深く、眠っていたらしい。
ぐっすりと、泥のように。
ひとつの夢も見ずに、ずいぶんと長い時間。
だから目が覚めたとき、どうして布団の周りに薫や弥彦や操がいて、自分の顔をじっと覗きこんでいるのかがわからなかった。
そもそも、自分はいつ布団に入ったのか、覚えていない。天井がすっかり見慣れた神谷道場のものと違っているのは、何故なのだろうか。
今が朝なのか昼なのか夜なのかも、咄嗟に思い出せないし、判らない。
枕元にいたのは薫だった。
薄く開けた目でぼんやりと彼女を見ると、身を乗り出すようにして顔をのぞきこんでいた薫の瞳が、潤んでいることに気づいた。
「剣心、わたしが、わかる・・・・・・?」
か細い声だった。何故、泣きそうな声になっているのかが不思議だったが、剣心は横たわったまま頷いた。すると、あっという間に薫の目に大粒の涙が溢
れて、布団の上にぽたぽた零れおちる。
「か、お・・・・・・」
薫殿、と続けたかったのだが、渇ききった喉の所為か上手く声が出せなかった。なので、かわりに彼女のほうに手を伸ばそうとしたのだが、ずきんと鈍い
痛みが腕に走って、剣心は顔をしかめた。
「ばっ・・・・・・いきなり動くなよ!大怪我してんだから!」
「あたしっ、恵さん呼んでくるねっ!」
弥彦の声を受けて、操がぴょんと跳ねるような動作で立ち上がり、襖を開け放って部屋を飛び出す。そんなやりとりを聞きながら、剣心は薫の泣き顔を眺
めていた。
どうして、泣いているんだろう。
さっきまで彼女は笑っていたのに。一緒に帰ろうと言って、俺にむかって、笑って―――
ああ、違う。あれはあのとき思い出した笑顔だ。
志々雄と闘って、もう死ぬのだなと思ったとき、俺を引き戻してくれた、彼女の。
「剣心、覚えてるか?ここに戻ってきてそのままぶっ倒れて、それからずーっと眠りこけてたんだよ。まぁ全身痛めつけられてたんだから、無理もないよな」
説明する弥彦の声には安堵の色が滲んでいた。いったい自分は何日こんな状態だったんだろう。皆さぞ心配したのだろうなと、剣心は申し訳ない気持ち
でいっぱいになる。何より、薫をまた泣かせてしまったことが―――
「ほら薫、お前も泣いてばっかいないで何か言えって!」
「だ・・・・・・だって、しょうがないじゃない!う、嬉しくて止まらないんだもの・・・・・・っ!」
ああ、そうか。嬉しいんだ。
嬉しくて、泣いているんだ。
心配させてしまった結果の涙とはいえ、悲しくて辛くて流す涙じゃなくて、よかった。
剣心は、心からそう思った。
「何度呼びかけても起きないから・・・・・・こ、このままずっと眠ったままなんじゃないかって、そう思ったくらいだったから・・・・・・よ、よかっ、た・・・・・・」
子供みたいにしゃくりあげながら言葉を紡ぐ薫は、一所懸命で、かわいかった。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、鼻も頬も真っ赤にして。そんな彼女が、とてもかわいかった。
剣心は、軋む手を布団の中から抜いて、薫の方へ差し出した。それに気づいた薫は、おそるおそる包帯に巻かれた手を取る。
まるで壊れ物を扱うような触れ方だったので、大丈夫だと示すように力強く握り返す。薫は驚いたように、濡れた瞳を大きく見開いた。
泣き顔も、かわいいのだけれど。でも、泣き止んでも欲しくて、安心させたくもあって。
剣心は、まず何か言わなくては、と唇を動かした。
「・・・・・・おはよう」
それは、目覚めた後の反射とも言える習慣から、口をついた言葉。
それを聞いた弥彦が、「もう昼だけどな」と笑う。
廊下からどやどやと複数の足音が近づいてくるや否や、襖が勢いよく開け放たれた。間髪入れず、操や左之助、恵たちがどっと部屋になだれこんでくる。
「ほらほらー!緋村起きてるー!」
「剣さん大丈夫ですか?!気分は?!」
「よー剣心!お互い生きてて何よりだなー!」
更に後ろから葵屋の面々も顔を出し、あっという間に部屋の中は大賑わいとなった。剣心は全員の顔を見回してから、もう一度薫の顔に視線を戻す。
剣心と目が合い、薫の泣き顔がふっと柔らかくほころび、そのまま晴れやかな笑顔になる。
頬に伝った涙まで、きらきらと輝いて見えるような―――それは、とびきり美しい笑顔。
弥彦には笑われたが、やはり「おはよう」で間違いではなかったと剣心は思った。
薫のその笑顔は剣心にとって、永い永い夜の先に訪れた―――夜明けを告げる陽の光そのものなのだから。
了。
次は、誰のおはよう?
2015.07.19