2  遠い日の記憶










        「けん、しん・・・・・・」
        「犯人は捕まえたでござるよ」

        にこっと剣心がいつもの顔で笑う。
        その表情に先程の子供の顔が重なったような気がして、薫は目をこすった。



        「おや、これは・・・・・・奥様とご一緒だったのですか。驚きましたねぇ」
        聞き覚えのない声がして、薫は視線を剣心の隣に移す。彼が伴っていたのは品の良いスーツを身につけた老紳士だった。

        「・・・・・・剣心、そちらの方は?」
        剣心が答えるより先に、洋装の老紳士は「この度は御主人に難儀を救っていただきまして」と薫に向かって頭を下げた。ひったくりにあったのはこの老紳
        士だったらしい。
        「荷物を取り返すことはできたのだが、騒ぎの所為で連れの方とはぐれてしまって・・・・・・それで一緒に探していたのでござるが」
        「奥様が見つけてくださっていたとは・・・・・・これは重ね重ねありがとうございます」
        「連れ・・・・・・?」
        呟くように薫が言うと、横にいた少女がぱっとつないだ手を離し、老紳士の脚に飛びついた。

        「あ、この子の・・・・・・」
        少女は狐面をかぶったまま、老紳士の持っている風呂敷包みに向かって手をのばした。老紳士が少女に向かって「あの方のおかげで、玩具が無事に戻
        ってきましたよ」と言うのを聞いて、剣心がくすりと笑う。
        「ひったくり犯も、まさか奪った風呂敷の中身が子供の玩具とは思わなかったでござろうなぁ」
        「あ、そうだったんだ。この子に買ったものが入っていたんですね」
        彼らの話を聞きながら、薫はようやくそこで微笑むことができた。とりあえず、今目の前で起きていることに頭が追いついてくる。


        剣心が助けた、ひったくりの被害者である老紳士。その彼が探していた連れの少女と、偶然自分が一緒に居たということらしい。
        この賑わいの中では迷子の行方を捜すのも一苦労だろうから、それは幸運だったと言えるのだが―――

        「本当にありがとうございました・・・・・・ほら、あなたも」
        老紳士は剣心と薫に深々と頭を下げて、連れの少女の背を促すようにそっと押した。少女は面を押し上げると、剣心にむかってぴょこんとお辞儀をする。そ
        して、とことこと薫に歩み寄って、うーんと伸びをするように両腕を伸ばしてみせた。
        「え? なぁに?」
        薫が身を屈めると、少女はぎゅっとその首に抱きつく。そして、内緒話をするように耳元に口を寄せて―――



        「あと、六日」



        そう囁いて、少女はぱっと離れた。
        それから改めて、「ありがとうございました」と小さな声で、礼を言う。

        そのやりとりを眺めていた老紳士は「おやおや」と何故だか困ったような顔をしつつ、剣心と薫に挨拶をしてその場を辞した。
        彼に手を引かれた少女は、途中何度か振り返って薫に向かって手を振った。


        「薫殿、すっかりあの子に気に入られたようでござるなぁ・・・・・・おろ?」
        ほのぼのとした笑みを頬に浮かべて彼らを見送った剣心だったが、ふと、薫の胸元に目をとめて首を傾げる。

        「拙者のいないうちに、何かあったのでござるか?」
        「え・・・・・・?」
        「ここ、濡れてる」
        剣心は、ちょんちょんと自分の胸のあたりを指差してみせた。薫が視線を下に落とすと、浴衣の胸にある紫陽花の柄が、そこだけ湿って色が変わっている
        のがわかった。さっきの心太の涙の跡が―――しっかりと残っている。



        薫は、次いで視線を上に向けた。
        空には、弓を張ったような三日月。満月にはまだ日数が足りない細い月が、光の弧を描いている。



        「どうかしたでござるか? 顔色が・・・・・・」
        気遣わしげな剣心に、なんと返事をしたものか薫は途方に暮れる。
        と、いうより薫自身も自分に何が起きたのかわからず、すっかり混乱していた。
        剣心は、黙り込んでしまった薫が口を開くのを待っていたが―――やがて、手を伸ばして薫の頬にそっと触れた。

        「剣心?」
        道の脇に避けているとはいえ此処は縁日会場で、当然あたりには大勢の人がいる。
        薫は幾人かの視線がこちらを向くのを感じて、戸惑いと気恥ずかしさに赤く頬を染める。


        「ひとりにして、すまなかった」
        ―――自分がひったくり犯を追っている間に、薫の身にも別の厄介事が降りかかっていたのだろう、と剣心は考えた。何が起こったのか咄嗟に答えられな
        い薫に対し、剣心はそれ以上は詮索はせず、申し訳なさそうに謝罪をする。
        薫は、驚いたように目を大きくして―――そして、剣心らしいなと思って微笑みをこぼす。

        「・・・・・・ねぇ、そんなことで謝らないで? だいたい、わたしは剣心がいなきゃ何もできないような頼りない女の子だった?」
        「え?! いや! そんなふうには思っていないでござるよ! 決して!」
        今度は剣心が慌てて、力いっぱい否定する。彼らしい生真面目な反応が可笑しくて、薫はまた笑った。おかげで―――かなり、気持ちも落ち着いてきた。

