想いを寄せている相手が、すぐそばにいる。
        どのくらいそばなのかというと、着物越しに体温を感じるくらい、ぴったりとそばにいる。


        更に言うと、その相手は―――薫はこのうえなく機嫌の良さそうな笑みを頬に浮かべており、その極上の笑顔を近距離からこちらに向けている。
        何か特別なものをつけているわけでもないだろうに、仄かに甘い香りがして。それは距離が零になるほど密着されているからこそ感じられるもので。

        恋い焦がれている相手に寄り添われて、にこにこと可愛らしく笑って見つめられて、それはとびきり幸せな状況の筈なのに、今の剣心はその幸福感を素
        直に噛み締めることはできなかった。



        まわりに居る、にやにや笑いを浮かべた左之助や弥彦、操や冴、更にその他何人もの「観客」たちの好奇の視線に晒されているこの状況下では―――
        とてもじゃないが、噛み締める気にはなれなかった。







       Pretty Drinker






        この国の行く末を賭けた志々雄真実との闘いは、剣心たちの勝利に終わった。

        いや、正しくは辛勝と言うべきであろう。志々雄は自らの炎に焼き尽くされて落命したが、満身創痍の剣心も葵屋に帰り着くなり昏倒した。怪我は重篤だ
        ったが、東京から呼び寄せられた恵の治療と、薫をはじめとした皆の手厚い看病の甲斐もあり、じきに快復へと向かった。そして恵から「もう安心、体力
        が戻れば東京に帰れます」との診断がくだされたところで、一同はようやく愁眉を開くことができた。

        そうなると、どこまでも陽性な翁たちが、祝賀態勢にならない訳がない。
        葵屋が改築中なため白べこに寄宿している面々は、墨痕鮮やかに「京都死守記念」と記した垂れ幕まで作り、連日飲めや歌えやの大騒ぎがはじまった。
        お増は毎日のように「すみません!本当にすみません!」と冴に頭を下げていたが、冴は「ええのええの!こう賑やかやと、お客寄せにもなるし」と笑っ
        ていた。実際、彼らが「旨い酒は大勢のほうがより旨いから、是非ご一緒に」と言って他の客もどんどん宴席に巻き込むものだから、このところの白べこ
        は常に楽しげに賑わっていた。


        その夜、垂れ幕に記されたのは「三十二次会兼快気祝い」の文字だった。いつもの祝勝会に加えて、剣心の床上げを祝おうというのが趣旨の宴会である。
        闘いで右手を酷使したため、箸が持ちづらいのが不便だと連日不平をこぼしている左之助だが、杯を持つのは左手で事足りる。「命あっての物種たぁ、
        こういう事だよなぁ。生きてりゃこうして旨い酒が飲めるんだからよー」と、なみなみと注いだ酒を勢いよく呷っては、ぷはぁと満足そうな息を吐いていた。

        「ほら、嬢ちゃんも飲めよ!今日は剣心もいるんだしよ!」
        不器用ながらもかいがいしく剣心の世話を焼いている薫に向かって、左之助はずいっと徳利を突きつける。
        「え?わたし?」
        そういえば、東京を発ってから、薫は一口も酒を飲んでいなかった。
        剣心を見つけるまではとてもじゃないがそんな気分にはなれなかったし、再会してからは更にそんな気分になれなかったしそんな暇もなかった。そしてこ
        こしばらくは、剣心の怪我が心配でやはり飲むどころではなかったのだが―――

        薫が剣心を見ると、剣心は恵に視線を向ける。察した恵が「剣さんも、少しくらいなら飲んでも大丈夫ですよ」と言うと、左之助と操がすかさず杯を差し出
        した。


        剣心にしても、久しぶりの酒だった。
        ひとくち含むと、ふくよかな香りが口の中に広がる。喉を滑り落ちて、ふわりと胃の腑があたたまる感覚。ああ、旨いなぁと素直に思う。
        それから、「そうだ、酒というものは旨いものだったのだな」と。今更ながらにそう思った。

        ひと昔と少し前―――幕末、殺しに倦んでいた頃。あの頃は、酒を飲んでも血の味にしか感じられなかった。
        酒を不味く感じるなら、それは自分自身が病んでいるからだと師匠が言っていた。間違いなく、あの頃の俺の魂は病んでいたことだろう。はじめて人を斬
        ってから、ずっと。

        今こうして美味い酒が飲めるのは、一緒に酌み交わす仲間がいるからだろう。共に笑って、嘆いて怒って、闘った仲間が。
        彼らがいなかったら、皆との出会いがなかったら、きっと俺は志々雄に勝てなかった。
        彼らとこれからも共にいれば、俺はもっと、変わってゆけるのだろうか―――もっと、人として、善いほうへと。



        ふと、隣を見ると、薫が杯を空けるところだった。
        色白の頬が、酒の所為でほんのり紅を差したように赤くなっている。可愛らしい様子に目を細めつつ、「もう一杯、どうでござるか?」と、徳利をすすめよう
        とすると―――


