「平常心って、どうやったら鍛えられるものなのかしら・・・・・・」
ため息とともにこぼれ落ちた呟きはひとりごとのようなものだったが、剣心はそれを聞き逃さなかった。
「弥彦に何か言われたのでござるか?」
「・・・・・・なんで弥彦だってわかるの?」
「稽古の後、弥彦が飛び出していったでござるから、これはまた喧嘩でもしたのかと思って。薫殿も、さっきから眉間に皺が寄っているし」
「うそ、やだほんとっ?!」
慌てて額のあたりを手のひらで覆って隠す薫に、剣心はくすくす笑いながら湯呑みを差し出した。ばつの悪い表情を浮かべつつ、薫は「ありがとう」とそれ
を受け取る。
「『昼飯は赤べこで食ってくる』とか言ってたでござるな」
「あの子また、賄いにありつく気ね・・・・・・今度、ちゃんと妙さんにお礼言わなきゃ」
「で、平常心がどうかしたのでござるか?」
差し向かいに腰をおろした剣心に、薫は先程の道場でのやりとりを、ぽつりぽつりと話しはじめた。
稽古中に、言われたとおりにできなかったり、どうにも調子が乗らなかったりする日、弥彦は目に見えて態度が悪くなる。
そうなると師匠である薫としては、注意しないわけにはいかなくなる。
「前にも言ったけれど、あんたが鍛えなくちゃいけないのは技術よりも精神面よ。言ったでしょ?平常心を保ちなさいって―――」
最初にそんなことを言ったのは、縁一派との闘いの前、奥義を教えろ教えないで揉めていた時のことだ。はっきり言って、弥彦は同年代の少年たちと比
べると、ずば抜けて強い。だから、今はむしろ技術よりもそれに見合った心の強さを身につけるべきなのだと―――
「・・・・・・ブス」
・・・・・・そうだった。あの時も弥彦は同じように、脈絡なく暴言を吐いて師匠の平常心を試そうとしてきたのだった。薫はぴくりとこめかみを引きつらせつつも
「あら、またその手でくるわけ?こっちだって、何度もひっかかったりはしないわよ」と、余裕綽々でかわしてみせる。すると弥彦は少し考えたのち、今度は
「でーぶ!」と大きな声で言い放った。薫のこめかみが、またもぴくぴくと震える。
「お生憎さま、京都から帰ってきて以来、むしろ痩せたくらいですー」
冷静さはかろうじて保てたものの、口調がやや子供じみたものになってしまった。弥彦はいくばくかの黙考ののち―――
「今朝のメシは、またいちだんと気合いの入った不味さだったよなぁ」
しみじみ言われたところで、堪忍袋の緒が切れた。
「・・・・・・で、いつもの流れでいつもの喧嘩よ。まったく・・・・・・どうにかならないのかしら?!あの口の悪さは!」
「まあ、弥彦も相手が薫殿だから、言いたいことを自由に言えるんでござろう。甘えているんでござるよ」
そう言って、剣心は鷹揚に笑うと「とはいえ、後で拙者からも叱っておくでござる」とつけ加える。その笑顔と言葉からは、薫と弥彦の双方に対しての気配り
が感じられて、薫は先程とは違った意味合いのため息をついた。
「・・・・・・わたしも、剣心みたいになれたらなぁ」
「おろ?拙者みたいに、とは?」
「穏やかっていうか、多少のことでは動じないっていうか・・・・・・わたしだってわかってはいるのよ?あの子の言うことを真に受けて、つられて大人げない反
応をしちゃうのがいけないんだって。わたしも剣心みたいに、大人の余裕を見せられたらいいのにな」
素直に尊敬の念を口にしたのだが、剣心は「いやいや」と首を横にふって否定の意思表示をしてみせる。
「拙者だってそんなに人間ができているわけではないでござるよ。まだまだ自分を御せずにいるし、むしろ短気なくらいだ」
「嘘!剣心ぜんぜん短気じゃないじゃない」
「そうでもないでござるよ。ほら、薫殿が刃衛に連れ去られたときだって、怒りで我を忘れてしまったでござるし」
「・・・・・・あ」
あれから色々あったので、ずいぶん昔の出来事のようにも感じられるけれど。黒笠・刃衛の事件はほんの半年ほど前に起きたことだ。
確かに、あの時の剣心はものすごく怒っていた。言葉遣いも昔に戻って、ずっと守っていた不殺の誓いも破りそうになって―――そのくらい、我を忘れて
しまうほど怒っていた。
その様子を間近で見ていた薫は、彼が自分の知っている「剣心」でなくなってしまいそうなのが怖くて、彼が流浪人になってから守ってきた大事なものが
失われるのが嫌で、その一念で「心の一方」を破ってのけて―――
「あの時は拙者のせいで、怖い思いをさせてしまったでござるな」
剣心は申し訳なさそうにそう言った。しかし薫は、少し首をかしげて考えてから、「・・・・・・あの、ね?」と、ためらいがちに口を開く。
