おやすみのうた











        「・・・・・・眠れない?」




        今晩何度目かの寝返りを打ったところで、囁くような声でそう聞かれた。
        首を動かすと、身体を僅かに起こした剣心と目が合う。先程までは、彼は寝息を立てていた。と、いうことは―――

        「ごめんね、起こしちゃった?」
        「いや、構わないでござるよ。それより薫殿、眠れないのでござるか?」
        剣心は指を伸ばして、薫の頬にかかる髪をかき上げる。生え際をくすぐるように撫でられるのが気持ちよくて、薫は子猫が喉を鳴らすようにため息を漏ら
        す。



        「大丈夫でござるか?どこか痛いとか、それとも気分が悪いとか・・・・・・」
        普段はすこぶる寝つきのよい薫が、こんな時間まで輾転反側しているのは珍しい。もしやどこか身体に不調でもあるのでは―――と、剣心お得意の心配
        性が首をもたげた。しかし薫は、「そんなんじゃないから大丈夫よ」と憂色を露わにする良人を安心させるように、笑ってみせる。

        「寝る前に、濃い目に淹れたお茶を飲んだのがいけなかったと思うの。それでなんだか目が冴えちゃって・・・・・・気分が悪いとかじゃないから、剣心は先に
        寝ててちょうだい?」
        剣心は暗がりの中目を凝らして、薫の顔色を確認する。彼女の言葉のとおり、具合が悪いわけではなさそうな事にほっとする。しかし、「先に寝ていて」と
        いう台詞には首を横に振った。
        「薫殿が起きているのに、拙者だけ寝るのは嫌でござるよ」
        その声音からは「先に寝るのが申し訳ない」という気遣いより、「先に寝るのが嫌」という駄々が感じられた。そんな事を嫌がるなんてまるで子供みたい
        で、薫は「甘えん坊!」と破顔する。


        「じゃあ・・・・・・剣心、わたしが眠くなるようにして?」


        駄々には駄々で返してやろう。そう思って、剣心を見上げて甘えた声でお願いした。
        「眠くなるように・・・・・・で、ござるか?」
        剣心はうーんと唸って、そして素直に「例えば、どのようにして?」と尋ねてきた。薫は「そうねぇ、例えば・・・・・・」と呟いて、大きな瞳をくるりと動かして考
        える。


        「じゃあ、ぽんぽんってして」
        「ぽんぽん・・・・・・?」
        「ほら、お父さんやお母さんに、小さいときやってもらわなかった?寝かしつけられるときに、ぽんぽん、って」

        剣心は合点して、ああ、と頷く。
        仰向けになって目を閉じた薫の胸のあたりに手を伸ばして、布団の上から優しく叩き始める。
        ぽん、ぽん、と。眠りを誘うような、ゆっくりとした間隔で。


        ―――ああ、懐かしいな、と。
        薫は目を瞑ったままそっと口許をほころばせる。
        うんと小さい頃、母さんにこんなふうにしてもらったっけ。

        布団越しに感じるこの手は、母親のそれより大きくて逞しいけれど、やっぱりとても優しくて。
        こうしてもらっていたら、今にきっと、眠りに落ちて―――


        「・・・・・・っ!やだっ、剣心!それ違うそうじゃなくて!」
        ぽんぽんとリズムを刻んでいた剣心の手は、いつしか布団越しにごそごそと、胸の膨らみを探るように動いていた。
        薫は慌てて目を開けて、悪戯を始めた彼の手を制する。
        「もうっ!どうしてすぐにそうなっちゃうのー?!」
        「あはは、すまない、つい・・・・・・でも、薫殿があんまり柔らかいからいけないんでござるよ」
        「そんなの、人のせいにしないで・・・・・・あっ、ま、待って・・・・・・!」
        あっというまにのしかかってきた剣心に、唇を塞がれる。彼の重みを感じながら、薫は諦めたように目を閉じる。眠るためではなく、剣心をちゃんと感じるた
        めに。

