「わぁ・・・・・・きれい!」
一葉の写真を手に、薫は歓声をあげる。
そこに写っているのは、ウエディングドレスを着て微笑む花嫁と、彼女を守るかのように立つ新郎の姿である。新婦は日本人だが、新郎はモノクロの写真
からでも髪と瞳の色が明るいのが見て取れる。
「今更なんですが、薫さんのドレス姿も撮っておけばよかったですね・・・・・・あの時は、そこまで頭が回らなくて」
「そんな!わたしはただの身代わりだからいいんです!こんな素敵なドレスを着せてもらえただけで、充分満足だわ」
今日のごはんも美味しくて楽しいし、と。薫は隣にいる剣心と、笑って顔を見合わせた。
この日、剣心と薫は外国人居留地に住む新婚夫婦、ビクターと幸から昼食に招かれた。
すこし前に彼らはこの家で結婚式を挙げたのだったが、その際「離れて暮らす妹にブーケを渡したい」という幸の願いを叶えるため、薫はつかの間ドレス
を身にまとい、式を抜け出した花嫁の身代わりをつとめた。更には、パーティーの最中に花嫁に襲いかかった暴漢を剣心が叩き伏せ、騒ぎを落着させた
という一幕もあり―――その事どもへの、改めての御礼ということでの招待であった。
そして、なごやかに食事を楽しんだ後で幸が披露してくれたのが、結婚式での写真である。剣心も薫も写真というものを目にしたことはあるが、知人が写
っているものを見る機会はなかなか無い。そういう意味では、これは新鮮な体験といえよう。
「なんだか、不思議な感じ・・・・・・あの日見た様子を、こうしてまた紙の上で見られるなんて」
目の前にいる幸と、手元にある花嫁姿の彼女の写真を交互に見やりながら、薫はうっとりとため息をつく。
「気軽に撮れるものではないんですが、記念の日の様子が残せるのは良いなと思って・・・・・・」
「撮って正解でした。ミユキはいつもきれいだけれど、あの日はより一層きれいだったから」
ビクターの台詞に、幸がぽっと頬を染める。「なるほど、こういう発言を人前でさらりとできるのもお国柄というものか」と、剣心は心の中で呟いた。
「僕が日本という国をはじめて知ったのも、写真がきっかけだったんですよ」
「え、そうなんですか?」
「はい。子供の頃、父が日本に行ったお土産に、アルバムを持ち帰ってくれて」
「アルバム?」
「写真を何枚も紙に貼り付けて、本のような形にしたものです。花の模様が描かれた表紙でとじられた、とても美しいアルバムでした」
幕末から明治のはじめにかけて、日本を訪れた外国人に向けての「土産用のアルバム」という物が作られ、販売されていた。
そこには、日本の自然や神社仏閣、あるいは賑わう街の様子などが被写体となった写真がおさめられ、美しい装丁で飾られていた。海を渡ったそれら
は異国の人々にひもとかれ、少年だったビクターもそのうちの一冊を手に取り、遠い東の果てにある島国に憧れを持つようになった。
「その頃は、自分が日本の女性と結ばれるとは、夢にも思っていませんでしたが」
そう言って笑う彼に寄り添う幸の表情は、とても穏やかで幸せそうで、生まれた国や人種の違いを越えて結ばれたふたりの絆の強さが感じられた。
彼らがまとうやさしい空気を感じて、剣心と薫はなんとはなしに目を合わせ、微笑みを交わしあった。
「いいものねぇ、写真を残すって」
帰り道の薫の足取りは、踊るように軽やかだった。
先程見せてもらった写真で、先日の華やかな結婚式の記憶がよみがえったのだろう。夢見るような口調の妻に対し、しかし剣心は苦笑で返す。
「でも薫殿、あの祝言では大変な目に遭ったでござろう?」
「確かにそうだけど・・・・・・でも、剣心が助けてくれて、わたしは無事だったもん」
頼もしかったわ、と。そう言って笑う薫に、剣心は照れくさげに目を泳がせた。
「ほら、そういう事も含めて、写真があればそのときあった事を、すぐに思い出せるでしょう?そういう意味でも、いいなぁって」
例えば、こうして話題にしている幸とビクターの結婚式についても、今はまだ思い出すのは容易であるが、何年も経てば記憶の綻びも生じるであろう。し
