欄干に腰を預けるようにして、ぐっと背中と首を反らせる。
視界いっぱいに広がる空は白に近い灰色。天気は薄曇りだが、今日は妙に蒸し暑い。
今夜は早めにお風呂に入って汗を流したいな、と。そんなことを考えていたら、昨夜剣心に無理矢理風呂場に連行されたことをふと思い出した。ついでに
そこでされたあれやこれやをうっかり思い出してしまい、薫はひとり赤面した。
「・・・・・・何だったんだろ、昨日の剣心」
薫は身を起こすと、ひとりごちて道の先を見やった。
待ち合わせの時間より少し早く到着してしまったが、じきに剣心も現れることだろう。
昨日は朝から剣心の様子がどこかおかしかった。
「薫殿の身に何かあったらと思うと心配で」と言わんばかりに、一日中ぴったり貼りついて過ごしていた剣心。その前の日まではごくごく普通に過ごしてい
たのに、何がきっかけであんなふうになってしまったのだろう。
一夜明けてからも彼の過保護は続いており、出稽古にもついてきそうな勢いで―――平素ならそれは大歓迎なのだが、今の彼の状態は平常とは言い難
い。ふたりで話し合った末、「待ち合わせをして一緒に帰ろう」という結論に落ち着いた。
そんなわけで薫は、今日の出稽古先である新発田流の道場からほど近い橋のたもとで、買い出し経由でこちらに向かっているであろう剣心を待ってい
た。
川のせせらぎを聞きながら佇んでいると、賑やかな気配が近づいてきた。そちらを見ると、つい先程まで稽古をつけていた門下生たちである。
弥彦と同じくらいの年頃の彼らは薫に気づくと、元気よく「さようならー!」と挨拶する。
「薫さん、今度は旦那さん連れてきてくださいねー!」
その声に手を振って「次は必ず」と答えながら、薫はふと昨年の出来事を思い出した。
あれは、神谷道場が縁一派の襲撃を受ける直前のこと。夕暮れの道で、偶然新発田流の門下生たちに行きあった。少年たちは「最強の剣客」と評判の
剣心の姿を目にしてはしゃいだ声をあげていた。そしてその後、薫は蛮勇をふるって剣心に「告白」をした。
帰り道、初めて肩を抱かれて寄り添って歩いて。翌日が決戦の日だというのを忘れそうになってしまうくらいどきどきして照れくさくてくすぐったくて―――
まさかそれから半年も経たないうちに彼から求婚されて夫婦になるだなんて、あの時は夢にも思わなかった。
「・・・・・・夢」
そういえば、昨日は不思議な質問もされた。
剣心にさよならを言われたあの夜に見た、「夢」について。
あの日は着替えもせずに夜通し泣いて過ごして、明け方浅くまどろんだ中、彼の夢を見た。
なんというか・・・・・・はしたない内容だったので、よく覚えている。妙に現実味を帯びた、でも絶対にありえない―――
そこまで考えて、薫ははっとした。
脈絡のない妙な質問ならば、自分も剣心にしている。あれは、過去の剣心の姿を目にしてしまったからで。
・・・・・・ということは、まさかとは思うが、剣心も――-?
