―――それとも、まさか俺は一年前の過去に来てしまったとでもいうのか。
日めくりは、正解がその「まさか」であることをまざまざと示している。
目の前に突きつけられた証拠に剣心はめまいを覚えたが、それでも、それを信じることができなくて―――いや、信じたくなくて。
これは何か、誰かが仕組んだ手の込んだ悪戯なのではないかと思いながら、日めくりの一番上の、「五月十四日」に手をかけた。
「あら、剣心おはよう」
びり、と。
紙をちぎる音に耳慣れた声が重なった。
ばっと振り向くと、そこには薫が立っていた。
彼女が身につけているのは涼しげな浅黄色の夏物で、つい先程起きたばかりらしく長い髪はまだ結われていなくて。
そして、長い睫毛に縁取られた瞳に、涙の気配はまったく見あたらなくて。
「なんだ、よく寝てたみたいだったけどもう起きたのね。朝ご飯の支度これからなんだけど・・・・・・剣心?」
まじまじと顔をのぞきこんでくる剣心の視線にどこか尋常ではない雰囲気を感じとって、薫は怪訝そうに首をかしげた。
「どうしたの? なんだか顔色が悪いみたいだけど、具合でも・・・・・・」
「薫殿、今日は何年何月何日でござるか?」
気遣う声を質問で遮られ、薫は目を白黒させる。そして、剣心の顔と、彼がたった今めくったばかりの日めくりを見比べながら答えた。
「明治十二年、七月九日・・・・・・でしょ?」
剣心は、視線を薫の顔から壁へと移す。
日めくりの日付は、薫が答えたとおり明治十二年七月九日。
自分の手にあるちぎった一枚の日付に目を落とすと、そこにはその前日の、七月八日とあった。
「ねぇ剣心・・・・・・ほんとに大丈夫? 気分が悪いならまだ寝てたほうが・・・・・・」
「名前」
「へ?」
「薫殿・・・・・・自分の名前、言ってみて」
またしても、奇妙な質問。
薫は困惑しながらも、剣心のただならぬ迫力に気圧されるようにして素直に答える。
「その・・・・・・薫、だけれど」
「ちゃんと、名字から」
「緋村薫、よ?」
「拙者の妻の、薫殿でござるよな」
薫はいよいよ心配そうに眉を寄せて、剣心の頬に手をのばそうとした。
「ねぇ・・・・・・剣心ほんとに何か変よ? そんなの、当たり前じゃない」
薫が触れるのよりも早く、剣心はがばっと目の前の彼女に抱きついた。
驚く薫に構わず、ぎゅうぎゅうときつく抱きしめ、髪の中に指を差し入れ掻き乱す。
「剣、心・・・・・・?」
「ごめん」
「え?」
「辛い思いをさせて、済まなかった・・・・・・ほんとうに、ごめん・・・・・・」
何が起こってどうなったのかはわからないけれど。
今腕の中にいる薫は、先程泣いていた薫と同じであって同じではないのかもしれないけれど。
それでも―――謝らずにはいられなかった。
昨年の五月、薫を傷つけてしまったことは自覚していたしそれを悔やんでもいたが―――たった今、実際に彼女の嘆きを目にして、剣心の胸はつぶれそう
に痛んだ。けれど、彼女の心はもっと痛かった筈なのだ。
いつか薫が、「あの時の自分がいかにダメだったか」を語ったことがあった。
あの夜は朝までひとり泣き明かして、明け方ようやくまどろんで、そこから二日間ばかり布団の中でめそめそ泣いて過ごした、と話していた。
「ほんと情けないのよ。できることならあの日に戻って自分をひっぱたいてやりたいわ。ぐずぐずしてないで早くしゃんとしなさい、って叱ってやりたいわよ」
そう言って彼女はあの時の「駄目な自分」をこきおろして笑い話にしてしまったのだが―――笑うどころじゃない。あの夜の「さよなら」の一言は形のない
刃となって薫の心を切り裂いた。すぐに立ち直れなかったのは、当然だ。
それなのに―――今まで君は、一方的に突き放した俺のことを責めた事など、ただの一度もなかった。
それどころか、あんなに傷つけた俺を追いかけてきてくれて、変わらぬ眼差しと微笑みをむけてくれた。
「・・・・・・すまない、もう絶対に何処にも行かないから、約束するから・・・・・・」
