「・・・・・・どうして、俺の名前知ってるんですか?」
きょとん、と。目の前の剣心が首を傾げる。
見ず知らずの女性に自分の名前を呼ばれたのだから、彼にしてみればそれは当然の疑問だった。
薫は混乱しながらも何と答えたものかと言葉を探したが、次の句が見つかるより早く「あ、ひょっとして、師匠の知り合いの方ですか?」と尋ねられた。
剣心が師匠と呼ぶ人物といえば、つまり。
「・・・・・・比古、さん?」
「ああ、やっぱりそうでしたか。師匠を訪ねてでもない限り、こんな辺鄙なところに来る人は少ないから・・・・・・でも、びっくりしましたよ。こんなところに倒れ
ているから」
そう言われて、薫は改めてあたりを見回した。
すぐそばを流れる川はごつごつした岩が多くて、明らかに先程狐面を拾いに入った川とは別の川だ。そのほとりに、薫は倒れていたらしい。
ぐるりは背の高い木に囲まれ、見上げると遥か頭上に、木々の葉の間から覗く青い空。剣心は「辺鄙な」という言葉を使ったが、確かにここはどう見ても田
舎というか―――むしろ山の中と言ってもいいだろう。
「わたし、さっき川で、深いところに落ちて、それで・・・・・・」
半ばひとりごとのように薫が呟くと、剣心は合点したように頷く。
「ここ、危ないんですよ。岩づたいに渡ろうと思えば渡れる川なんですけど、何か所か深い淵になっているところがあって・・・・・・今までにも何人かはまって
大変な目に遭ったんです」
「あ、えっと、まぁ・・・・・・そう・・・・・・なの。うっかりそこに落ちちゃって・・・・・・」
とりあえず、そういう事にしておこうと思いつつ、薫はあははと力無く笑う。実際にどういう経緯で此処に来たのかをありのままに話したとしたら、きっと頭
がおかしいと思われるに違いない。
「じゃあ、ちょっと待っててください。今、師匠に知らせてきますから」
「し、知らせないでっ!」
どう考えても、またしてもここは「過去」だ。
この時代の比古が薫のことを知るわけはない、彼を呼んできたものなら事態がややこしくなるのは火を見るより明らかだ。
「ち、ちょっと事情があって、此処にはこっそり来ているの・・・・・・だから・・・・・・」
もごもごと言いよどむ薫を見て、剣心は何か訳ありなのかなと思ってくれたらしい。不思議そうな顔をしつつも、わかりましたと頷いた。
「でも、とりあえず着替えないと風邪ひきますよ。春とはいえ、ここ山だからまだ涼しいし」
「春・・・・・・」
そういえば周りの木々の葉も、まだ緑の色が明るい。春に芽吹いた若葉の色である。
「それに、ちょっと目のやり場にも困る、し・・・・・・」
言われて薫ははっとした。
全身ずぶ濡れの薫は、道着がぴったりと肌に貼りついて身体の線がくっきり現れてしまっている。胸のあたりなど、下に巻いた晒しごと透けてしまいそう
な有様だった。慌てて胸を腕で隠すと、剣心も心もち頬を染めて顔を逸らした。
「ちょっと待ってて、何か着るもの取ってきます」
「え、でも」
「だいじょーぶ! 師匠には言いませんから!」
剣心は戸惑う薫を尻目に、岩場を身軽に飛ぶようにして走り出した。
「あ、そのかわりと言っちゃなんですけどー! 上流に竿があるんで見ていてくださいー!」
気がついたように振り向いた剣心が、足を止めて薫に向かって叫んだ。
「さお?」
「今日の夕飯を釣ってる途中だったんですー!」
大きな声でそう言って、剣心は笑った。