「えーとね、今、剣心もわたしもこうして無事でいるわけだから、今だからこんなこと、言えるんだけど・・・・・・」
こんなふうに思うのは、不謹慎かもしれない。でも、
「わたしのために剣心があんなに怒ってくれたことは・・・・・・なんか、なんていうか、嬉しいなぁ・・・・・・って」
半年前にはこんな事、たとえ思ってしまっても口に出しては言えなかった。
けれど、色々あって。いろいろな出来事を経て、晴れて恋人同士となった今は、素直な思いを言葉にできるようになった。
とはいえ、こういう事を口にするのが照れくさくなくなったわけでもなくて―――言った直後に真っ赤になった薫は、剣心の顔を正視できなくなって、俯いた。
ぎゅんと速くなった鼓動を、鎮まれ鎮まれと念じていると、視界に剣心の袴が入りこむ。おとがいを上げるとすぐ近くに彼の顔があったものだから、またして
も心臓がどきんと跳ね上がった。
「剣心・・・・・・?」
「拙者も、嬉しい」
「え?」
「薫殿がそう思ってくれたなら、短気を出した甲斐もあった」
はにかむように、目を細めて笑う。その笑顔に見とれていると、あっという間に抱きしめられた。
「けん・・・・・・」
ほぼ不意打ちの抱擁に、声が裏返りかけるのが恥ずかしい。
彼の名を最後まで発することができないまま、唇をふさがれる。
触れるだけの、けれど熱っぽい口づけ。
強く引き寄せられて、膝が崩れる。ぎゅっと瞳を閉じながら、薫は「脚、見えてたらどうしよう・・・・・・」と頭の片隅で考える。
剣心に、こんなふうにされるのはすごく嬉しい。
しかし、嬉しいのと同時に―――すごく、戸惑う。
互いの気持ちをちゃんと伝えあったのは、ごく最近のこと。ふたりで京都に行ったときのことだ。はじめて口づけを交わしたのも、その夜だった。
その夜を境に剣心との距離が―――そう、まさしく物理的な距離があまりにも急激に近くなってしまい、薫は嬉しいだけではなく大いに戸惑ってもいた。
だって、それまでは周りから「いい仲」と認められてはいたものの、手を繋いだり肩を抱かれたりするようなことすら、滅多になかったというのに。
それが今や、ふたりきりになれば当然のように(剣術的に表現すると)間合いをつめられて捕まえられて触れられて抱きしめられて口づけられて―――
ずっと好きだったひとからそうされるのは嬉しいのだけれど、いかんせん、急すぎる。
急すぎる距離の変化についていけてないというのが正直なところで、こんなふうにされるとどう反応したらよいのかわからなくなる。だいたい、男のひとに
こんなふうにされること自体、生まれてはじめての経験なのだ。
嬉しいけれど、嬉しいのだけれど、頭の中が沸騰したみたいになって真っ白になって、顔が熱くなって胸のどきどきが止まらなくてそれこそ平常心どころ
の騒ぎじゃなくて―――
ふと、わずかにぬくもりが離れた。
薫は反射的に、きつく閉じていた目をあける。
「・・・・・・リボン、ほどいてもいいでござるか?」
酸素不足で朦朧とする頭で、薫は素直に「どうして・・・・・・?」と疑問を口にする。
「直接、髪を撫でたいから」
なんだそんなことか、と思ったから、「いいわよ」と答えた。「かたじけない」と、いやに真面目な顔で言った剣心が、指をのばす。
ぱさり、と。リボンが畳の上に落ちた。それを拾う間は、薫には与えられなかった。
ふたたび重なる唇。
娘らしく、蝶々を摸した愛らしい形に結った背中の帯に、さらりと黒髪が流れる。
そして。
・・・・・・う、
うわ、なにこれ。
うそ、なにこれ、やだ、どうしよう。
髪を撫でるのなんて、子供が大人から「いい子いい子」とされるみたいな、あんな感じのものだと思っていたのに。
もしくは、縁側に遊びに来た近所の猫を撫でるような、あんな感じのことだと思っていたのに。
やだ、どうしよう。
思ってたのと、全然違う。
結んでいた髪をほどかれるのは、純粋に感覚的に気持ちいい。それまできゅっと締め付けていたものがなくなる、解放感というのだろうか。
その、ほどいた髪に差し入れられた、彼の指。
かわいた手のひらが大きく動いて、ゆっくりと髪をかきみだされて。指先が、生え際を、地肌をなぞって、耳たぶをかすめて。
どうしよう、知らなかった。
好きなひとにこんなふうにされるのって・・・・・・こんなに、気持ちいいんだ。
唇に軽く歯を立てられて、危うく漏らしそうになった声を薫は必死にこらえる。いや、こらえきれていなかったのかもしれない。唇の上で、剣心が小さく「ご
めん」と詫びた。だいじょうぶ、と返したかったのだけれど、なんだかまた変な声が出てしまいそうだったので諦めた。