        「・・・・・・いっそ、このまま少し動いてみてはどうでござるか?疲れたら、眠くなるでござろう」
        長い口づけの後、剣心は「名案だ」とばかりの笑顔で提案した。何をしてどんなふうに動くのかは尋ねるまでもなかったが、薫は濡れた唇を動かして、掠
        れた声で反証を唱える。
        「そんなことしたら、眠れるのはいつになるの・・・・・・?」
        「おろ、そんなにはかからないでござろう」
        「絶対?本当に?」
        「・・・・・・すまない、悪ふざけが過ぎた」

        実際のところ、一度手を出してしまったらなかなか彼女を離せなくなるのは火を見るより明らかだった。それは自分でもわかっているので、剣心は大人しく
        薫の上から身体を退かした。
        「じゃあ・・・・・・他に、どうしたら眠くなるでござるか?」
        「そうねぇ・・・・・・」
        薫は乱れた寝間着の襟元を直し、ちょっと考えるように唇に指を置いた。


        「・・・・・・子守唄」
        「こもりうた?」

        確かに、それは幼い子供を寝かしつけるときの定番だ。
        しかしながら―――


        「いや・・・・・・拙者はそんなの歌えないでござるよ」
        「でも、小さい頃歌ってもらったでしょ?他にも耳にする機会はあるんだし、少しくらいなら歌えるんじゃない?」
        「そりゃ、少しくらいは・・・・・・」
        うーん、と剣心は首をひねる。薫はころんと身体を転がすと、そんな彼の懐にぽすんと収まった。
        「前に、わたしも剣心に歌ってあげたじゃない。だから、今日は剣心の番よ?」

        それは、よく覚えている。
        以前、薫が戯れに弥彦を寝かしつけていたとき。また、志々雄との闘いが終結した後の京都で。「子守唄を歌ってほしい」という突然の要求に、薫は照れ
        ながらも応えてくれた。
        なので、今度は剣心の番と言われたら拒むわけにもいかなくて―――


        「ね、ちょっとだけでいいの。剣心の歌、聴いてみたいわ」
        それに、こんなふうに胸元にすがりつかれての「お願い事」は反則だ。最高に可愛いことこの上なくて、剣心は「無理だ」と返したいのをぐっと堪えて飲み
        込み、そっと薫の背に腕を回す。
        「ちゃんと歌えるかどうか、怪しいでござるよ?」
        薫は剣心の胸に頬を擦りつけるようにして、「いいわ、それで充分」と囁く。
        剣心は、覚悟を決めるかのように息を吸い込む。薫はその気配を感じながら、目を閉じた。



        「ねんねんお守りは、どこいった・・・・・・」



        ああ、こんなふうに歌うのか、と。薫は口許を緩めた。
        いつも、一番近くで聞いている、大好きな彼の声。だけど、音階に乗るとまたそれは違った響きをもって聞こえて。

        「あの山越えて、里行った、里のみやげに、なにもろた・・・・・・」
        歌詞と節とを思い出しながら、探りさぐりといった感じに子守唄は続く。
        たどたどしい歌い方だったが、低く響く声は耳に心地よくて。そして、剣心が自分のために歌ってくれているということが嬉しくて、薫は彼の腕のなか頬を
        ほころばせた。


        「でんでん太鼓に・・・・・・たいこに・・・・・・ええと・・・・・・すまない、なんでござったろうか?」
        「え?」
        「土産に貰ったものでござるよ。太鼓と、そのあともうひとつ何かあったような・・・・・・」
        「笛じゃない?」
        「ああ、そうでござった・・・・・・薫殿、この続きは歌えるでござるか?どうもこの後が怪しくて」
        薫は目を開けて、剣心の顔を見上げた。大真面目に訊いてくる彼に、薫は「そうねぇ・・・・・・」と首を傾げる。
        「続きっていうか、そもそもその歌、わたしが知ってる歌と違うみたい」
        「え、でも薫殿歌詞を」
        「うん、歌詞も節回しもよく似てるんだけど、ちょっと違ってるの」