        「ありがとう!」


        思いがけず、大きな声が返ってきた。
        驚いたのは剣心だけではなく、その場にいた全員の視線が薫に集まる。


        「・・・・・・薫殿?」
        「はいっ、おかわり!」
        「あ・・・・・・うん」

        注がれた酒を、薫はくーっと一息に飲み干した。
        満面の笑みで「おいしーい!」と歓声を上げると、ことんと身体を傾けて、剣心に寄りかかる。


        「・・・・・・その、薫殿?」
        「なぁにー?」
        「酔っているでござるか?」
        その問いに、薫はにこにこ笑ったまま「だって、おいしいんだもん!」と、はずんだ声で返事する。これはどう考えても、酔っている者の返答だろう。
        もともと、薫は酒に強くはない。こうして呑むのは久しぶりだし、心にのしかかっていた様々な心配事が解決して、気が緩んだ所為もあるだろう。酔っぱら
        ったとしても、仕方はないのだろうが―――
        「うふふふふー」
        上機嫌、としか言いようのない笑みをこぼしながら、薫は剣心の肩先に頭をすり寄せる。彼女の髪が頬に触れて、剣心の心臓がどきりと跳ねた。
        近い、というよりは、もはや零になってしまった距離。仕草は子供のようだが、すらりと細い首筋に赤く血がのぼっているのがなまめかしくて、剣心は慌て
        て目線をあさってへと向けた。

        「あらまぁ、仲がええこと・・・・・・」
        「おいおい剣心、役得じゃねーか!やっぱり、生きて帰れてよかったよなぁ」
        早速とばかりに、冴と左之助がひやかしにかかる。
        役得と言われれば、確かにそうだ。恋い焦がれている相手が、にこにこと可愛らしく笑って寄り添ってくれている。着物越しの体温はもちろん、彼女自身
        の甘い香りまでもが伝わってくる。正直なところ、これはとびきり幸せだ。

        しかしながら、にやにや笑いを浮かべた左之助や弥彦、操や冴、更にその他何人もの「観客」たちが、好奇の視線を向けている状況下でもあり―――
        これでは、とてもじゃないがせっかくの幸福感を噛み締める気にはなれない。


        「ちょっと、酔っぱらうのはいいけれど、それじゃ剣さんが重いでしょう。離れなさい」
        若干のやきもちも入りながらも、恵は医者の視点から「床上げ間もない怪我人に負担をかけるな」と薫をたしなめる。すると、薫は大きな目を半眼にし、じ
        とりと恵をにらんだ。
        「恵さん、すぐいじわる言うから、きらい」
        「はぁ?!」
        酔っているからこその、普段は口にしないような直球すぎる言葉に、恵は眦をつり上げる。酒が言わせた台詞とはいえ、すわ大喧嘩の始まりかと一座の
        上に緊張が走った。が―――薫はすぐに、睨んだ目をふわりと和ませる。


        「・・・・・・でも、すぐに京都まできてくれて、剣心を助けてくれて、そういうところはかっこよくて・・・・・・好き!」


        明るい声できっぱり言い切られて、恵は完全に不意を打たれた格好になった。恋敵からの思いがけない「告白」に返す言葉を失い、ぷいっと横を向く。
        「お?なんだなんだ女狐、顔が赤くなってっぞ?可愛いとこあるじゃねーか」
        「うるさいわね!黙ってなさい鳥頭!」
        その悪態は明らかに照れ隠しで、一同からどっと笑い声があがる。薫はにこにこ無邪気な笑顔のまま、剣心にぴったりとくっついていた。

        「ね、薫さん!あたしは?あたしのことは?」
        身を乗り出して手を挙げながら、操が尋ねる。薫は人差し指を頬にあて、かくんと小首をかしげる。
        「操ちゃんは、元気でかわいくて強くて、好き!」
        その答に、おおーと歓声があがる。操は得意気に胸を張ってみせてから、「あたしも薫さん、大好き!」と「愛の告白」を返した。


        以前東京で、左之助と津南の再会を祝って宴会をひらいた際。酒が入った薫は完全な笑い上戸になっていた。
        しかし、今日の薫は少し違って、すっかり子供に返ってしまったような酔い方である。これはこれで、楽しく微笑ましい酔い方であろう。が―――

        「じゃあ嬢ちゃん、剣心のことは?」
        この場にいる全員を代表して、左之助が尋ねた。
        薫が何と答えるかは明白で、皆が期待しているのは当然、それを聞いたときの剣心の反応である。


        「・・・・・・剣心?」
        皆の注目を集めながら、首をめぐらせて、薫は隣の剣心を見る。
        酒精の所為で、とろんとした目。その瞳で凝っと見つめられた剣心は、眼のずっと奥底まで覗きこまれているような気分になる。なんとなれば、その更に
        奥にある、心の中まで。

        「剣心のことはぁ・・・・・・」
        一瞬、周りにいる皆のことも何もかもすべて吹き飛んで、この先の言葉を聞きたい、という誘惑に駆られる。
        でも、それはあくまで一瞬のことで―――次の瞬間、誘惑を振り切った剣心は行動を起こした。