かし、そんな際に写真を見れば「あの時はあんな事もあったなぁ」と思い返す一助になるに違いない。それも写真の持つ役割のひとつであると、剣心も
わかってはいるのだが―――
「いつかわたしたちも、撮ってみたいわね」
この流れで薫がそう言い出すであろうことを、剣心は予想していた。予想していたので、笑顔で「そうでござるなぁ」と返すことができた。
ところで、剣心は流浪人をしているうちに、笑ってはぐらかしたり罪のない嘘に近い言い訳でその場をとりつくろう癖が身についていた。しかし、薫と一緒に
なってからは―――と、いうより、こと薫に対しては「隠し事はしたくない」という信条のもと夫婦生活を送っていた。そのため、笑顔で返したものの、いか
んせん、その台詞はぎこちない響きになってしまう。
「・・・・・・なんか、気持ちがこもってなくない?」
案の定、薫にあっさり気取られる。むぅ、と。むくれた顔で首を傾げる様子は可愛らしかったが、可愛らしい故に剣心は慌てる。
「いや、ちゃんとそう思ってるでござるよ?しかし、撮ってみたくとも、写真とはそう気軽に撮れるものではないでござろう」
「それはそうだけど・・・・・・いいじゃない、撮りたいって思ってみるくらい」
そう言った薫は、ひらめいた、というように、ぴっと人差し指を立てる。
「それに、ほら!そのうち船や汽車みたいに写真の技術もどんどん進んで、もっと気軽に撮れるようになるかもしれないじゃない?」
「いやっ、だとしても・・・・・・!」
口から飛び出しそうになった叫びを、剣心は途中で飲みこんだ。
けれども、その後に続くのが否定の言葉なのは明らかで、それを察した薫の眉が悲しげに曇る。
その表情に、剣心はしまったと狼狽し―――致し方ない、正直に言おうと覚悟を決めた。
「だって・・・・・・薫殿、怖くはないのでござるか?」
声を落として、真剣な面持ちで訊かれた薫は、意味がわからずきょとんとする。
「怖いって、何が?」
問い返された剣心は、薫の大きな目を凝っと見つめて、口を開く。
「写真を撮ると・・・・・・魂を抜かれるというでござろう?」
その言葉に、薫は一瞬ぽかんとして、一拍おいて笑い声を弾けさせた。
「え・・・・・・ええっ?!魂って、剣心そんなこと信じてるの?!」
予想していた反応だったので、剣心は憮然としつつも黙って妻の笑いがおさまるのを待った。日が傾いてきた往来で足を止め、薫はしばらくころころと笑っ
ていたが―――流石に、いつまでもこうしているのは悪いだろうと思い、帯の上からお腹をさすりながら「ご・・・・・・ごめんね」と謝罪する。
「はー、お腹痛くなっちゃった・・・・・・剣心、真面目な顔で言うんだもん」
「拙者は大真面目でござるが」
その返答にまた笑われた剣心は、「薫殿だって、小さい頃はそう信じていたのではござらんか?」と反撃する。
「そうねぇ、うんと子供の頃は信じていたかも。でも、今じゃ前より写真を見る機会も増えたし・・・・・・それに、さっきのはどうなの?魂を抜かれちゃうんじゃ、
幸さんたちも今頃無事じゃいられない筈でしょう」
「いや、あのふたりは無事で済んだとしても、そうでない場合もあるかもしれないでござろう」
「うーん、だとしても、もしも剣心と一緒に撮って魂を抜かれたとしても、ふたりで一緒にならわたしは構わないわよ?」
「駄目でござるよ!拙者はともかく、薫殿をそんな目に遭わせるわけには・・・・・・!」
「あはは、冗談よー。まぁ実際、写真って高価だろうし、気軽に撮れるようなものでもないわよね」
薫はそう言って笑い、すっと剣心に身を寄せて、自分の肩を剣心のそれに軽くぶつけるようにする。
「でも・・・・・・やっぱり素敵よね。思い出を、そのままの姿で残せるなんて」
写真の中で笑うビクターと幸はとても幸せそうで、ふたりの表情は喜びに輝いていた。
あんなふうに晴れの日の幸福な瞬間を切り取って残せたことを、薫は単純に羨ましく思った。「わたしたちの祝言のときの姿も写真で残せたなら、すば
らしい宝物になっただろうな」と。
それに、やがてふたりの間に子供ができたとしたら。写真があれば、その子が生まれる前の両親の晴れの姿を見せてあげることもできるのだ。その時