「・・・・・・きゃっ!」
あれこれ考え事に夢中になっていたら、突然、脚に柔らかいものがぶつかってきた。
我に返って視線を下に落とすと―――縁日で出会ったあの少女が、薫の紺袴にしがみついていた。
「あら・・・・・・この前の?」
こんにちは、と挨拶をすると、少女も同様にこんにちはと頭を下げる。少女は縁日の夜と同じ、金魚を連想させる赤い着物を身にまとっていた。
「今日はひとりなの? あのおじいさんは一緒じゃないの?」
問いかけながら薫はあたりを見回したが、周りに彼女の連れらしき者は見当たらない。このあたりの子なのかな、と薫が考えていると、少女はすっと腕を
持ち上げ、人差し指で川面のほうを指差した。つられてそちらを見やった薫は、つい「あらら・・・・・・」と声をこぼす。
橋の下を流れる川で揺れる、白いもの。
先日薫が直してやった狐の面だ。
「落っことしちゃったの?」
薫が尋ねると、少女はこっくりと深く頷く。
この川はそれなりに幅はあるが、水量は多くはない。大人なら足がつく深さなので、その気になれば歩いて向こう側にも渡れるだろう。現に、狐面は砂利
が盛り上がっている浅瀬に乗り上げるような格好で、流されずにそこにとどまっていた。
薫は、視線を少女に戻した。少女は、眦のやや上がった子猫のような大きな目で、じいっと薫を見上げている。
「・・・・・・とってきてほしいの?」
少女はまた、大きく頷く。
薫はふたたび川面に目をやる。浅い川とはいえ、この小さな女の子が足をつけるのはさすがに危険だ。しかし、自分は大人で、袴姿である。裾をたくしあ
げて川に入るのには少し抵抗があるが、幸いにして、ちょうど今は周りに人目もない。取りに行くとしたら、今だろう。
「ちょっと、これ見ててちょうだいね?」
薫は橋のたもとに竹刀袋を置いて、少女に見張りを頼む。剣心が来ないうちにと思いながらすばやく河原に下りて、下駄を脱ぎ流れに足を浸した。
暑い日なので、踏み込んだ水の冷たさは正直言って気持ちいい。面が引っかかっている浅瀬はすぐそこだ。薫は二歩三歩と川の中ほどに向かって足を進
め、身を屈めて狐の面を拾い上げようとして、指をのばした。
「薫殿?」
ふと、耳に馴染んだ声に名を呼ばれ、薫は振り向く。
見上げると、橋の上に剣心の姿があった。買い物を終えてきた彼の手には野菜が乗った籠が抱えられている。
「何をしているでござるか? 危ないでござるよ」
昨日から心配性に磨きがかかっている剣心が、橋の上からおろおろと声をかけてくる。薫は「ああ、見つかっちゃったか」と心の中で肩をすくめつつ、今す
ぐ上がるから大丈夫、と彼に向かって呼びかけようとした―――が、その途端。
「・・・・・・え?」
素足に感じていた、砂利の感触が、すっと遠のく。
大人なら、歩いて向こう岸まで渡れるくらいの川の筈だった。
しかし、まるで突如として穴が開いたように―――薫の足元から、「川底」が消えた。
「・・・・・・きゃあっ!?」
落下する感覚。
がくん、と身体が沈み、全身が水に包まれる。
「薫っ!?」
剣心は手にしていた籠を投げ捨て、飛びつくように欄干へ駆け寄った。
悲鳴と僅かな水音を残して、剣心の目の前で、薫は川の水に飲まれて、消えた。
「か・・・・・・おる・・・・・・?」
何が、起きたのか。
橋の上からでも、水を透かして底が見えるくらいの深さの川である。それなのに―――薫の姿は何処にもない。
幻と、思いたかった。でも、今しがたの薫の叫び声は耳にしっかりと残っている。
いや、それどころか彼女の剣術道具が橋のたもとに置き去りにされているのが見える。
確かに薫は今の今まで此処にいて、そして忽然と、消えてしまった。
昨日の朝の出来事も、今でも夢かと疑っているが、夢ならば今起きた事のほうがよっぽどの悪夢だ。
顔色を失った剣心が愕然として川を見下ろしていると―――その耳に、穏やかな声が届いた。
「奥様はご無事ですよ。すぐに戻ってくるでしょうから、心配なさらないでください」
振り向くと、声の主は洋装の老紳士だった。
一昨日、剣心が助けたひったくりの被害者である。
彼は剣心に声をかけつつ、散らばってしまった野菜を籠に拾い集めていた。剣心は怪訝な顔で老紳士を見て―――そして、刀の柄に手をかけたくなる衝
動を抑えながら彼に近づいた。
「・・・・・・知っているのか? 薫殿が何処に消えたのか」
