「って、何であんたがそこにいるんですか!」
驚きの、というよりは怒りの声をあげて真太は振り向き、涙の滲んだ目で声の主を睨みつけた。
「何でって、決まっているでござろう。お前が薫殿に妙な真似をしでかさないよう見張っていた」
「・・・・・・あんたのことですから、追いかけてきてもおかしくないとは思っていましたけれど・・・・・・いつからそこに隠れていたんですか」
「お前が薫殿に求婚したあたりからでござる」
真太はがっくりと肩を落とした。
横槍を入れずに、言うだけ言わせておいてくれた点については感謝をすべきなのかもしれないが、それにしても。
「それならそれで最後まで放っておいてくださいよ! 俺は今初めての失恋に打ちひしがれてる真っ最中なんですよ!? はっきり言って、あんたは今俺が
一番顔を見たくない相手だ!」
「よく言うでござるな・・・・・・ひとの家内相手に別れろだの何だの口説いておいて、世が世ならその場で重ねて四つに斬られても文句は言えないところでご
ざるよ? まぁ、拙者の場合お前を二つにするだけだが」
「告白しただけでやましいことは何もしてないだろうが! そのくらいで斬られたらたまったもんじゃないですよ!」
「ものの喩えというやつでござるよ、拙者は誰も斬らぬしな」
―――とはいえ、もしも真太が薫に対して怪しからん振る舞いをしていたものなら、殺しはしなくてもその手前くらいのことはしてしまったかもしれないが。
相手は子供だが、既にただの子供とは言い切れない年齢ではあるのだし。
「・・・・・・っていうか、きつすぎますよあんたの奥さん・・・・・・ひとことごめんなさいとでも言ってくれりゃいいものを、あそこまで追い討ちをかけなくてもいいで
しょうに・・・・・・」
放っておいてくれないのなら、せめて愚痴のひとつでも言わせてくれと思い、真太は絶望感あふれるため息とともにそうこぼした。
「うん、でも事実だから仕方がないでござるな。拙者も夫婦になってから、前より薫殿のことを好きになったし」
しかし剣心が大人しく聞き役になるわけがなく、返ってきたのはいけしゃあしゃあと神経を逆撫でするような発言だった。真太は返り討ちに遭うのは承知の
うえで剣心の腰の刀を奪い取って斬りかかってやろうかと考えたが、その後に「まぁ、あのくらい言わないとお前は諦めないだろうと、薫殿も思ったのでご
ざろうな」と付け加えられ、逆刃刀に伸びそうになった手を何とか押しとどめることができた。その言葉には、からかいの色ではなく明らかに労わりの念が
こめられていたから。
「・・・・・・おかげさまで、ものの見事に振られました」
声を発する度に涙が出そうになってしまうのが情けなかったが、振られる一部始終を見ていた相手に今更とりつくろう必要もないだろう。ぎりぎりと胸が痛
むのを持て余しながら、真太は「こんなに好きなのに、諦めなきゃならないなんて意味がわかりませんよ・・・・・・」と続ける。
「決めました、俺はもう誰のことも好きになりません。他のひとを好きになんて、なれるわけがありません。だから俺は、このまま一生薫さんのことだけを心
に住まわせながら生きてゆくんです」
「・・・・・・拙者も似たようなことを考えたことがあるから、わからないでもないが・・・・・・」
あまりに悲壮な真太の「決意」に、つい苦笑しそうになってしまったが、それでも「大袈裟な」と笑いとばすことはできなかった。失恋の直後も直後なので無
理もないのだし、彼の思いとは意味合いが違うが―――自分もその昔、巴を失った時に思ったから。もう、一生誰のことも愛したりはしないと。
俺と出逢って一緒になった所為で、巴は命を落とした。
もう、あんなふうに大切なひとを失う辛さは味わいたくないし、大切なひとを不幸にするのもまっぴらだった。
だから、俺は独りで生きるべきなんだと。そう思いながら何年も流れ歩いて、ずっと、誰に対しても心が動くことはなかった。
この地で、薫と出逢うまでは。
