3  あの日の涙










        いつもと同じ、目覚めだった。




        目蓋越しに感じる、朝の光。すぐ近くにある薫のぬくもりと、耳をくすぐる彼女の寝息。
        いつもと同じように、ああ、朝だなとぼんやり思いながら、剣心はうっすら目を開けた。
        妙だな、と思ったのはその後からだった。


        隣ではまだ薫が眠っていた。
        が、何故か彼女は寝間着ではなく、普段着を着て横たわっている。


        ―――おかしいな、昨夜縁日から帰って布団に入ったときは、寝間着姿だったのに。
        しかも、身につけているのは昨日の紫陽花柄の浴衣ではなく、春先に彼女が好んで袖を通している桜の柄の着物だった。髪も緩い三つ編みではなく、き
        っちり結われてリボンに飾られている。

        剣心は、自分がまだ寝ぼけているのかなと思った。あるいは夢でも見ているのだろうか、と。
        それにしても―――夢だとしても、これは何だろう。何故薫は、こんな表情をしているのだろう。
        眠っている彼女の眉は、悲しげにぐっと歪んだ形をとっていた。閉じられた目蓋の周りが赤くなっていて、頬には涙の流れた跡。どう見ても、つい先程まで
        泣いていた顔だ。

        ―――怖い夢でも見ているのだろうか。
        剣心は、今の不自然な状況こそ「夢だろうか」と思いながらも、そう考えずにはいられなかった。
        身を起こして、彼女に顔を近づける。薫の眠りは浅かったようで、気配を感じてかぱちりと目が開いた。


        薫の瞳に剣心の顔が映る。
        一瞬、じっと見つめて。そして何故か、薫は驚いたようにその目を大きくした。


        「剣、心・・・・・・?」


        その後の剣心の行動は、彼にしてみればいつもどおりの振舞いだった。
        身体を起こし、覆い被さるようにして、唇を寄せる。いつもそうしていることを、いつもと同じようにしただけだった。

        しかし、薫の反応はいつもと違っていた。
        触れたとたん、彼女の身体がこわばったのがわかった。おや、と思いながらも剣心は薫を掻き抱く。
        いつもならこんな時、腕をのばして柔らかく抱きしめ返してくれる彼女が、今日は身を硬くしたまま応えてこない。どうしたのだろうと思いながらも、剣心は
        自分と薫との間にある布団を取り去って、彼女を組み敷き深く口づけた。

        「んっ・・・・・・?!」
        口を開かせて舌を差し入れると、細い身体がびくりと震えた。
        あれ、なんだろう。この感じは―――まるで、初めて彼女をこんなふうにしたときみたいだ。


        やがて、薫は下から剣心の肩を叩くようにして押し返してきた。唇を離してやると、頬を赤く染めた薫は苦しげに何度も大きく息をついた。剣心は彼女を離
        さずに、小さな口づけを繰り返す。首筋に強く吸いついたら、薫は再び身を震わせた。
        「や、やだ・・・・・・剣心・・・・・・」
        こんなふうに明るいうちに悪戯をしかけると、真っ赤になった薫が「恥ずかしい」と言って逃げ出そうとするのは常のことだった。また、そんな彼女の様子が
        あまりに可愛いものだから逆に煽られて歯止めが効かなくなるのもいつものことで―――だから剣心は、薫が必死に身を捩って抵抗するのには構わず
        に、身体を押しつけるようにして彼女の動きを阻んだ。

        「あ・・・・・・っ!」
        逃げられないように脚の間に膝を割り入れると、桜柄の着物の裾が大きく乱れ、白い太腿が露わになる。
        帯を解くのももどかしく、剣心は薫の襟元に手をかけて、袷をぐっと左右に押し開き―――



        「・・・・・・嫌ぁっ!」



        涙声の、悲鳴があがる。怯えたその声からは、はっきりと拒絶の意思が感じられた。
        驚いて手を離すと、薫はばっと素早く襟をかき合わせてこぼれ出た胸を隠し、うつぶせに敷布に顔を押しつけるようにして、剣心に背を向ける。

        「薫、殿・・・・・・?」
        おずおずと、声をかける。肩に手をかけようとしたが、その手は空で止まった。
        薫と他人でなくなってもう随分経つが、こんなふうに拒まれたのは初めてだ。剣心は訳がわからないまま、自分は知らないうちに何か彼女を傷つけるよう
        な事をしてしまったのだろうかと青ざめる。
        中途半端な位置に右手をさまよわせたまま、剣心は「その、すまない・・・・・・薫殿、気分でも悪いのでござるか・・・・・・?」と尋ねた。
        薫の肩がぴくりと震え、ゆっくりと彼女がこちらを向く。大きな目には涙をためて、頬は可哀想なくらい赤く染まっていた。

        「・・・・・・どうして?」
        「え?」
        「どうして!?どうして剣心ここにいるの!? 昨夜、出て行ったのに、どうして・・・・・・それに、今の何っ!?なんで剣心、こんなことっ・・・・・・」


        薫は剣心の質問には答えずに、逆に矢継ぎ早に問いかけた。喋っているうちに気がたかぶってきたのか、瞳からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
        しかし、剣心には彼女が言っていることの意味が判らない。

