梅雨の名残の水たまりを、彼女は軽々と飛び越えた。
普通の装いの女性なら、そんな真似は出来ないだろう。しかし、彼女が身にまとっていたのは剣術の道着だった。
飾り気のまったくない紺の袴の裾を軽くさばいて、小さく助走をつけるようにして一歩踏み込む。
晴れ渡った梅雨明けの青空を映した水たまりを難なく飛び越え、着地に成功した彼女はぱっと笑顔になった。
なんだろう。今きらきらと光が弾けたように見えた。
彼女とすれ違った少年は、思わず知らず足を止めた。
高い位置でひとつに結った髪が揺れて、ほんの僅かにだが、甘い香りが漂う。
袖からのぞく尖った肘は道着の白に負けないほど白く眩しくて、彼は思わず目を細める。
「おーい、何してる?」
先を行く叔父が、少年が立ち止まったまま動かないでいるのに気づいて呼びかける。しかし少年はまだ彼女の後姿を目で追っていた。
「なんだ、落し物でもしたのか?」
「・・・・・・女剣士がいた」
今来た道を戻ってきた叔父に、少年はぽつりとそう言った。叔父は彼の視線の先を追い、そして「ああ」と頷いた。
「薫さんだろう。神谷道場の道場主だよ」
「叔父さん、知ってるの?」
そこで少年はようやく首を動かし、叔父の顔を見上げた。
「ああ、剣術小町って呼ばれていて、この辺で剣術をやっている若いのには評判だよ。俺が昔通っていた道場にも教えに行ってると聞いたな」
再び歩き出した叔父に少年は走り寄って、「叔父さんが通っていたのって、どこの道場?」と食いつくように尋ねた。
叔父は彼の真剣な顔を見て、一拍置いてから声をあげて笑った。興味を持ったのは剣術道場のほうなのか彼女のほうなのか、それは一目瞭然だった。
「お前なぁ・・・・・・あのお嬢さんは難しいぞ?」
からからと笑いながら、叔父はぽんぽんと少年の頭を軽く叩いた。
少年は「何だよそれー!」と憤慨の声を上げ、首を動かして叔父の手を振り払った。その拍子に、彼の緋色の髪が大きく揺れる。
あのひとも、俺と同じ髪型をしていたな。
そんな小さな偶然が、何故か嬉しかった。
少年は今知ったばかりの彼女の名前を、少し先を歩く叔父に聞かれないよう小さく口の中で繰り返した。
★
「おはようございます!」
その日、道場に足を踏み入れるなり一番にかけられた元気な声に、薫は目をぱちくりさせた。
目の前に立っているのは、初めて会う少年だった。
年の頃は弥彦より少し上、薫よりも幾つか下といったところか。細い手には竹刀が握られているということは、新しい門下生だろう。
しかし、この子は―――
「ああ、紹介するよ薫くん。うちのもと門下生の甥御さんで、先日入門してくれたのだよ」
薫に遅れて入ってきた前川が、そう説明した。促された少年は、張りのある声で自己紹介をする。
「三田村真太です、よろしくお願いします!」
「・・・・・・しんた、くん?」
それは、薫の大事なひとの子供の頃の名と、同じ響きだった。
思わず聞き返した薫に、少年は「はい」と大きく頷く。
「真実の真に太で、真太です」
「そうなの・・・・・・いい名前ね」
そう言って薫が微笑むと、彼は嬉しそうに「ありがとうございます!」と礼を返して笑った。
人懐っこい、まだ多分に幼さの残る笑顔だが、少年―――真太はなかなか整った顔の造作をしていた。こんな子が通い始めたのなら、今に道場の近所に
住む同じ年頃の少女たちが騒ぎ出すことだろうな、と薫は思う。いや、それだけではなく、彼は―――
「・・・・・・お弟子さんの、甥御さんなんですか」
他の門下生たちの輪に戻ってゆく真太の背中を眺めながら、薫は改めて尋ねた。
「ああ、あの子の家は鎌倉なんだが、今は事情があってこちらの叔父貴殿のところに身を寄せていてね。年は十四だが、今まで剣術を学んだことはない