        「さっきね、泣いていた子供を慰めてあげていたの。これはその子の涙」
        「ああ、あの女の子でござるか」
        「うーん、あの子とはまた別の子で・・・・・・」
        どう説明すべきかと眉間に皺を寄せた薫を、剣心は「いや、大丈夫でござるよ」と柔らかく制した。そして、頬にある手をそっと撫でるように動かして、愛お
        しげに目を細める。
        「薫殿が悲しい目に遭ったわけではないようなので、よかったでござる」



        悲しい目に遭ったのは、わたしではなく、あなたのほうだった。
        うんと昔の、まだ子供だった頃の。




        剣心の優しい声を聞きながら、薫は心の中でそう呟いた。








        ★








        昨夜に引き続き、またしても「騒ぎ」に巻き込まれてはしまったが、その後剣心と薫はごく平和に縁日を楽しんだ。
        露店を見て回ったり、枝豆売りや稲荷鮨の屋台で小腹を満たしたり、大道芸人の演し物に拍手を送ったりと―――たっぷり満喫した頃には夜もすっかり
        更けており、縁日の客達はちらほらと帰路につき始めていた。



        「何、考えているでござるか?」


        からり、ころりと。
        人通りの絶えた夜道に、下駄の音が響く。
        道場への帰り道。縁日の喧騒から離れて、ようやく夜気は頬に心地よい温度になった。

        「え・・・・・・?」
        ふいの質問に、薫は隣を歩く剣心の顔を見る。
        「さっき、ひったくりの騒ぎがあった後から、時々考え込んでいるようでござったから」
        「・・・・・・お見通しなのね、剣心には」
        薫殿のことなら、と剣心は笑った。



        騒ぎの後、薫は気持ちを切り替えたつもりで楽しんだが、それでも先程の不思議な邂逅の事は、頭の中から消えていなかった。


        暗闇の中、ひとりで泣いていた幼い男の子。
        彼の顔を見た瞬間、「剣心だ」と思った。

        他人の空似ということもあるだろう。それこそ、薫に懸想していた真太だって剣心によく似た顔立ちをしていた。
        けれども、あの子供に関してはそうではなく―――何故か直感で、剣心だと「判った」。
        理屈ではない、それはなんとも説明し難い感覚ではあるのだが―――


        あの、狐面に赤い着物の少女。
        思えば、彼女に導かれるようにしてあの場所へと至ったのだ。あの少女はいったい何者なんだろう。

        そして、別れ際に囁かれた言葉。
        「あと六日」という短い言葉が、まるで呪文のように耳の奥に残っている。あれには、どういう意味があるんだろう。


        あれこれ考えあぐねた薫は、幾許かの躊躇の後、思い切って口を開く。



        「あの・・・・・・気を悪くしたら、ごめんね」
        「うん?」
        「剣心、お父さんとお母さんが亡くなったときのことって・・・・・・覚えてる?」



        てっきり、縁日の出来事に関する話と思いきや、まったくの予想外の質問をされて剣心は軽く目をみはる。
        薫の表情は、とても真剣だった。
        だから剣心は不思議に思いつつも、何か意図があっての事だろうと汲んで、その問いに答えようと記憶の糸を手繰り寄せた。

        「そうだな・・・・・・あれは、夜でござったな」
        遠くを、見るような目になる。
        「まだ拙者はほんの小さな子供で・・・・・・父も母も同じ日の、同じ夜に逝った」


        ぽつり、ぽつりと、剣心は言葉を紡ぐ。
        ゆっくりと、その夜の情景を思いおこしながら。


        「悲しいのは勿論だったが、ちょっと感心もした。全く同じ日に死ぬだなんて、夫婦とはこういうものか、と」
        涼しい風が首筋を撫でる。先程、薫が満月の下で感じたような質感の風だ。
        「それから・・・・・・家を飛び出した。近くにちょっとした森があって、藪を分け入って、そこで・・・・・・泣いた」
        薫は自分の胸元に手をやった。まだそこは、うっすらと湿っている。

        「大声で、泣いた・・・・・・?」
        「どうだったかなぁ・・・・・・大声を出したような気もするし、声を殺して泣いたような気もする。そこまで細かくは覚えてござらんよ」
        ふと、薫の耳の中で、先程の泣き声が蘇る。
        「でも、結構な時間そうしていたでござったかな・・・・・・ひとしきり泣いて、それから、まぁ近所のひとに知らせに行ったのかな。両親が病みついてからは随
        分世話になっていたから」
        「大変、だったのね」
        「うーん、そのあたりの事もよく覚えてはござらんよ。ああ、でも」


        剣心は、空を見上げた。
        つられるように薫も上を向くと、そこには白い三日月。



        「あの夜は、見事な満月だったな」



        今、剣心の目にはその月が映っているのだろうか。
        だとしたら、わたしの目に映るのも―――きっと、同じ輝きだ。






        「・・・・・・ひとりで、泣いていたの?」
        「ああ、子供だったけれどそれでも・・・・・・誰かに泣き顔を見られたくないと思っていたから」
        その言い方には含むところは感じられず、薫は無意識にもう一度、胸のあたりを触った。

        「ごめんね、変なこと訊いちゃって」
        すまなそうに弱くなる語尾に、剣心は微笑んで薫にむかって手をのばす。そして彼女の指に、自分のそれをしっかりと絡めた。

















        3 「あの日の涙」へ 続く。