        「薫殿、落ち着いて・・・・・・拙者はどこにも行っていないでござるよ?」
        「嘘! 昨夜、わたしに言って出て行ったじゃない! さよならって!」
        「―――え?」




        「京都に行くからって、また流れるからって―――だから、さよならって・・・・・・だから、わたし・・・・・・」




        それ以上は、言葉を続けられなかった。
        薫は手のひらで顔を覆って、肩を震わせる。声を殺して泣き出した薫を前に、剣心も言葉を失っていた。


        京都に行くから、だから―――さよなら、と。
        それは確かに、自分が彼女に言った言葉。

        だが、それはもう一年以上前の話だ。
        志々雄との闘いを覚悟して京都に向かったのは昨年の五月のことで、そしてその後、自分は帰ってきて薫のそばにいるというのに、どうして―――



        「薫殿・・・・・・それは、一年も前の話でござろう? 拙者は、ずっと此処にいるでござるよ?」
        剣心は、混乱しながらも薫に語りかけた。彼女を怖がらせないように、そっと、遠慮がちにその肩に触れながら。
        「いちねん、まえ・・・・・・?」
        「そう、もうずっと前に拙者は帰ってきて、こうして薫殿と夫婦になったでござろう? だから・・・・・・もう決して、薫殿を置いて何処にも行かないでござるよ」

        実際のところ、一年などたいして「前」と呼べない過去かもしれないが、あの時と今ではふたりをとりまく状況は変わりすぎるくらいに変わっている。
        別れを告げた剣心は再び東京に戻ってきて、それからも色々な事があったが―――ふたりは想いを伝えあって夫婦になって、人生をともに歩むことを誓い
        あった。だから剣心にしてみれば、あの日のさよならはもう遥か昔の事のようにさえ思えるのに―――


        薫はしばらくの間、黙って布団に身を投げ出したまま泣きじゃくっていたが、やがて、ゆっくりと半身を起こして顔を上げた。
        まだ涙の残る目で、じっと剣心を見つめる。

        「・・・・・・そっか、そうよね」
        落ち着いた調子の声に、剣心は安堵の息をついた。なんだやっぱり寝ぼけていたか悪い夢でも見ていたのかと思ったが、薫が口にしたのはまるっきり正
        反対の台詞だった。


        「やっと判ったわ・・・・・・これ、夢なんでしょう?」
        「・・・・・・え?」


        思わず聞き返した剣心に、薫は微笑んだ。透き通った、とても悲しい微笑みだった。
        「だって、こんなのあまりにも出来すぎているもの。剣心が帰ってきて、わたしをお嫁さんにしてくれるなんて・・・・・・そんな夢みたいな話、あるわけないも
        の。だから・・・・・・これって、わたしの見ている夢なのよね?」
        「かお、る・・・・・・」

        剣心は、絶句するしかなかった。
        出来すぎてなんかいない、君と俺とは本当に―――ともう一度説明しようとしたが、薫の濡れた瞳に浮かんだあまりに哀しげな色に胸が痛くなって、それ
        以上言葉を紡げなくなる。


        そろそろと手をのばして引き寄せると、薫は素直に腕の中におさまった。
        こうやって抱きしめるのはいつものことなのに、この瞬間に限ってはあの夜の別離の抱擁が脳裏に蘇り、剣心は苦しげに眉根を寄せた。
        「・・・・・・もう少し、お休み」
        そう言って、抱き寄せた身体をゆっくり敷布の上に横たえてやると、薫はおとなしくその腕に従う。肩に布団をかけられながら剣心のことを見上げていた薫
        は、呟くように小さく「ねぇ、剣心」と言った。
        「何でござる?」
        「・・・・・・ありがとう。夢でも、帰ってきてくれて嬉しかったわ」

        たまらなくなって、剣心は薫に口づけた。
        彼女はやはり身体を竦ませたが、先程のように抵抗はしなかった。目蓋を閉じて、触れるだけの口づけを静かに受ける。

        「先程は、すまなかった・・・・・・怖かったでござろう?」
        唇を離して、そのまま息が触れ合う距離で囁くようにして謝ると、薫は小さく首を横に振った。
        「ううん。びっくりしたし、ちょっとは怖かったけれど・・・・・・でも、剣心なら嫌じゃない・・・・・・もん」




        夢の中だからこんなこと言えるんだからね? とつけ加えて、薫はもう一度目を閉じる。
        剣心は身を起こして、薫のそばで彼女が眠りに落ちるのを待ち―――やがて、緩やかな寝息が唇からこぼれ始めるのを確認してから、部屋を出た。
















        何なんだ、これは。
        昨年の五月? 別れを告げた夜?

        どういうことだろう、これは。
        薫の心が、一年前に戻ってしまったとでもいうのだろうか。何か、そういう病でもあるというのだろうか。それとも―――




        剣心は、寝間着姿のまま足早に居間へと向かう。そして、柱のとある場所に目をむけた。




        「・・・・・・そんな・・・・・・」






        柱の、見慣れた場所に掛けられた日めくり。
        そこには大きく、「明治十一年五月十四日」と書かれていた。
















        4 「五月の夢」へ 続く。