        「だ・・・・・・むぐっ!」



        剣心は腰を浮かすと薫に飛びつき、ばっと右手で彼女の口をふさいだ。
        途端、一座から「あー!」という、驚きと批難の声があがる。
        何が起きたのかわからない、というふうに、目をぱちくりさせている薫から手を離さぬまま、剣心は叫んだ。


        「拙者、気分が優れぬゆえもう寝るでござるよ!御免っ!」


        そして薫を解放し、立ち上がり身を翻す。二階に駆け上がる背中にむかって「なんだそりゃー?!」「臆病者ー!」「敵前逃亡ー!」と散々な言葉が投げ
        つけられたが、剣心としては勇気ある撤退のつもりだった。






        療養のための寝室となっている部屋に逃げ込んだ剣心は、どっと疲れたように息を吐き出し、右手で顔を覆った。が、先程その手のひらで薫の口をふさ
        いだことを思い出し、慌てて下ろす。

        ・・・・・・危なかった。
        口をふさぐ寸前、薫の唇からこぼれた音から、彼女がなんと言おうとしていたかは推測できる。
        それは、剣心にとっては最高に嬉しい言葉だ。しかし、あの状況下では聞きたくないというのが、正直なところだった。
        それは多分、ものすごく贅沢で勝手きわまりない感情かもしれないけれど、でも。



        そんな、大事な貴重な言葉を、「酔った勢い」で告げられるのは―――嫌だ。



        自分が男女のことに鈍感だという自覚はあるが、さすがに薫の気持ちは察しているつもりだ。自分の中にある、彼女への恋心も自覚している。最初は圧し
        殺そうと思っていたその想いは、今ではそんなことは到底無理なくらい、大きく大きく育ってしまっている。
        ただ、互いにそれを、きちんと言葉にして告げてはいない。
        きっと、端から見ている者たちにしてみれば、それがもどかしくてたまらないのだろう。今だって、彼らなりに二人の背中を押そうとしてくれていた。その事は
        わかっている。

        薫が好きだ。
        愛しいと思う。
        とても幸運なことに、彼女も同じ気持ちでいてくれている。

        だからこそ、贅沢な希望だとは思うけれど告白されるならば酔いに任せてなどではなく、いやそもそもされるのではなくて―――



        「俺のほうから、言いたいよ・・・・・・」



        子供がごねて我儘を言うような声音で、剣心はひとりごちる。
        いや、実際こんなのはただの我儘だ。けれど、まだ俺は薫に、自分の過去についてのすべてを語っていない。過去に夫婦になった女性がいたことや、そ
        のひとを失った理由。それを黙ったまま、彼女の想いを受け止めるのは卑怯ではないか。

        ここまで、追いかけてきてくれた薫。死の淵へと落ちかかった俺を、引き戻してくれたひと。
        叶うことなら、これからもっと永い時間を君と過ごしていきたい。そのためには、君には誠実でありたい。
        ならば、過去の出来事や犯した罪を告白することと、君に好きだと告げること。どちらを先に行うべきかは、明白だ。


        しかし―――その告白を聞いた薫は何を思うだろうか。
        それを考えると怖い。
        ものすごく、怖い。




        知らず知らずのうちに頭を抱えていた剣心は、そのままわしわしと緋い髪を掻きむしった。








        ★








        翌朝、二日酔いにもならず普段と変わらぬ様子で朝の挨拶をした薫に、恵は「昨夜、どんな酔い方したか覚えてる?」と訊いた。
        薫はきょとんとして、一拍おいて「え?やだ、わたし何か変なこと言った?!」と狼狽する。

        「覚えてないの?」
        「・・・・・・ぜんぜん・・・・・・」
        恵は眉間に皺を寄せ、薫の顔をねめ回したが、やがて大きくため息をついた。
        「まぁ、ああいうことを演技とか計算とかでできるような頭が、あなたにあるわけないわよね・・・・・・」
        「は?!何それ喧嘩売ってるの?!」
        かちんと来た薫は尖った声を出す。しかし恵の返事は予想外のものだった。


        「いいえ、あなたのそういうところ、嫌いじゃないわと思ったの」


        恋敵からの思いがけない「告白」に、薫は返す言葉を失う。
        彼女らのやりとりを横で見ていた左之助が「お前ら昨夜から仲がいいじゃねーか。相思相愛ってやつか?」と茶化してきて、薫はますます混乱する。
        「え?!ちょ、ちょっと待って、ほんとに昨夜何があったのー?!」








        まだ、二階で布団の中にいた剣心の耳にも、階下の会話は届いていた。


        きれいさっぱり記憶が飛んでいるらしい薫。
        それならば、忘れてしまうのだったら、あの時口をふさいだりせずに彼女からの告白を頂戴するべきだったろうか。
        彼女が言おうとしていた―――おそらくは、「大好き!」という一言を。






        そんな考えが頭をよぎったが、すぐにそれは自己嫌悪にとってかわり、剣心はひとり枕の上に突っ伏した。














        了。







                                                                         2019.05.20







        モドル。