自分の布団で眠るのは三日ぶりだった。
いや、昨夜帰宅したのは深夜をとうにまわっていたから、三日半ぶりと言うべきか。
とにかく剣心は久しぶりに、一番居心地のよい慣れた布団で惰眠を貪っていた。
その眠りを破ったのは、小さな闖入者。
廊下を駆ける軽い足音が近づいてきたかと思ったら、襖が開いて「どすん」と腹のあたりに衝撃をくらった。
「ぐぇ!」
「おーきーろー!」
大音声に、一気に目が覚める。寝込みを急襲してきたのは、幼い息子だった。
腹の上に馬乗りになって、きゃらきゃら笑いながらぼすんぼすんと遠慮なく飛び跳ねられると、いくら子供とはいえ、結構痛い。
「起っきろー!ねぼすけー!」
「ぐぁ、苦しっ、剣路!降参降参っ!」
「あー、こらこらダメよ剣路!お父さん昨夜遅かったんだから!」
開けっ放しの襖の間から、剣路を追いかけてきた薫が顔を出す。
「ああ、大丈夫でござるよ薫殿。もう起きるところだったから」
父親を「降参」させた剣路は、満足したのか母親の膝に飛びついた。産み月が近づいて大きく膨らんだお腹を庇いながら、薫は良人の枕元に座る。
「疲れてるでしょ?まだ寝ててもいいのに」
「いや、もう充分休んだでござるよ。薫殿こそ大丈夫でござるか?」
「もう、わたしはなんともないってば・・・・・・剣心、昨日からそればっかりね」
薫は自分のお腹を撫でながら、心配性な良人につい笑いをもらす。
「いや、ちょっと見ないうちに大きくなったような気がしたから」
「三日やそこらで、そんなに変わらないわよ・・・・・・あ、そういえば昨日ばったり署長さんに会ってね、謝られちゃった」
「署長殿に?」
「お腹見るなり、『奥さんが一大事のときに厄介な仕事を手伝って頂いて、申し訳ありません!』って」
声色を真似ながら「大げさよねぇ」と笑う薫を、しかし剣心はたしなめた。
「ふたりめとはいえ、お産を甘く見てはいけないでござるよ。これが来月だったら、薫殿を置いて出かけたりはしなかったでござる」
「はぁい、承知してます」
薫が肩をすくめると、剣路が再び父親の布団にどーんと飛び乗った。
「あー!だから剣路!もう少し寝かせてあげなさいってば!」
「いや、ほんとにもう起きるから。久しぶりに道場にも行きたいし・・・・・・よいしょっと」
剣心は剣路の腰を捕まえて、腕を伸ばして持ち上げた。寝転がったまま「たかいたかい」をされて、剣路がきゃーとはしゃいだ声をあげる。
「あら、道場ならそれこそ弥彦がいるんだから大丈夫よ」
剣心と薫が出逢った頃は門下生がひとりもいなかった神谷道場だが、ふたりが祝言を挙げた頃からちらほらと入門者が現れ始めた。その殆どは年端もい
かない子供だったが薫はたいそう喜び、張り切って稽古をつけたものだった。
それから一年が経ち、薫が身ごもってからは剣心が代稽古をつけた。無論、薫から「教え方」をみっちり教え込まれた上での代理だった。流派が違うので
指導は基礎を教える程度にとどまったが、相手が初心者の子供たちだったこともあり、剣心はきちんと「代役」を勤めあげた。
そして現在、薫はふたりめを授かって、出産も間近である。
この度は、すっかり背も伸びて幼顔の抜けた弥彦と剣心が門下生たちに指導をしている。今や弥彦は師範代であった。
「うん、それでもちょっと顔を出しておきたいでござるよ。昨夜はぐっすり寝たことだし」
薫はしばしうーんと考えこみ、「確かに、剣心がいるとみんな盛り上がるのよねぇ」と、道場主の顔で呟く。
「んー、じゃあお願いしちゃう!それなら、朝ごはん一緒に食べましょう」
「うん、ありがとう」
「待っててね、今支度してるから・・・・・・ほら剣路、お父さん起きるって」
剣心に高く持ち上げられた剣路は、「起きる」という言葉に反応し、すぅっと大きく息を吸い込んだ。
「おーはよー!」
元気いっぱいの挨拶を薫が「よくできました」と褒めると、剣路は嬉しそうに足をばたつかせた。
その足ですこーんと顎を蹴り上げられ、うごっ、と変な声をあげて剣心がのけぞる。
「あっ!またこの子は、もう!」
ぱっと腕から飛び降りた剣路が、今度は怒られそうな雰囲気を察して素早く逃げ出す。
「こらー!こういう時はごめんなさいでしょー!」
妊婦とは思えぬ敏捷さで、薫が剣路を追って寝室を飛び出した。
剣心は顎をさすりながらその背中を見送り、そして布団から身を起こす。
今でさえこんなに賑やかなのだから、もうひとり家族が増えたらどうなってしまうのやら。
剣心は近い未来の想像にひとり頬をほころばせて、布団から抜け出した。
そして、新しい朝が、また始まる。
了。
2015.07.21
モドル。