「・・・・・・降ってきたでござるな」
薫の髪に頬を寄せながら、剣心は呟いた。
ぱらぱらと屋根を叩く雨音ははじめは控えめだったが、だんだんと賑やかさを増してゆく。
「あら? 洗濯物って、干してなかったかしら」
「さっき取り込んでおいたから、大丈夫でござるよ」
「あ、よかった・・・・・・ありがとう」
剣心の肩に預けていた頭を起こした薫は、ほっと息をつくとそのまま首をのばして彼の頬に口づけた。
お返し、というように剣心は薫のおとがいを捕まえて、同じ場所に唇を寄せる。
互いに「告白」をしてからもう随分時間が経ったが、剣心と薫は壁際で身を寄せ合って座り込んだままなかなか動けずにいた。理由は単純に「離れがた
い」というだけなので、いいかげん腰を上げなくてはと思ってはいるのだが―――そのきっかけがつかめない。
「真太くん、雨にあたってないといいけれど」
ふと薫が口にしたその名前に、剣心はぴくりと片眉を上げた。
「・・・・・・ひゃっ!」
かり、と少し強めに耳たぶに噛みつかれ、薫は驚いて悲鳴をあげる。
「また彼の心配でござるか?」
「もう、そのくらいの心配をするのは普通でしょ?」
「彼に関しては心が狭くならざるを得ないんでござるよ」
「そんなの、自信たっぷりに言わないで」
もっとも、やきもちを焼かれるのは悪い気はしないので、薫はそれ以上剣心を咎めはしなかった。身体を傾けて、もう一度彼の肩に頭を預ける。剣心は薫
のリボンをするりとほどいて、髪に指を差し入れた。
「でも、今日のうちに降っておいてくれてよかったわ、雨」
「おろ? 明日は何かあったでござろうか」
「うん、あのね、夕方から縁日が立つの」
ほどけた髪の中で地肌をくすぐる指の感触が心地よくて、薫はため息を漏らす。
「さっき道端で燕ちゃんに会ってね、夜店に連れて行ってくれないかって頼まれたのよ」
「燕殿に?」
薫は頷くと、小さく頭をずらして剣心を見上げた。
先程、街に出た薫は道で燕と行き会って、立ち話となったのだが―――燕は明日から近所の神社で始まる縁日に、弥彦と一緒に出かける約束をしたの
だという。しかし、子供ふたりで夜店をまわるのは心細い。誰か大人が付き添ってくれると安心なのだが―――と。燕はそう話した。
それを聞いた薫は「だったら、わたしと剣心も一緒に行くわ」と申し出たのだった。
「それは構わないでござるが・・・・・・でも、いいんでござるか? 拙者たちがいると彼らの邪魔になるのでは?」
弥彦と燕こそまだ子供だが、あのふたりの間にある空気が少しずつ「ただの友達」から違う間柄へと変化していっているのは周知の事実だ。剣心はそれ
を思って首を傾げたのだが、薫は「うん、わたしもそう思ったわ」と素直に同意する。
「でもね、もともと『誰か付き添いを』って言い出したのは弥彦からなんですって。だから、あの子に邪険にされることはないとは思うんだけど」
「そうでござるか、まぁそれなら・・・・・・」
弥彦からお邪魔虫めと睨まれることもないか、と剣心は納得した。納得はしたのだが―――上手くは言えないが、燕の「お願い」と弥彦の「提案」、それぞ
れになんとなく不自然なものを感じて、剣心はどこか落ち着かない気分でいた。それはあくまでも、妙な予感の域を出ないものではあったのだが。
「雨もだけど、燕ちゃんも、風邪がひどくならなきゃいいんだけれど」
腕の中の薫が、ぽつりと呟いた。「風邪?」と剣心が問い返すと、薫はこくんと頷く。
「喉の調子がおかしいみたいだったのよね・・・・・・なんか、喋るのもつっかえつっかえって感じで。どうしたの?って訊いてみたら『風邪気味なのかもしれま
せん』って」
なので、「明日は無理はしないほうが」と忠告もしたのだが、燕は「いえ!そういうわけにはいきません!絶対に明日までに治しますから!」と平生の倍ほ
どの勢いと音量で宣言したので、薫はわかったと首肯せざるを得なかったのだ。
「ほんとに楽しみにしているのね・・・・・・あ、弥彦と一緒なのが楽しみなのかしら?」
薫はうふふと微笑んだが、剣心は燕の常らしからぬ様子を聞いて「妙な予感」の密度がより濃くなったような気がした。
★
「雨にあたっているのでは」と薫に心配された真太は、降り出す直前に屋根の下に駆け込むことができた。