薫のことを好きになるのに、たいして時間はかからなかった。そんな感情が自分に残っていたことに、驚いた。けれどやっぱり、自分は彼女を危険に晒し
てしまうからと思って、別れを告げた。
それでも薫を諦めきれない自分がいて、そして彼女は俺を追いかけてきてくれて―――もう、自分の心に抗うのはやめようと思った。
薫が好きだ。だから、彼女と一緒に生きて、彼女を幸せにしたい。
それは、自分の所為で大切なひとを失ったり不幸にするかもしれないという恐怖を覆してしまうくらい、強い想いだった。
僥倖、としか言いようがないだろう。
そのくらい、心から愛せるひとに出逢えて、そのひとも同じ想いでいてくれたなんて。
「・・・・・・今は、そう思っているといい。でも、いつかまた現れるでござるよ。薫殿より、もっと好きになれる相手が」
「何処かに、いるんですかね。そんなひとが」
「いるさ、必ず・・・・・・まぁ、拙者は薫殿に逢えるまで十年以上かかったが」
その言葉に真太ががっくりとうなだれるのを見て、剣心は「安心しろ、拙者のは極端な例でござるから」と笑う。
「だとしても、俺は今のこの想いを、手放したくなんかありません」
生まれて初めて恋をして、心の中には彼女しかいないのに。だから、彼女を世界で一番好きなのは自分だと言い切れるのに。こんな特別な感情もやがて
は消えて、別の誰かを想うことになるのだろうか。そんなの―――想像もつかない。
「・・・・・・だからこそ、お前は次に出逢えたひとを、もっと好きになれる筈でござるよ」
真太は、怪訝そうに剣心を見上げた。
「初めての恋の相手を、そこまで好きになれたんだ。いつかまた好きなひとができたら、今度こそ手放すことのないよう―――きっと、もっと必死になれる」
確信に満ちた言葉。剣心の眼差しはこれまで真太には向けたことのない、優しく暖かなものだった。
「今度こそ、めぐり逢えたそのひとと幸せになれるように真剣に想いを注いで、今度こそ大切にしようと懸命になって―――そのひとの事を世界で一番好き
なのは自分だと、迷いなく言えるようになるでござるよ。薫殿に対してより、もっと深くな」
・・・・・・剣心さんも、そうだったのかな。
真太は漠然と、そう考えた。
ひとつの恋が終わって、長い年月を経て、薫さんにめぐり逢って―――
そして、もう決して「終わり」がこないようにと祈りながら、薫さんを懸命に愛している。
彼女のことを世界一好きなのは自分だと、迷わず断言できるくらいに。
「・・・・・・あんた、普通にいい事言えるんですね」
「お前には勿体ないから言わなかっただけでござる」
涼しい顔で言い切る剣心に苦笑した真太は、思い切りぐいっと首を反らして天を仰いだ。濃紺の空に、ぱらぱらと散った星々が視界に映る。
そういえば、今日は今まで星が目に入る心の余裕なんてまるでなかった。
「薫さんのことを、世界でいちばん好きなのは―――多分、俺じゃなくてあんたなんだろうな」
想いは目には見えないから、量や大きさを量って比べることなど出来やしない。だけど、こうして言葉にして「認める」ことはできる。
真太が口にしたのは事実上の、降伏宣言だった。
剣心はふっと柔らかく目を細めて、「かたじけない」と笑った。
★
風にのって、縁日の賑わいが聞こえてくる。
協力をしてくれた友人たちは、今頃油をしぼられているのかな、と真太は思った。
彼らには、また厚く礼を述べなくては。こんな短いつきあいの自分に対して、大人たちに大目玉をくらうのを覚悟で力になってくれたのだから。その彼らと
も、せっかく親しくなれたのに、もうすぐ離れてしまうのは悲しいが。
「俺、鎌倉に帰った後もまた、東京に来ることはあると思うので・・・・・・その時は、挨拶くらいはさせてください。もう薫さんに求婚はしませんから」
「ああ、そうしてくれるとありがたいでござる・・・・・・おろ?」
つい流れで返事をしてしまったが―――そういえば、さっき薫は真太に「東京を離れても」と言っていた。
つまり真太はこの地を去るということだ。しかし―――鎌倉?