その場所にいなかった者に感動を伝えることができるのも、写真の本領といえよう。
「それに、特別な日じゃなくても、覚えておきたいことってあるでしょ?」
それは、日々の暮らしの中で。
たとえば、ふたりで作った夕ご飯がとても美味しかった時。一緒に見た景色がとても綺麗だった時。笑い合った互いの表情が、見とれてしまうくらいとても
優しかった時―――
そんなふうに訪れる、何気ない、でも忘れたくない瞬間。しかし、人間の記憶力には限界があって、何もかもすべての事を覚えていることは不可能だ。
きっとどれもが、いつか思い出したくなる大切な瞬間だったとしても。
「うん、そういう事こそ、写真で残せるといいでござるな」
美味しくできた料理や、美しい景色、暮らしの中の様々な表情。そんな場面をいつでもどこでも簡単に写真に残せるようになるのは、おそらくずっと未来の
話なのだろうけれど。
「でも、思い出すきっかけになるものは、写真だけではないでござるよ―――ほら」
「あ・・・・・・」
剣心が示す方向に薫は目をやり、ふたりは揃って足を止める。
いつのまにか、西の空は鮮やかな夕焼けに彩られていた。
傾いた太陽の輪郭が溶けて、地平近くの空にはあたたかな金色の光が溢れている。
たなびく雲は茜に橙に色づいて、今日という日をより美しく締めくくるために空を飾る。
天空を大きな画布にして、のびやかに絵筆を走らせたような―――それはそれは見事な、夕暮れの色彩。
「・・・・・・ほんとだ、思い出すわね」
「うん、そうでござるな」
何を、と確認せずともわかる。互いの脳裏によみがえったのは、昨年の夏の終わりの、あの日の記憶。
あの告白の日も、こんなふうに夕映えがふたりを包み込んでいた。
闘いの前日、薫は必死になって剣心に伝えられるだけの想いを伝えた。それに対しての剣心の答えは―――たいそう遠回りなものだった。
剣心にしてみると「いくら当時の精一杯だったとはいえ我ながらなんとふがいない」と、今となっては反省するばかりだが、そんなもどかしさも含めて、あ
の日のやりとりは既に懐かしい思い出だ。
写真があれば、様々な思い出を瞬時に振り返ることができる。けれども、この夕焼けのように、写真以外にも思い出を呼び起こさせるものはある。
きっとこの先何年経っても、夕焼けを見てはふたりであの時のことを思い出して、こんなあたたかな気持ちになることだろう。
剣心は傍らの薫に視線を移す。夕焼けの色が映る彼女の瞳は、いつもより更にきらめいて見えた。
今この瞬間の彼女も、とても綺麗だけど―――
「・・・・・・薫殿」
「はい?」
「ドレス姿、とても綺麗だったでござるよ」
不意打ちの賛辞に薫はきょとんとして、次いでぼわっと頬に血をのぼらせる。
「は?!な、なにっ?!どうしたの突然?!」
「いや、さっきビクター殿が幸殿に言っていたでござろう?拙者も言いたかったのだが、流石に人前では照れくさくて・・・・・・ようやく言えたでござるよ」
我慢していた台詞を口にできた剣心は、満足げに微笑んで薫の肩を抱いた。
一年前よりずっと自然な仕草で、この手は此処にあるのが当然というふうに。
「・・・・・・今日、またひとつ夕焼けの思い出が増えたわ」
「え?」
「剣心に、綺麗だって言われた思い出」
「おろ?そんな事が?」
「そんな事じゃないでしょー!凄いことよ!すっごく嬉しいこと!」
力いっぱい訴える様子が可愛らしくて、剣心は首を傾けて薫の髪に自分の頬をすり寄せた。
「じゃあ・・・・・・いい思い出が増えたでござるな」
きっとこの先何年経っても、夕焼けを見てはふたりで、夏の終わりのあの日のことを思い出す。
そしてきっと年を重ねるごとに、こんな空にまつわる新たな思い出が増えてゆくことだろう。
ふたりの歩みは―――まだ始まったばかりなのだから。
寄り添って歩くふたりの足許に、ひとつになった影が長く伸びる。
茜色の空の下、今日の日の愛しい記憶を胸に抱きながら、剣心と薫は家路についた。
了。
2020.01.06
モドル。