この老紳士が、「何かした」とは想像しがたい。
しかし、今目の前で起きた現象は明らかに人智を超えている。そうなると、常識的な判断など意味は無くなる。
このタイミングで現れて訳を知ったように話しかけてきた彼が、薫が消えてしまった事の元凶なのでは―――と、剣心は疑わないわけにはいかなかった。
「はい、存じ上げております。重ねて申しますが、奥様はご無事ですよ。驚かれるのは無理もないと思いますが、どうかご安心ください」
柔らかな口調で、老紳士はそう語る。剣心から向けれらる視線は殺気に近いものが宿っていたが、彼はそれをまるきり意に介していないようだった。
―――と、それまでふたりのやりとりを傍観していた赤い着物の少女が、おもむろに老紳士のそばへとことこと歩み寄った。その場に屈みこむと、彼を手
伝うつもりか散らばった買い物の品を拾い始める。
「ああ、これは恐れ入ります」
恐縮したように、老紳士は幼い少女にむかって頭を下げた。その様子を見て、剣心は眉間から僅かに力を抜く。
まず、落ち着こうと思った。
こと薫に関する事になると、自分が特別冷静さを失ってしまうことを、剣心は自覚していた。
薫が何故消えてしまったのか、そして彼女は今何処にいるのか、自分には見当もつかない。しかし、目の前にいる老紳士は「すぐに戻ってくる」と言った。
何故そう言い切れるのかはわからないが―――他に手がかりがない以上、彼を信じるしかないだろう。
「・・・・・・ここで待っていれば、戻ってくるのでござるか?」
尋ねる声に、隠しきれない不安が滲んだ。老紳士は剣心を見る目を細め―――そして、その視線を川に戻した。
「水をくぐっていますから、貴方がたの御自宅で待つほうがよいでしょうな」
意味がわからず剣心が訝しげに眉を寄せると、つんつんと袖を引かれた。そちらを見ると、例の少女がじっと剣心を見上げている。
少女は、袖を引きながらもう片方の手で川を指した。その先にあるのは、先程薫が拾い損ねた狐面である。
少女からの無言の要求に剣心はため息をつくと、「ちょっと、待っているでござるよ」と言って彼女の頭をぽんぽんと軽く叩くようにして撫でた。
★
水の音が、聞こえた。
ああ、これは川のせせらぎだ。
そうだ、わたし、川に落ちたんだったわ。
でも、変よね。
あの川、あんなに深い筈がないのに。まるで足元に突然穴があいたみたいになって、頭まで水に浸かって、そして―――
と、目を閉じたままそんな事を考えていた薫は、せせらぎ以外にもうひとつ、耳に流れこんでくる音に気づいた。
いや、これは音ではなく、声だ。
誰の声だろう。男のひとの、わたしのよく知っているひとに似ている声。
そうだわ、この声。ちょっと高く聞こえるけれど、剣心によく似た―――
「・・・・・・ぇ。ねえ、しっかりして! 大丈夫ですか!?」
次第に大きくなる声。そして、ぴたぴたと頬を叩く手の感触。
誰かが、わたしのことを起こそうとしている。
大丈夫、と答えるかわりに目蓋を動かした。
細く開けた目の隙間から入りこんでくる光が眩しい。明るさに慣らすようにしながら、ゆっくりと目を開ける。
薫に声をかけていた人物はそれに気づいて、ふっと頬から手を離した。逆光で、顔がよく見えない。けれど、少年のようだ。
「大丈夫? 水飲んでないですか? 返事、できますか?」
気遣わしげな声。それはそうだろう、こんなふうに濡れ鼠になって倒れていたら誰だって川で溺れたのかと思うに違いない。
薫は「だいじょうぶ・・・・・・」と唇を動かした。頼りない声になってしまったが、ひとまずちゃんと意識があることが確認できて、目の前の人物は安心したよう
に大きく息をつく。手を動かして地面を探り、ぐっと力を入れる。上半身を起こそうとすると、彼が手を貸してくれた。
「動けますか? まだ無理しないほうが・・・・・・」
「ううん、ほんとに大丈夫なの。ありが、と・・・・・・」
薫は、ようやくそこで正面から、少年の顔を見た。
そのために―――彼に向けて発した礼の言葉が、驚愕に途切れる。
「けん・・・・・・し・・・・・・ん・・・・・・?」
一昨日の夜を思い出す。
満月の下泣いていた、小さな子供。あれは、剣心だった。
そして、今薫の目の前にいるのは、あの夜よりもずっと手足が長くのびた、でも、明らかに薫より年下の―――
少年の姿の、剣心だった。
6 「少年」へ 続く。