7 過去と未来







        目の前で消えてしまった薫について、縁日で知り合った老紳士は「すぐに戻ってくる」と言った。
        更には「自宅で待ったほうがいい」と言われ、剣心は訳が判らないまま彼らを道場へと案内した。当然、あの赤い着物の少女も一緒である。



        妙な具合になってしまったが、とりあえず剣心はふたりを居間に通す。胡乱な客だとは思いつつも性格上杜撰に対応することもできず、剣心はふたりに座
        布団をすすめた。老紳士が恐縮して腰を下ろすと―――傍らの少女が彼の洋服の裾をくいくいと引っぱった。
        老紳士は「ふむ」と呟きながら頷き、剣心に向き直る。

        「早速ですが、これから奥様が戻ってこられます」
        あまりにあっさりとそう言われ、面食らった剣心はどう反応すればよいのか困惑する。返事に困っているうちに、少女が今度は老紳士の耳に口を近づけ、
        内緒話をするかのように何事かを囁いた。老紳士は「おやおや」と呟いて、何故かくるりと剣心に背中を向ける。
        「先程、奥様が川に落ちたのはご覧になりましたね?」
        「それは、目にしたでござるが・・・・・・」
        「向こうで、着替えをしたそうです。なので、わたしたちはこちらを向いていますから」
        「いや、言っている意味がさっぱりわからないのだが・・・・・・そもそも『向こう』とは何処のことで・・・・・・」



        くしゃん、と。



        背後で聞こえた小さなくしゃみの音に、剣心は台詞を途切れさせる。
        くしゃみの主が誰なのかは、明白だった。

        「かおる・・・・・・っ?」
        剣心は歓喜の声と表情で振り向いたが―――彼女の姿を目にして、ぎょっとして顔が固まる。
        なんとなれば、そこにいた薫は一糸まとわぬ姿だった。


        「あ・・・・・・れ?剣心? わたし、戻って・・・・・・きゃあああああっ!」
        薫は「明治の」剣心の顔を見て安堵の息をついたがそれも一瞬のことで、すぐに自分が裸であることに気がついて大きな悲鳴をあげる。突然の事に驚い
        て、剣心も思わず顔を逸らした。

        「え?!ええっ?! なんで?!どうしてっ?! わたし、今まで剣心の着物を着ていたのに・・・・・・」
        「は? 拙者、の?」
        「いや、剣心のじゃなくって、向こうにいた剣心が・・・・・・ええと、何て言ったらいいのか・・・・・・」
        「それについてもご説明しますので、どうぞ、まずは何か着ていらしてください」
        穏やかに割って入った声に、薫はようやく此処にいるのが剣心と自分だけではないことに気づき、「ひゃあっ!」とまた悲鳴をあげる。
        老紳士は「見ないように」と気遣って背中を向けたまま喋っていたが、その横にいる少女は子供らしい遠慮のない視線をじっと薫に向けていた。

        「え・・・・・・? あの、どうしてあなたたちが、ここに・・・・・・?」
        剣心は混乱しきりの薫の肩を、すっと庇うように抱いた。実際のところ、混乱しているのは剣心も同様なのだが―――
        「まずは、着物を着てくるでござるよ。説明は、それからしてもらうことにしよう」



        びしゃっ、と。濡れた音が、剣心の声に重なる。
        剣心と薫がそちらに目をやると、川の水に濡れた胴着が居間の隅に落ちていた。




        「・・・・・・わすれもの」




        赤い着物の少女がそう言って楽しげに笑い、剣心と薫は無言で顔を見合わせた。









        ★









        「ここ数日、『時間』に関する奇妙な出来事が起こったことはありませんでしたか?」




        いったん自室に下がった薫が着物を身につけて。濡れた道着を剣心が表に干して。その後、一同は改めて居間で向かい合って話を始める。
        剣心と薫は、老紳士からの問いにまた顔を見合わせた。