明治の剣心よりもずっと幼い笑顔が新鮮で、薫は思わず今の状況を忘れて微笑んだ。
★
天気が良いのが幸いだった。
山の空気はまだ冷たい季節だが、ふりそそぐ太陽の光はじゅうぶんに暖かく、冷え切った頬に熱を与えてくれる。なんとか風邪はひかずに済みそうだ。
「俺のだけど、洗濯したばかりだから」
手渡された着物はぱりっとしていて、かすかにひなたの佳い香りがした。この頃から剣心は、身の回りのことはちゃんとしていたんだな、と。薫はなんだか
くすぐったい気持ちになりながら「ありがとう」と礼を言った。
「着替えちゃってください、その・・・・・・後ろ、向いてるんで」
その言い方に明らかに照れが混じっていて、薫は可笑しくなる。明治の彼ならば、後ろを向くどころかいそいそと脱がしにかかるだろうに。
笑っては失礼だろうとこみ上げてくるのを必死で噛み殺し、薫は剣心の着物に袖を通す。
薫のよく知る剣心は男性にしては小柄なほうだが、それでも薫よりひとまわりは大きい身体つきだ。しかしこの着物の腕の丈は、薫が着ると短くて袖口が
手首に届かなくて、それが何か不思議な感じだった。
「ごめんなさいね、面倒かけちゃって・・・・・・」
「いいんですよ、俺の仕事も片付けてもらったんだし」
その声に反応するかのように、剣心の傍らに置かれた桶の中で魚がぱしゃっと跳ねた。桶には立派な岩魚が二匹、狭そうにして泳いでいる。薫は剣心が
着物を取りに行っている間に、大物を立て続けに釣り上げてしまったのだ。
「やりますね、お姉さん。女の人なのに」
尊敬とからかいとが半々な声音で、剣心がくすくすと笑う。
「お姉さん、名前はなんていうんですか?」
「ひむ・・・・・・神谷薫、よ」
今の名字を口にしたら、面倒なことになるかもしれない。薫は慌てて言葉を飲み込んで、久々に旧姓を名乗った。
「かおるさん、ですね」
慣れない呼称に、薫は心の中で首を傾げた。
この頃の剣心の口調は、薫の知っている彼のものとは違っている。
それならば、せっかくだから―――
「『さん』はいらない。薫でいいわ」
薫の提案に、剣心はちょっと目を丸くして、そして楽しげに続けた。
「・・・・・・薫」
「そうそう」
「じゃ、俺も剣心でいいですよ」
「じゃ、敬語もやめてちょうだいね?」
ますます楽しそうに剣心は目を細める。それはまるで、新しい友達を見つけたような表情だった。
「ね、どうしてわたしが比古さんの関係者だって思ったの?」
「だって、あれ」
剣心は、近くの梢にかけられて乾くのを待っている道着を指差した。
「あんな格好している女の人なんて見たことないもん。剣術をやっているなら、師匠の親戚か何かかなと思って」
「そ・・・・・・う、遠い親戚なの」
詮索されたらどうしようかと思ったが、剣心は納得したように頷いた。
「変かしら、女が剣をやるのって」
「ううん、変じゃない。それどころか、いいと思うよ。ね、今度俺と手合わせしてよ」
「かまわないけど・・・・・・竹刀でいいなら」
「いいよ、それでも。俺、一度師匠以外のひとと手合わせしてみたかったんだ」
わくわくと楽しそうな表情に、つられて薫の頬もゆるんだ。剣心から手合わせを願われるなど実際の時間ではありえない事なので、薫も素直に楽しみにな
る―――でもそれは、またこの時代に来ることができたらの話だが。いや、その前に、だいたい自分はここから明治に戻ることができるのだろうか?
