15  剣心と薫










        特に約束をしていたわけではないが、剣心は先刻薫が攫われた場所―――鳩笛の露店へと足を運んだ。




        案の定、薫はそこにいた。
        売り子の女性とお喋りをしていた薫は剣心に気づくと、ぱっと彼に向けて笑顔になって、左手を振った。
        もう片方の手には、鳩笛がひとつ大事そうに抱えられている。

        「すまない、だいぶ待たせたでござろうか」
        「ううん、ちっとも」
        そう言って薫は、露店の女性に「主人です」と剣心を紹介する。
        「笛、選んだんでござるか?」
        「うん、一羽ずつ顔を見ていったけれど、この子が一番の美人さんだと思って」
        薫はまるで生きている鳩を扱うような手つきで、笛を剣心に手渡した。てのひらに伝わるざらりと素朴な質感に、剣心は口許を緩める。
        「では、こちらを頂こうか」
        剣心は鳩を彼女の手に戻すと、懐から年季の入った財布を取り出す。薫は「ありがとう!」と笑みをこぼして礼を言うと、笛に唇をつけた。ころころころ、と。
        小さな鳩は軽やかで暖かな音色を奏でる。

        「それしにしても、今夜はばたばたしてしまったでござるなぁ・・・・・・今日のところはもう帰って、明日また出直そうか」
        弥彦も燕も既に帰ったらしく姿がない。もしくはふたりでそぞろ歩いているのかもしれないが、それならそれで別行動をとっても問題はないだろう。
        剣心の提案に薫が「賛成!」と答えて、ふたりは売り子の女性に挨拶をし、帰路に着く。



        「ねぇ、剣心」
        「ん?」
        「真太くんとは、何を話したの?」

        薫は、首を傾けて隣を歩く良人の顔を覗きこむ。
        先程、途中から社の後ろで剣心が様子を窺っていた事に、薫は気づいていた。剣心も、きっと彼女には気取られているだろうと思っていたから、とくに驚き
        もせず「そうでござるな・・・・・・」と呟くように言った。


        「負けを、認めるそうでござるよ」
        ざっくり端折ってそう答える。薫は剣心の腕に飛びつき、「さすが、剣心は無敵ね」と笑った。








        ★








        夜が更けて、床につく前に。剣心は髪を梳こうとする薫の手から櫛を取り上げた。
        「拙者にやらせて」と言われて、薫は恥じらいながら「どうぞ」と微笑む。




        「さっき、真太くんに連れて行かれる瞬間にね。ごめんね、って思ったの」


        髪を梳いてもらいながら、薫は後ろにいる剣心にむかって話しかける。
        「それは、誰に対しての『ごめん』でござるか?」
        尋ねられて、薫は前を向いたまま「剣心と、真太くんに」と答えた。剣心が背後で首を傾げるのを気配で感じて、薫はくすりと笑う。


        「まず、剣心にはね、あっさり連れて行かれちゃってごめんなさい、っていう意味」
        「まったくでござるよ」
        剣心は、少し拗ねたような口調で薫の髪を軽く引っ張った。あの時、真太は騒ぎのどさくさの中で力まかせに薫を攫ったが、薫だったら無理やり立ち止ま
        るなり手を振りほどくなりして逃れることは出来た筈なのだ。それをしなかったということは、連れて行かれたのには少なからず彼女の意思も加わっていた
        ということだ。

        「だって、真太くんあんまり真剣だったし。それに、剣心はきっと捜しに来てくれるだろうから、大丈夫かなぁと思って」
        「まぁ、実際そのとおりでござったが・・・・・・こんなのは、今回だけにしてほしいでござるよ」
        わざとらしく大仰なため息をついてみせる剣心に、薫は肩をすくめ「ごめんなさい」と改めて謝罪した。


        「しかし、何故彼にも謝らなくてはならないのでござるか?」
        飴色の櫛を髪にすべらせながら、剣心は首を捻る。薫はそっと目を閉じ、目蓋の裏に先程の情景を思い浮かべた。
        痛いくらいに、きつく握られた手。足を踏み出す度に揺れる、緋い色の髪。
        前をゆく細い背中から感じられるのは、ただただ「必死」という念のみだった。でも、それなのにわたしは―――

        「わたしね、真太くんの後ろ姿を見ながら・・・・・・まるで剣心に手を引かれているみたいって、思ったの」
        「え?」
        「十四歳の剣心に、手を引かれて走ったらこんな感じなのかなぁ、って。でも、そう思うのは真太くんに対して失礼かな、って。だから・・・・・・」