        「・・・・・・一昨日の、夜に」
        先に口を開いたのは、薫だった。
        「縁日で剣心と離れていたとき、泣いている男の子に会いました。あれは・・・・・・子供の頃の剣心、だと思う」

        剣心は、ぎょっとして薫の顔をのぞきこむ。
        「お父さんとお母さんが亡くなったって・・・・・・そう、言っていたの」
        「薫殿・・・・・・だからあの時、あんな質問を?」
        にわかには信じがたい話だが―――あの夜の帰り道、薫が突然両親の亡くなった時のことを訊いてきたのはそういう訳だったのか、と合点がいった。
        それに、奇妙な体験をしたのは剣心も一緒だった。


        「拙者は昨日の朝・・・・・・目が覚めたら、隣にいた薫殿の様子がおかしくて、その」
        ばつの悪い思いに駆られて、剣心は薫から目線を逸らす。
        「あれは・・・・・・昨年の五月の、薫殿だったんだと・・・・・・思う」
        薫は二、三度ぱちぱちとまばたきをし―――そして剣心の言う「昨年の五月」の意味を理解し、ぼわっと頬を赤く染めた。

        「け・・・・・・剣心っ、まさか、あなた、わたしに・・・・・・」
        「いや、すまないっ! 薫殿を傷つけるつもりはなかったんでござるっ! ただ、拙者としてはいつもどおりのことをした結果、あんな事に・・・・・・」
        「え、ええええっ?! やだ、嘘っ、あれって夢じゃなかったのー?!」
        うなじまで真っ赤になった薫に向かって、剣心は「本当に、すまない!」と頭を下げて謝った。



        昨年、薫が「夢」だと思った、五月十五日の朝の出来事。
        しかしあれは夢ではなくて、「未来から来た剣心」に襲われかけたというのが真相で―――



        薫は束の間呆然となったが、すぐに我にかえって剣心の肩に手をかける。
        「あの、剣心、謝らないで? わたし、あれは夢だと思っていたんだし全然傷ついたりしなかったし、それに」
        改めて、あの朝の事を思い出して、薫はますます赤くなる。

        確かに、びっくりしたし少し怖かったし、「わたしはこんな時になんてはしたない夢を見たんだろう」と自己嫌悪に陥ったりもしたけれど、でも。
        あれから、なんとか立ち直って剣心を追いかけて京都へと発って。彼に会えるまでの道中、心細いときにあの夢のことをこっそり思い返して、ほんのり幸
        福な気分に浸ったことも事実なのだ。

        だって、夢とはいえ剣心が帰ってきてくれて、わたしをお嫁さんにしてくれて「ずっと一緒にいるよ」と言ってくれるだなんて。
        それは当時の自分にとってはほんとうに「夢のような」話だったのだし。それに―――


        「あの時も言ったかもしれないけれど、剣心なら、嫌じゃなかったっていうか・・・・・・わたしは剣心にしか、あんなこと、されたくない、から・・・・・・」


        羞じらいながら必死に言葉を紡ぐ薫に、剣心は顔を上げて「ありがとう・・・・・・」と、ほっとしたように表情を緩めた。
        「・・・・・・でも、それならあそこで止めないほうがよかったのでござろうか」
        ぼそりと小声で余計なことを付け加えた剣心の頭を、薫はぺしっと叩いた。
        そしてまだ紅潮した顔のまま、老紳士に「それともう一回、今日のことですっ」と訴える。



        奇妙といえば、今日起こった事が一番奇妙であった。
        一昨日と昨日の事は、無理やりでも「夢まぼろしの類では」と自分に言い聞かせて納得することも、あるいは出来ただろう。しかし今日、剣心の目の前で
        薫は消えて、全く違う場所から現れた。薫にしても、あの水中に落下する感覚は夢だと言い聞かせるにはあまりに鮮烈であったし、何より―――あの春
        の森の中で出会った少年時代の剣心。彼との語らいは、とても幻とは思えない。