急に怖くなってきて、薫は気を紛らわせるように剣心に質問をした。
「剣心は、比古さんとふたりで暮らしているのよね?」
「そうだよ。この辺りに住んでいる人はそんなに多くないし、たまには街まで下りたりするけれど・・・・・・こんなふうにお客が来るのは珍しいよ」
剣心の口調はどことなく弾んでおり、「お客」である薫がやって来たことを喜んでいるようだった。確かに、師匠とふたりの田舎暮らしをずっと続けているの
なら、まだ年若い少年としては変化の乏しい毎日に倦むこともあるのだろう。そこに突然現れた薫は、彼にしてみれば嬉しい賓客といえるらしい。
「でも、俺が世話になる前には、女のひとがいたこともあったみたいだけど」
思わせぶりな口調に、つい薫は身を乗り出した。
「え、何それ?」
「虫干ししていて見つけたんだけど、物置に女物の着物があったんだよ。明るい紫に、桔梗の柄の」
「あらぁ・・・・・・」
「あれは絶対に、昔いいひとがいたんだよ。もしくは師匠に女装の趣味があったとか」
「・・・・・・」
あのごつい身体に女物の着物をまとっている比古の姿をつい想像してしまい、薫は声をあげて笑った。
「や、やだもう! 想像しちゃったじゃないー! どうしよう、夢に出ちゃいそう・・・・・・」
「俺のじゃなくて、そっちの着物を持ってこようかと思ったんだけれど、バレたら師匠にぶん殴られるから」
「いいわよ、これで十分」
薫は袖で自分の肩を包むような仕草をしてみせて、微笑んだ。
濡れた黒髪が木漏れ日につややかに輝くのを見て、剣心は目を細める。
「・・・・・・寒くない?」
「うん、全然平気」
道着はまだ乾きそうにない。
河原の大きな岩の上に並んで腰かけて、ふたりはそれからとりとめのないことを話した。
修行のことや比古の話、生まれた土地のことや行ったことのある場所。京都を訪れたことがあると薫が言ったら、剣心は羨ましそうな顔をした。それは、大
義を持つ者が何かを成すために王城の地を目指す、と言うよりは、都に純粋な憧れを抱く少年の顔だった。
「京都かぁ、いつか俺も行ってみたいなぁ」
「きっと機会があるわよ」
「うん、そうだといいな」
無邪気な言葉に、薫は複雑な気分になる。
彼はやがて比古のもとを飛び出し、京都へ向かう。
そこで待つのは「最強」の称号と仲間からの信頼と、愛する人との出会い。そして痛みと別れと、後悔。
それらをすべて経験して、そうして在るのが、薫のよく知る剣心である。それをわかってはいても―――目の前にいるまだ幼顔の残る少年に、「辛い思い
はしてほしくない」と、薫は思わずにはいられなかった。
「・・・・・・あ、やばい」
剣心は、しまったという顔をして後ろを向いた。
「師匠だ」
薫は思わず身構えた。耳をすませると、遠くから剣心の名を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめん、俺もう行かなきゃ」
ぴょん、と軽い身のこなしで、剣心は立ち上がる。
「着物、乾くまで着ていなよ。着替えたらその辺に置いておけばいいから。あと、薫が来たこと、師匠には言わないでおくから」
「ありがとう、じゃあ、秘密にしていてね」
「うん、薫と俺との秘密。そのかわり、次に来たときは手合わせするの、約束だよ」
剣心は悪戯っぽく笑って―――そして、ふと何かに気づいたような、奇妙な表情になる。
「どうしたの?」
「あ、いや・・・・・・うん、なんでもないよ。じゃあ薫、またね!」
魚の入った桶をひょいと抱えて、剣心は比古の声がしたほうへ走っていった。薫が後ろ姿を眺めていると、途中で一度振り向いて遠くから手を振ってきた。
木々の隙間から見えるその姿がなんだか可愛らしくて、薫はまた笑ってしまいそうになりながら手を振り返す。
やがて彼の姿が森を抜けて完全に見えなくなってから、薫はふぅ、と息をついて、抱えた膝に顔を埋めた。
ひとりになると、途端に不安が頭をもたげる。
此処はきっと、明治ではなく幕末の世。薫が暮らす「現在」より軽く十年以上前だろう。
一昨日は気がついたら縁日の会場に戻っていたけれど、またあんなふうにもとの時代に戻れるのだろうか、と。薫は心細さに唇を噛んだ。
そして、なんとなく梢に干している道着に視線をむけて―――その目を、大きくみはる。
ふっ、と。薫の見ている前で、梢から道着がかき消えた。
風に飛ばされて下に落ちたのかと思ったが、そうではなく。同様の変化は薫自身にも起こっていた。
先程川に落ちたときと同じように、前触れもなく。
すっ、と薫のいた岩が、その下の地面が―――消えた。
宙に投げ出され、落下する感覚。
薫は悲鳴をあげたが、その声もあっという間に消えて余韻も残らない。
次の瞬間には、岩も地面も元通りになっており、ただ薫の姿だけが消えていた。
着ていた主を失った剣心が貸した着物が、ぱさり、と岩の上に落ちた。
7 「過去と未来」へ 続く。