        おそらくは、もともとは同じ子守唄なのだろうが、様々な地方で歌い継がれてゆくうちに形が変わっていったのだろう。言われてみると、以前薫に歌っても
        らった子守唄は、確かに自分の知っているそれと同じようでいて、少し違っていたような―――


        「ちょっと、歌ってみてはくれぬか?」
        「・・・・・・剣心、寝かしつけてくれるんじゃなかったの?」

        これじゃ立場が反対だわ、と薫は唇を尖らせたが、剣心は「いや、どう違うのか気になるし、お手本にしたいでござるよ」と食い下がる。やれやれとため息
        をついた薫が「ちょっとだけね?」と断りをいれると、剣心は嬉しそうに頷いて、彼女の身体を包み込むように抱いた。



        「ねんねんころりよ、おころりよ・・・・・・坊やはよい子だ、ねんねしな・・・・・・」



        ああそうだ、この声だ、と。剣心は薫の歌声に目を閉じる。
        いつも明るく朗らかな、薫の声。彼女の人柄そのままの、はきはきと快活な声が剣心は大好きだった。

        けれども、子守唄を囁くように歌うときの声はまた違って。
        いつもよりも優しく、繊細に紡がれる声は、夜の空気の中に溶けて。耳に柔らかく届いて、心ごとあたたかく包んでくれるようで―――



        「ねんねの子守は、どこいった・・・・・・あの山越えて、里行った・・・・・・」



        はじめて薫の歌う子守唄を聴いたとき、ああこのままずっと彼女のそばで暮らせたらいいな、と。柔らかな声音に意識をたゆたわせながら、そう思った。
        次に歌ってもらった京都では、改めて、この声が好きだなぁ、と。そしてこのひとが好きだなぁと思いながら、穏やかな眠りを堪能した。

        そして今は―――心地よいなと思いつつ、早くこの歌を、日常的に耳にできるようになればいいな、と願っている。
        今に、子供が生まれたら、きっと君は毎日のようにこうやって子守唄をうたうのだろう。
        きっとその歌声は、今聴いているそれより、更に優しく紡がれて―――



        「里の土産に、何もろた・・・・・・でんでん太鼓に、笙の笛・・・・・・」



        子守唄に聴き入るうちに、いつしか剣心の目蓋は完全に閉じて、意識は眠りの淵に沈んでいた。
        薫も、そのことに気づいていた。だって、呼吸の感じが違ってきて、背中を抱く腕からも力が抜けてゆくのを感じる。

        規則的に繰り返される寝息に、薫は剣心がすっかり寝入ってしまったことを知る。
        まぁ―――「歌って」とせがまれた時点で、こうなることはなんとなく予想がついていたから、いいのだけれど。



        「自分だけ寝るのは、嫌だって言ったくせに・・・・・・」



        小さく呟いてくすりと笑うと、薫は剣心の胸に耳を寄せる。
        こうすると、彼の鼓動が、伝わってくる。


        ―――ああ、落ち着くなぁ、と思う。


        ゆっくりと続く、剣心の呼吸。預けられた腕の重み、包み込まれる体温。
        それらを感じているうちに、自然と薫の目蓋は重くなっていった。



        耳に響く、剣心の鼓動。
        わたしにとっては、この音が―――いちばんの子守唄。



        歌ってもらうのは途中になってしまったけれど、それは、いずれ子供が生まれたときの楽しみにとっておこう。
        彼はまた嫌がるかもしれないけれど―――剣心が、どんな顔でどんな声で赤ちゃんに子守唄を歌うのか、見てみたいし聴いてみたい。
        きっと、どこまでも優しい表情と声とで、歌ってくれるに違いないから。







        薫は近いうちに訪れるだろう未来に想いを馳せながら、ゆるやかに眠りに落ちていった。














        了。







                                                                                          2015.12.01






        モドル。