        「何が・・・・・・あったのでござるか?」
        剣心に尋ねられ、薫は「あのね・・・・・・」と先程体験したことを話し出す。


        田舎の山の中、十代の剣心に会ったこと。
        濡れた道着のかわりに、彼が自分の着物を貸してくれたこと。
        着物が乾くのを待ちながら、川のほとりで色々なお喋りをしたこと―――


        剣心はうんうんと薫の話を聞いていたが、次第に首をひねり始める。自分自身も「昨年の薫に遭遇する」―――つまりは自分の身が「過去に迷い込む」体
        験をしたわけだが、それにしても薫の話は常軌を逸しているように感じた。
        確かに、先程薫は自分の目の前で忽然と消えてしまった。もし、その間本当に彼女が過去に行っていたとしても、薫が少年時代の自分とそんなに親しく
        対話をしたという事は信じがたい。だって、本当にそうだったとしたら―――

        薫は、剣心の顔に次第に疑念の色が浮かび上がるのに気づいた。
        そこで、決定打となる一言を投下する。



        「・・・・・・比古さんの住まいの物置には、女物の着物があったって」



        剣心は、薫の言葉にぎょっとする。
        「虫干しをしているときに見つけたんですって。桔梗の柄の、明るい紫色の着物だって、剣心は言ってたわ」
        剣心はかくんと口を開け―――閉じたときには表情を改めていた。

        「拙者、そのことを薫殿に話したことは・・・・・・なかったでござるよな」
        「うん、なかった」
        「師匠が薫殿に話すわけも・・・・・・ないでござるよな」
        「ないでしょうねー・・・・・・」
        「・・・・・・わかった、信じるでござるよ」
        自分しか知らない筈の事をすらすらと口にされ、漸く剣心は納得したように頭を垂れた。それを見て、薫は満足げに頷く。


        「でも、どうしてわたし、あんな格好で戻ってきたのかしら。ちゃんと着物は着ていた筈なのに・・・・・・」
        その事が不可解で首を傾げると、それまでふたりの話の聞き役にまわっていた老紳士が口を開いた。
        「奥様は、過去の御主人から着物を借りましたでしょう? だからですよ」
        「え?」
        「過去の時間に存在する物は、未来に持ち出すことは出来ない『決まり』なのです。同様に、未来の物を過去に持ち出すこともいけませんので、奥様の道
        着も戻ってきたというわけです」
        「いけない、って・・・・・・どうしてですか?」

        「過去と未来」についてごく自然な調子で話す老紳士の解説に、薫は素直に耳を傾け、素直に疑問を口にした。
        この老紳士が、自分たちの身に起きている奇妙な現象に関わっているのはもはや間違いないと、剣心も薫も確信していた。



        「歴史が、変わってしまう恐れがあるからですよ」



        疑問に対する彼の回答は、なかなかに重い。
        「歴史」という言葉に、急に話が大きく膨らんだように感じ、剣心と薫はなんとなく居住まいを正した。


        「極端な例えですが、未来にしか存在しない武器があったとします。それを過去の戦争に持ち込めば、勝敗が変わります。そうなれば、歴史が変わってし
        まいますからね。そういったことが起きないための『決まり』ですよ」
        「嫌な話だけど・・・・・・確かにそうですね」
        薫は眉をひそめながらも、彼の例えに納得する。

        「・・・・・・もうご理解のことでしょうが、あなたがたの身に起こった事は、ひととき『過去に迷いこんだ』という事です。おふたりとも、それぞれが縁のある人物
        に関わる過去にです。不可思議とお思いでしょうが、それが夢などではなく『事実』だと認識していただけたかと思います」



        剣心が淹れたお茶で喉を湿らせてから、老紳士は話を始めた。
        この奇妙な事象について説明をしてくれるのかと思いきや―――剣心と薫の期待を裏切り、まずは思いがけない方向に話は飛んだ。





        「あの神社にある小さな社には、どんな神様が祀られているか御存知ですか?」















        8  「時間と悪戯」へ 続く。