        そして再び月が雲に隠れたのか、するりと闇が目隠しをし、そして―――













        「薫殿!」






        すぐ近くから名前を呼ばれて、薫はびくりと身を震わせた。




        「ああ、すまない。驚かせてしまったか」



        振り向くと、そこには剣心がいた。
        そして、左手にある温もりに気づいてそちらを見ると、先程はぐれた筈の少女が狐面をかぶって、薫の手を握っていた。














        2 「遠い日の記憶」へ 続く。