そうだ。それが、東京にいるうちに習ってみたいと言い出したそうで、しばらくの間うちに通うことになったのだよ」
昨年、縁一派からの襲撃を受けたのをきっかけに引退を決めた前川だったが、なかなか道場を後進に譲る目途がたたず、結局今現在も若者たちに剣を教
えている。隠居所の用意までしたのだから早く身を引きたい、と本人は常々こぼしているが、彼を慕う周りの者たちが簡単にはそうさせてくれないらしい。
その前川が、彼にしては珍しい稚気を含んだ声で薫に訊いた。
「どうだい、驚いたのではないかね?」
薫は、ほぅ、とひとつ大きく息をつくと、素直に「びっくりしました」と答えた。
緋い髪の色に、明るい色の瞳。端整で、優しげな顔立ち。
勿論あの子は、まだ子供だが、でも。
「子供の頃の剣心って、あんな感じだったんでしょうか・・・・・・」
そう、瓜二つとまではいかないが、あの少年の風貌はどこか剣心に似ているのだ。
前川が前もって薫に「新入りが加わった」という事を伝えなかったのは、前知識なしに真太に引き合わせて驚かせるつもりだったのだろう。
「儂もおやおやと思ったのだが、細君の目から見てもやはり似ているだろう?」
「うーん、たしかに、似てると思います。本人が見たらなんて言うかしら・・・・・・あ、その剣心なんですが今警察署に行ってるんですけど、用が終わったらこ
ちらに寄るって言ってました。久しぶりに先生にご挨拶したいって」
「おお、それは楽しみだ。もっとちょくちょく顔を出して欲しいのだが・・・・・・むしろ儂としては、うちの今後は君たち夫婦に任せる事も考えているのだがね」
前川の口調はあながち冗談でもなさそうだったが、薫はくすくす笑って「勿体ないお話ありがとうございます、でも、それは難しいです」とかわした。
「剣心と夫婦になったとき、活心流はふたりでやっていこうねって約束したんです。やっと新しい門下生たちも入ってきてくれたんで、今はまず、こっちをち
ゃんとしていかなくちゃいけませんから」
薫は今も前川道場をはじめ、他流への出稽古を続けているが、この春あたりから神谷活心流の門下を叩く者がちらほら現れ始めた。
現在、新しく加わった門下生は殆どが年端のいかない子供たちであったが、それでも、門下生が弥彦のみだった頃に比べると大きな進歩である。
前川はしゃんと背を伸ばしてそう答えた薫に目を細めると、ぽん、と細い肩に手を置いた。
「君がこうして立派に道場を守っていることを、お父上も浄土で喜んでいるに違いないよ。いや、誇らしく思っているだろうな」
薫は「ありがとうございます、まだまだ未熟で恥ずかしい限りですけど」と照れながら恐縮し―――そして、大事な一言をつけ加えた。
「きっと、わたしひとりじゃ出来ませんでした。良人が・・・・・・剣心がいてくれたおかげです」
★
「やっぱ、いいよなぁ・・・・・・薫さん・・・・・・」
その日の稽古が終わった後の、帰り道。
真太はため息をつきながらうっとりとした口調でそう言った。
「華奢で可愛いんだけれど、凛としているっていうか・・・・・・女の身で父親の道場を継いだっていうのもいじらしいし、かっこいいよなぁ・・・・・・」
ぽわーっとした様子で誰に向けて話すでもなく続ける真太に、一緒に道場を出た同じ年頃の門下生たちは顔を見合わせる。そして、同病相哀れむといっ
た表情で一斉に首を横に振った。
なんというか、それは前川道場に通う少年の大半が一度は通る道なのである。
まさに今の真太のように、道場ではじめて薫に接した年若い門下生は、かなりの割合で評判の「剣術小町」にうっとりしたりときめいたり淡い恋心を抱いた
りするのだが―――