ぴったりと密着させた、身体が熱い。着物越しでもわかる、相手の体温。熱くて、でも気持ちいい。
でもその気持ちよさは今まで感じたことがない気持ちよさで、なんだかちょっと、怖い。
座っているのにくらくらと目眩がしてきそうで、薫は剣心の背中にぎゅっとしがみつく。きっと着物の裾はもうかなり乱れてしまっているけれど、それすらも
どうでもよくなりそうになる。
耳のあたりをさまよっていた剣心の指が、首の後ろをつたって、こぶしひとつぶん抜いた衣紋の中におろされた。爪の先が、うなじをなぞる。普段は誰に
も触れられることのないそこに、剣心の手のひらの熱を感じて―――
「ま・・・・・・待って剣心!!!」
剣心の胸をぐいっと両手で押し返して、薫は「一旦中断」の意を示す。
「・・・・・・なに?」
彼も顔を上気させていたけれど、表情にはどこか余裕があるのが憎らしい。
しかし、この要望はちゃんと主張しておかなくては駄目だ。
「剣心も、髪、ほどいて」
端的な要求に、剣心はぽかんとする。
「どうしてでござる?」と、先程の薫とまったく同じ質問を返すと、
「わたしばっかり気持ちいいのは、なんか嫌だわ。わたしも、剣心に同じようにしてあげたいの」
・・・・・・これは、剣心にとっては、完全に予想外だった。
いや、そもそも薫は出逢ったばかりのころから、剣心にとって予想だにしない発言をたびたび繰り返出してきた。その都度驚かされもしたし、また、救
われたことも多くあった。
おそらくこの度も、「自分ばかりなのは申し訳ない」「公平でありたい」という、彼女らしい潔癖さから出た率直な言葉なのだろう。
でも、気持ちいいって。
そんな、そのものずばりの言い方をされてしまったら、そんな―――
大きな目でじっと見つめられて。その瞳から目を離せないまま、剣心は指を自分の髪紐にのばしかけて、すんでのところで我に返った。
「いや、薫殿、それは駄目でござるよ」
「どうして?」
「どうしてって・・・・・・その、拙者がそうされたら、きっと・・・・・・」
薫からそんなことをされたら、絶対嬉しいに決まっている。
嬉しいだけじゃなく、気持ちいいに決まっている。
今そんなふうにされたら、きっと、
「歯止めが・・・・・・きかなくなるから」
言ってから、しまったと思った。
あああどうしようこんなことを言ったら怖がられるだろうし軽蔑されるに決まっているじゃないか。どうして俺は両想いになってからというもの、こんな風に
みっともない姿ばかりを彼女に見せているのだろう―――
頭の中がたちまち後悔の念でいっぱいになり、とりつくろう台詞すら発せずにいる剣心にむかって。
薫はひとこと、ぽつりと言った。
「・・・・・・きかなくなっても、いいのに」
長い口づけの余韻に潤んだ瞳で見つめられながら、しどけなく乱れた髪を羞ずかしげに押さえながらそう言われたものだから。
剣心はみるみるうちに、顔を通り越して首筋まで見事に真っ赤になった。
「いや、でも、こういう事はもっとちゃんと、その・・・・・・いくら弥彦がいないとはいえまだ昼間でござる、し・・・・・・」
もはやとりつくろう余地もない、正直すぎる台詞を口走ってしまい、剣心は「何を言ってるんだ俺は・・・・・・」と頭を抱える。
ぽろりとこぼれ落ちた滅多に使わない一人称は、いっぱいいっぱいになってしまっている証拠であろう。煩悶する彼に少し申し訳ないと思いつつ、薫の
頬は自然とほころんだ。
急激に近くなったあなたとの距離に、わたしひとりがどきどきしてあわあわして、戸惑ってばかりいるものと思っていた。
でも―――彼もある意味、急激に近くなった距離に心の押さえが外れてしまい、翻弄されているのかもしれない。
「その、すまない薫殿。なんというか、余裕がなくて・・・・・・」
しゅんと眉毛が下がった、情けない顔で謝られる。その顔が、これまた申し訳ないことにとても可愛かったので、それこそ「いい子いい子」と頭を撫でて
あげたくなった。
今だから言えることだけど、あなたがわたしのために怒ってくれたことが、嬉しかった。
こうして今、あなたがわたしのために余裕をなくして平常心を保てずにいることも―――
「・・・・・・すっごく、嬉しいかも」
え?と剣心は不思議そうな顔をしたが、薫はくすりと笑って、それから黙って目を閉じる。
それは明らかに「接吻されるのを待っている」姿勢だったので、迷うことなく剣心は可憐な唇に自分のそれを寄せる。
口づけを受けながら、薫はそろそろと腕をのばし、剣心の首に抱きついた。
「隙あり」と、心の中で呟いて―――薫は剣心の髪紐を、するりと解いた。
了
2021.06.05
モドル。