        真太はあんなに真剣だったのに。でも、わたしがあの時想っていたのは、やっぱり剣心のことだったから。
        彼の真摯さが伝わっているのにもかかわらず、別のひとのことを考えてしまった。剣心のことしか考えられなかった。
        だから―――真太に対して「申し訳ない」と思ったのだ。


        剣心の手が、肩に置かれるのを感じた。薫は彼の手の上に、自分のそれを重ねる。
        「昨日も、そう言っていたでござるな」
        剣心の言葉に、薫はこくんと頷く。真太を見ていると、自分の知らない「十代の頃の剣心」に逢えたみたいで、嬉しい、と。
        それは、剣心にしてはまったくもって予想外の発言だったのだが―――

        「・・・・・・あとね、わたし、真太くんを見ていると想像しちゃうことが、もうひとつあって」
        「おろ、何でござる?」
        「笑わない?」
        「それは、内容によるでござるよ」
        「うーん、じゃあ笑われちゃうかしら・・・・・・」
        来年のことですら、口にしたら鬼が笑うって言うものね、と薫はつぶやいて、肩にある剣心の指をきゅっと握った。



        「あのね、今にきっと、わたしたちに子供が産まれるでしょう? その子が男の子だったとしたら、こんな感じに育つのかなぁ・・・・・・って。真太くんを見ていた
        ら、ついそんなことを考えちゃうのよ」



        我ながら、気が早い話だと思う。それに、なんとなく気恥ずかしい想像でもある。
        薫は頬を赤く染めて「鬼じゃなくても笑うわよねぇ」と照れ隠しのように笑ったが、しかし剣心は笑わなかった。

        笑わずに、黙って薫の手の下からすっと自分の手を引き抜く。
        そして、後ろからぎゅっと薫を抱きしめた。


        「・・・・・・剣心?」
        「・・・・・・そんなことを、考えていたのでござるか・・・・・・」
        「そうよ、わたし、剣心によく似た男の子が欲しいんだもの」


        薫の「想像」はまたしても剣心にとっては思いもよらないもので、驚かされた。
        まさか―――俺が真太に対して嫉妬心やら対抗心やらを燃やしているときに、君はそんな事を考えていただなんて。

        いや、驚かされたのは今だけではない。
        君はしばしばそうやって、俺の想像を軽々と飛び越える発言や行動をしてみせるから、その度に驚かされたり新しい目線で物事を見つめることを教えられ
        たりしている。そして、それは大抵嬉しい驚きや発見なものだから、その度に―――もっともっと君のことを好きになってしまう。


        「くどいようだが、あんまり似てないでござるよ」
        「はいはい、そうでしたねー」

        あくまでもそこは譲らない剣心が可笑しくて、薫はくすくす笑って肩に回された腕をぽんぽんと叩いた。でも、剣心はやはり笑うどころではなく真剣な面持ち
        になって、抱きしめる腕に力をこめる。
        そして、甘い香りのする髪に顔をうずめた剣心は、くぐもった声で言った。



        「拙者は、彼がうらやましかった」



        今度は、薫にとって思いがけない一言だった。
        珊瑚色の唇から「え?」と疑問符がこぼれ落ちる。

        「あいつが・・・・・・あんまりまっすぐに一所懸命に、薫殿に想いをぶつけるのがうらやましかった。薫殿に出逢ったばかりの頃の拙者は・・・・・・あんなふうに
        は、できなかったから」


        昨年の冬の終わりに、薫に出逢って、いつのまにか恋が始まって。でも、その想いはずっと押し殺していた。
        あの頃の俺は、「もう誰のことも好きになってはいけない」と頑なに思っていたから、自分で自分の想いに気づいていないふりをした。

        だから「好きだ」と告げようともしなかったし、それどころか一方的に別離を突きつけて想いを断ち切ろうとすらした。
        縁から君を取り戻してからは、自分の気持ちに嘘をつくのはやめたけれど、でも―――


        「あの頃の拙者が言いたくても言えなかったことを素直に口にして、拙者が隠そうとしていた気持ちもあからさまに表に出して・・・・・・そんなふうに出来るこ
        とが、うらやましくてたまらなかったんでござるよ」