「真太、傷が深くならないうちに前もって言っておく。薫さんを狙うのはやめておけ」
仲間を代表してひとりの少年が進言し、他の門下生たちもうんうんと頷く。ただひとり弥彦だけは、呆れたような顔で彼らのことを眺めていた。
「え、何で? 抜け駆け禁止とかそういう協定があるとか? 確かに競争率は高そうだけど」
「競争率は高い。いや、今でも高いんだが、もはや高かったと言うべきか・・・・・・」
沈痛な声に、弥彦の「悪趣味な奴が多すぎるよなぁ」という呟きが重なる。途端、「なんだ弥彦生意気言いやがって」「燕ちゃんがいるからって余裕かまし
やがって」「ちくしょううらやましいぞこの野郎」と糾弾の声があがった。それを弥彦が「何だおいやる気かー?」と受けて一触即発の空気になるが、それを
横目に「代表」した少年は真太に向かって話をすすめた。
「いいか真太、薫さんが継いだお父上の流派の名前は?」
「え、神谷活心流だろ?」
少年は重々しく頷くと、ゆっくりと次の質問を口にした。
「じゃあ、薫さんの名前は?」
「え、緋村薫だろ?・・・・・・って、え、あれ・・・・・・?」
答えながら、真太は薫の継いだ流派の名前と、彼女の名字が一致しないことにようやく気づいた。
名字が違う。と、いうことは。
「こら、あなたたち! 道の真ん中で広がって騒がないの!」
と、後ろから響いた渦中の人の声に、少年たちは一斉に振り向いた。そこにいたのは薫と―――緋い髪の小柄な剣客だった。
それまでの話の流れもあって、少年たちの視線は一斉に剣心のほうに向けられる。
「・・・・・・悪趣味の筆頭横綱がいた」
なんとなく皆が無言になるなか、弥彦がぼそりと呟いた。その場の奇妙な雰囲気に剣心は「おろ?」と首を傾げ、薫は「またわたしの悪口でも言ってたん
でしょ」と弥彦を睨んだ。
「みんな、仲が良いのはいいけれど寄り道はほどほどにするのよー? じゃあね、さようなら」
少年たちははいと返事をしつつ、ふたりに「さようなら」の挨拶をする。剣心と薫は立ち止まったままの彼らを追い抜いて、肩を並べて道の先を歩いてゆく。
彼らから少し離れたところで、剣心は自然な動作で薫が肩に担いでいた竹刀をすっと取り上げ、自分の肩に乗せた。薫が剣心の方を向いて礼を言う。そ
の横顔は、少年たちのいる場所からもしっかりと確認することができた。
薫が剣心に向けている柔らかな視線と、どこか恥じらいを含んだ笑み。
それは、普段門下生たちに見せる表情とはまったく違う、好きなひとの前だからこその表情で―――少年たちは、揃って重苦しいため息をついた。
「・・・・・・去年までは、まだ、神谷薫だったんだ」
「俺たちの方が前から憧れていたっていうのに、後からやって来てあっさりかっさらいやがって・・・・・・」
「剣心さんのことは剣客としては尊敬しているが!薫さんを奪ったことについては許し難い!」
「・・・・・・お前らさぁ、あいつに幻想抱きすぎだって。男ばっかりのところに紅一点が混じってるから、五割増しでよく見えてるだけだぞ?」
弥彦としては嘆く彼等に慰めの言葉をかけたつもりだったのだが―――それは却って火に油を注ぐことになった。
「なんだと弥彦失礼な。お前も見ただろう薫さんの花嫁姿は天女のようだったろうが」
「まぁそれはそうだったかもしれないけれど、馬子にも衣装ってよく言うだろ」
「失敬な!錦上に花と言え!」
「んだよ、これでもお前らの夢を壊さないよう気ぃ遣ってんだぞ!? なんだったらあいつの残念なところ洗いざらい教えてやろうか!?」
「ええいちょっと一緒に住んでいたことがあるからって生意気な!」
「なんだおいやる気かー!?」