耳元で繰り返される謝罪の言葉に当惑しつつも、薫は剣心の背中を抱きしめ返しながら「うん・・・・・・ありがとう」と答えた。
★
朝、起きぬけの剣心にぎゅうぎゅう抱きしめられて何度も謝罪をされたその日。なんというかそれ以降の彼の様子がおかしくて、薫は幾度も首を傾げた。
やってきた門下生たちに稽古をつけている間もずっと道場の片隅でその様子を眺めていたし、台所仕事をしていたら「一緒にやろう」と言ってぴったり隣に
貼りついてくるし、挙句に「剣心お風呂お先にどうぞ」と勧めたら「一緒に入ろう」と言い出した。
「・・・・・・ねぇちょっと今日の剣心変よ!? いったいどうしちゃったの!?」
くっつかれたり、料理などの家事を一緒にするのはいつもの事ではあるのだけれど、今日はなんだか度を超えている。
それに、剣心が向けてくる視線も普段と少し違うというか―――監視とまではいかないが、まるで小さな子供がはぐれてしまわないよう目を離さずにいる
ような、そんな雰囲気なのだ。
昨日縁日に出かけたときは、彼の様子はいつもどおりで何らおかしいところは無かったのに、一夜明けた今日は一体どうしたことだろう、と。薫はただただ
不思議でならなかった。
一方の剣心は、今朝の不可解な出来事が気にかかってこの有様だった。
朝、泣いていた薫は、きっと「昨年の五月の薫」だ。何がどうして過去の薫の姿を目にしてしまったのかは判らないが―――もしかするとまた目を離した隙
に、今ここにいる彼女と、あの傷つき嘆き悲しんでいる薫が入れ替わってしまったりするのでは―――と、不安に駆られてしまう。
それは我ながら馬鹿馬鹿しい想像だとは思うのだが、今朝起こった事を考えると笑いとばすことも出来なかった。
「・・・・・・いや、違うか。日めくりのことを考えると、拙者がひととき過去に行っていたのか・・・・・・?いやでもそんなことが・・・・・・」
「剣心? ねぇ、どうしたの? 大丈夫・・・・・・?」
ごく小さな声でぶつぶつ呟く剣心の顔を、薫は気遣わしげに覗きこむ。
剣心はじっと薫の瞳を見つめ返すと、意を決したように、口を開いた。
「・・・・・・薫殿」
「なぁに?」
「ちょっと、変な質問をするでござる」
「・・・・・・うん、どうぞ」
出し抜けに何だろう、と首をひねりつつ、薫は了解する。剣心はどう尋ねるべきだろうかと言葉を慎重に選びながら、訊いた。
「昨年の五月、拙者が京都に行ったすぐ後・・・・・・拙者の夢を見たことは、あったでござるか?」
薫はきょとんとしつつ、「・・・・・・五月に?」と聞き返す。剣心は「ああ、拙者が此処を出て行った、あの晩に」と補足した。
実際、あの夜のことは彼女にとって相当辛い思い出になっているだろうから、この質問は酷なものだろうと思ったのだが―――
しかし、一瞬の間の後、薫の頬にぽーっと血がのぼった。
「・・・・・・えっ!? や、やだっ何それ!? なんでそんな事訊くのっ!?」
「・・・・・・見たんでござるか?]
「え・・・・・・? えっと、その・・・・・・見た、けれど・・・・・・」
真っ赤になって、うつむく薫。
具体的にどんな夢だったのかは聞かなくても、その反応で剣心は内容を察することができた。
俺に、襲われそうになった夢を見たというのだろう。
いや、彼女はあれを「夢」と認識してしまったけれど、そうではなくて―――
「きゃ!なっ・・・・・・何っ?!」
ぐいっと腕を掴まれて引っぱられるように立ち上がらされ、薫は驚いて声をあげる。
「風呂、やっぱり一緒に入ろう」
「なっ・・・・・・なんで今の質問からそういうことになっちゃうのっ!?」
「なんでというか・・・・・・なんとなく今日はそういう気分なんでござるよ」
「やーっ! 剣心絶対変なことするもんー!」
抗議の声をどこ吹く風と受け流し、剣心は薫の身体をひょいと抱き上げた。
とにかく今日は、彼女の傍から離れるのが嫌だった。
5 「川にて」へ 続く。