        どこか、苦しそうな声で。剣心は訥々と告白する。抱きしめられながら、薫は自分の頬が熱くなってゆくのを感じていた。
        剣心が、真太に妬いていることはわかっていたし、彼が悋気をあらわにするのはちょっと嬉しくもあったのだけれど。しかし、この「羨ましい」という感情は、
        ただの嫉妬とは微妙に意味合いが違っている。

        「・・・・・・わかっているでござるよ、ないものねだりだという事は」
        たとえ、かつての、出逢ったばかりの頃の剣心が自らの心に枷をかけていなかったとしても―――真太のように懸命に想いをぶつけずとも恋は叶ってい
        た筈だ。何故なら、薫だってその頃から剣心を好きになっていたのだから。ふたりは当然の流れで距離を縮めて、必然のように結ばれていたことだろう。

        羨ましいというなら真太のほうこそ、薫に想われている剣心を、よっぽど羨ましく思っているに違いないのだ。
        だから、こんなのは贅沢なないものねだりだとわかってはいるのだが―――


        「わたし、いつもちゃんと貰っているわよ。剣心からの気持ち」
        縁との戦いを終えて過去と決着をつけたことをきっかけに、剣心は気持ちを隠すことをやめたから。
        ちゃんと、言葉と行動で想いを表すようになって、そうして今のふたりがあるのだから。
        「・・・・・・でもね、剣心」

        けれど、薫は彼の「うらやましい」の意味は理解できた。
        理解できたし、それに―――



        「今からでも・・・・・・遅くないわよ?」



        薫が、透き通った声で、そう言って。剣心の肩が、ぴくりと震えた。
        肩を抱く腕を離すと、薫がゆっくりと振り向いて、こちらを見る。
        そっと、指をのばして頬に触れる。そのまま、両手で包みこむようにして、剣心はじっと薫の瞳をのぞきこんだ。



        「・・・・・・好きだ」



        薫は、瞳を閉じる。
        今の言葉はきちんと、耳にも心にも届いているけど、でも。

        「・・・・・・もう一回、言って」
        剣心は僅かに頬をほころばせて、もう一度「好きだ」と口にする。


        君に出逢って、この想いが始まって、ちゃんと気持ちを伝えられるまで随分時間がかかったけれど。
        もしもあの頃から、なんの迷いも躊躇いもなく、がむしゃらに君を求めることができていたのなら―――君と俺はどんな時間を刻んでいたのだろうか。
        君を傷つけたり、泣かせたりすることも、なかったのだろうか。

        出逢ってから起きたすべての出来事が、無駄だったとは思えない。
        悲しかった記憶や痛みや辛さも、今となっては全部がなくてはならないものだったように思える。
        でも、それとはまた別に―――君を泣かせたことを今も悔やんでいることも、事実なんだ。



        「もっと、聞かせて・・・・・・?」
        頬に触れていた手をするりと肩に落として、瞳を閉じたままの薫に口づける。唇の上でもう一度、「好きだ」と囁いた。
        抱きしめて、そのまま布団の上に倒れこむ。薫の黒髪が、敷布の上に流水のような模様を描く。その髪を乱しながら、剣心は幾度も唇を重ねて、「好き」と
        いう言葉をくりかえす。
        ひとことひとことに、想いをこめて。気持ちを閉じこめていた頃、伝えたくても伝えられなかった分を、取り返すかのように。

        「・・・・・・剣心」
        細い手が下からすがりついてきて、小さい声で呼ばれた。
        顔を上げると、長い睫毛に縁取られた目蓋を開いた薫と目が合う。深い色の瞳は熱っぽく潤んで、唇は優しい微笑みの形をとっていた。
        「わたしも・・・・・・大好き」


        剣心は、薫を見下ろしながら目を細めた。
        眩しいものを見つめるように。いっそ、苦しそうに。

        このひとが好きだと、改めて思った。
        世界でいちばん薫のことを好きなのは自分だと言い切った真太。最終的に彼は「負けを認めた」けれど―――そんなの、当然だ。




        こんなに、苦しくなるほどに君を想っている人間が、この世に他にいるとは思えない。




        白い腕が首に絡みつく。
        誘われるようにもう一度口づけを落として、剣心は狂おしく薫を掻き抱く。







        「好きだ・・・・・・」







        何度言っても足りないと思いながらも、それでも言わずにはいられなくて。
        剣心は薫の華奢な身体を抱きしめながら、譫言のように繰り返した。

















        16 「笑顔」へ 続く。