ちなみに駆け込んだ先は彼の現在の住まいである叔父宅ではなく、弥彦の住む破落戸長屋である。
そしてそこには「討ち入り」の報告を聞くために、そして今後の「計画」の打ち合わせをするために、前川道場の門下生たちが待機していた。
「・・・・・・だからなんで集まる場所が俺ん家なんだ」
手土産だと押しつけられた煎餅をばりばり噛み砕きながら、弥彦は苦情を申し立てた。すると少年たちは、何をわかりきったことを、と言わんばかりの顔に
なる。
「だって、大人がいないのってお前のとこだけだろ」
「そうだそうだ、こんな計画の相談を大人に聞かせられるかよ」
「言っとくけどな、明日は俺は実働部隊には加わらねーからな」
「なんだと弥彦、ここまできてお前はまだそんな事を?!」
「燕に頼みこんであんな真似までさせて、薫を縁日に来るように仕向けたのは俺だぞ?! それでもう充分協力しただろうが!」
「・・・・・・いや、ありがとう弥彦。ほんとに、それで充分だよ」
少年たちの輪の中心にいる真太は、そう言って弥彦に小さく頭を下げた。
実際、弥彦にはこれまで色々協力してもらった。赤べこで薫に引き合わせてもらったり、道場に連れて行ってもらったり、そしてこの度は燕の力も借りて、
縁日に薫が足を運ぶようお膳立てをしてもらったのだ。
「今日の討ち入りは、まぁ、一度ちゃんと剣心さんにぶつかりたくてやったことだ。それについては、気が済んだよ。勿論、手合わせは全然歯が立たなかっ
たけれど・・・・・・俺がどれだけ薫さんの事を好きか、言ってやることはできたんだし」
そういう意味では、討ち入りというよりは「宣戦布告」だったのかな、と。真太は少し笑った。少年たちは真太の「本気」を感じ取ってより真剣な面持ちにな
る。また、剣心が真太の勝負を受けたというのも彼らにとっては衝撃だった。それはつまり、剣心が真太の事を、薫をめぐっての「対等の恋敵」として認め
たということではないか―――
「・・・・・・でも、宣戦布告をしたのだから、剣心さんは今まで以上に警戒をしていると思う。だから、みんな―――」
「わかってるさ、明日は俺たちの協力が不可欠ってことだろ?」
少年たちは「任せておけ」と言わんばかりに力強く頷く。
「お前、もう時間がないんだもんな・・・・・・悔いのないよう、思うとおりに行動しろよ」
「ああ、俺たちはずっと薫さんに憧れていたけど、憧れるだけでそこから先の努力はしなかったもんな・・・・・・お前、凄いよ。その頑張りはさ」
「・・・・・・みんな・・・・・・」
真太は門下生たちひとりひとりの顔をじっと見て、感極まったように「ありがとう!」と言った。
妙な団結力で盛り上がる少年たちを一歩離れたところで見守りながら、家主である弥彦はため息をつく。
昨日、真太のもとに届いた一通の手紙。
それによって、真太は自分の「東京での残された時間」が少なくなったことを知った。
少年たちはその知らせを聞いて、真太の為に急遽ある計画を立てた。それに弥彦は「薫を縁日に連れ出す」という役割で協力することになってしまったの
だ。そのために、弥彦は燕に頼みこんで、彼女に慣れない嘘までついてもらったのである。燕を巻き込んだ時点で充分後ろ暗くなってしまったというのに、
この上さらに明日の現場の協力などできるわけがない。
だいたい、明日起こることに対し、剣心はきっと怒る。
普段は温厚を絵に描いて額に飾ったような人柄の剣心だが、だからこそ一度ぶち切れたらどんな恐ろしいことになるのか、弥彦はよく知っている。まして
や薫絡みの事となると、怒りは簡単に沸点に達することだろう。
・・・・・・俺が乗り気でないことぐらい、剣心なら判るだろうけれど―――でもあいつは薫のこととなると理性が吹っ飛ぶからなぁ、と。弥彦は頭を抱えたい思
いだった。
「・・・・・・って、なんだかんだ言っても結果は見えてるんだけどな」
皆には聞こえないよう、口の中で小さく呟く。
先日、「例外はあるかも」と剣心に言ったものの、薫の心が剣心以外の男性に傾くなんて想像できない。
真太の恋が実ることは万が一億が一にもないと思う、が。
「当たって砕けりゃ、すっきりするだろうしな」
これまた他の面々には聞かせられない身も蓋もない台詞を、弥彦はこっそり口にした。
11 「決戦の縁日」へ 続く。