弥彦を囲んで他の門下生たちがやいのやいのと騒いでいる中、真太だけは呆然としながらも、じっと剣心と薫の後ろ姿を目で追っていた。
そして、ふたりの背中が小さくなって見えなくなった頃、真太は爪が手のひらに食い込むほど強く、ぎゅっと拳を握りしめた。
「・・・・・・低いじゃん、競争率」
その呟きに、少年たちは小突き合うのをぴたりと止めた。
立ち尽くす真太はきっと眉間に力をこめて、何か思いつめたような表情をしている。
「相手がひとりって事は、競争率は前より低くなってるってことだろ?」
静かな、しかし決意を湛えた声で真太は言った。少年たちはきょとんとして、そして一拍置いて彼の言葉の意味を理解し、一斉に色めき立つ。
「って、お前剣心さんに対抗するつもりか!?」
「馬鹿か!?馬鹿なのか!? いやむしろ正気か!?」
「確かにお前の顔ちょっと剣心さんに似ててびっくりはしたけどさぁ、それでどうにかなるってもんでもないだろー」
「そうだそうだ、何より強さの格も違うしああ見えて薫さんよりひとまわり年上の大人の男で」
「じゃあ、俺のほうが薫さんに年が近いってことだよな?」
真太の指摘に、少年たちはぐっと言葉に詰まり、そりゃまぁ確かにそうだけれどと首を捻る。
「俺、諦めないからな。旦那がいるからって、そんなのが諦める理由になるかよ!全力を尽くして、断固として戦ってやる!」
高らかに宣言する真太の背中を眺めながら、弥彦は「旦那がいるのは充分諦める理由になるんじゃねーか?」と呟いた。
他の少年たちも「だよなー」と頷いたが、彼らの声は真太の耳には届いていなかった。
★
「・・・・・・ね、似てたでしょ?」
門下生たちの群れを追い抜かした後、薫は剣心に悪戯っぽく尋ねた。
「ん? ああ、例の新しい門下生でござるか」
「そうそう! しかも名前が『しんた』だなんて、凄い偶然よね」
「名前は、まぁ、そうでござるな」
剣心は頭を動かしてちらりと後方に目を走らせ、それから首を傾げた。
「ちょっとは似ているかもしれないが・・・・・・そっくりというわけではござらんよ」
彼の答えに、薫は「えー」と不満げな声を出す。
「そうかしら? 前川先生も似てるって言ってたんだけどなー」
「髪の色の所為でござろう? 髪型も、昔の拙者と同じでござるが」
「あ、そうよね、前に剣心そう言ってたわよね」
「似ているというなら、薫殿と馨殿のほうがよっぽどそっくりでござろう」
馨の名を発する時あからさまに嫌な顔をした剣心に、薫は思わず笑ってしまった。落としたハンカチを拾った縁で知り合った呉服屋の娘・馨は、薫と双子の
ようにそっくりなのである。馨は薫のことを実の姉妹のように慕っているのだが、いかんせん馨の趣味は剣心を「苛める」ことで―――剣心にとって彼女は
「天敵」なのだ。
「馨さん、秋には静馬さんと祝言を挙げるって言ってたわね。わたしたちもお祝いしに行かなくっちゃね」
「静馬殿も物好きでござるなぁ」
毒づいた剣心を薫は肘で小突いて諌めたが、剣心はその手を捕まえて柔らかく手のひらで握りこんだ。実のところ、薫の荷物を預かってからずっと手を繋
ぐタイミングを計っていたのだが―――これだけ距離が開けばもう門下生たちに見咎められる心配もないだろう。薫は剣心の横顔に照れくさそうに微笑み
かけると、繋いだ手をきゅっと握り返した。
剣心はてのひらから伝わる薫のぬくもりを感じながら、自分と似ているという少年―――真太の事を考えていた。
先程、門下生たちを追い抜かした後に振り返ってみた時、その真太が、じっとこちらを見ているのがわかった。
彼との間には結構な距離があったが、それでも、ほんの短い刹那ふたつの視線がぶつかった。
あの瞬間感じたものは―――間違いなく、敵意だった。
2 「アプローチ」 へ続く。