「鎌倉の実家に、帰るのでござるか?」
剣心に訊かれて、真太は「しまった」というような顔になる。
「薫殿からは、お前の実家は火事に遭って、両親は亡くなられて、だから東京に来たと聞いていたのだが」
「・・・・・・あー、はい、火事には遭いましたよ? 確かに」
わざとらしく、真太は視線を泳がせる。はぐらかそうという意図がみえみえの反応に、剣心の目が険しくなる。突き刺されるような眼光に気圧されて、真太
は観念したように喋り出した。
「鎌倉の俺の家が火事に遭ったのは本当です、近所からのもらい火で。でも、全焼したわけじゃないんです。おかげさまで家財道具も結構無事で」
「じゃあ、薫殿はその事は知らないで・・・・・・」
「いや、薫さんに嘘は言ってませんよ? ただ、どの程度焼けたかは話さなかっただけで。でも半焼だって大変だったんですよ、結局焼け残った部分も取り
壊すことになったんですし」
うそぶく真太に、剣心は更に尋ねる。
「では、両親を亡くしたというのは・・・・・・?」
「いやいやいや、亡くなったとはひとことも言ってませんよ。ただ、火事の後片付けとかでばたばたして色々大変だから、しばらく俺だけ叔父の家にやっか
いになることになって・・・・・・それで薫さんには『ひとりで寂しい』とは言いましたけど」
・・・・・・つまり、真太は薫に何ひとつ嘘はついていないのだ。
ただ、いかにも勘違いをしそうな曖昧な言い回しを使っただけで。
「・・・・・・両親は、健在でござったか・・・・・・」
「はい、新しい住まいの目鼻もついたので、鎌倉に戻ってこいと手紙が届いて・・・・・・だから、東京とはもうお別れなんです。とても残念ですが・・・・・・」
剣心は脱力感を覚えつつも、真太が東京に来て薫を好きになったのが「今」で良かったと心から思った。
きっと、長じればこの賢しさに磨きがかかるに違いない。そんな奴が薫を口説こうものなら、もっと心穏やかではいられなかった筈だ。
―――いずれにせよ、どんな相手でも彼女のことは絶対に渡しはしないが。
「・・・・・・じゃあ、鎌倉に戻っても、元気で過ごすでござるよ・・・・・・」
剣心は真太にくるりと背を向けて、縁日会場の方へと歩き出した。その背中に向かって真太は「さっきの話、薫さんには言わないでくださいよー!」と、呼
びかける。
「どうかな、拙者は薫殿に隠し事など出来ぬゆえ」
振り向かずに答えると、後方から焦った気配が伝わってきた。剣心はひらひらと手を振って「とはいえ、聞いても面白くない話なら、わざわざする必要もな
いでござるがな」と付け加えた。しかし、両親が生きていたという事実はなんとか巧い具合に伝えたいものだな―――と、そんな事も考えたが、口には出
さなかった。
一方の真太はひとまず安心して、かくんと肩を落として大きく息をつく。そして顔を上げて、ぎっ、と剣心の背中を睨みつけた。
「やっぱり、あんたなんか大っっっ嫌いだっ!!」
これも「捨て台詞」の部類に入るのだろうかと思いつつも、叫ばずにはいられなかった。
それに対して剣心が飄々と「かたじけない」と答えたのがまた悔しかった。
ひとり社の前に残された真太は、身を屈めて先程地面に叩きつけた狐面を拾い上げようとした。
すると、石にでも引っかかっていたのだろうか。張子の面の横から伸びた紐に、びし、と思いがけない手応えがあった。
構わず引くと、びり、と嫌な音がした。見ると、加えられた力に耐えきれず、側の紐の部分の紙がほんの少しだが裂けてしまっている。
真太はひとつ舌打ちをして、また、泣きたい気分になった。
15 「剣心と薫」へ 続く。