一方その頃、明治の剣心。










        「ねぇ、剣心」


        薫は、蓑虫のように頭から布団をかぶってだんまりを決め込む剣心に声をかける。
        「いいかげん、顔出してよー」
        しかし、返事はかえってこない。まだ宵の口だ、寝入ってしまったわけでもなかろうに。



        過去の長州から戻ってきたあと剣心は、ひたすら「恥ずかしすぎて死にそうだ」と連発し、先程見てきた「過去の自分」と薫とのやりとりを思い出しては「う
        わぁぁぁ」と唸りながら頭を抱える始末だった。実際、どんな強敵と戦った後なのかというくらい彼の表情はぐったり疲れきっており、夕飯もろくに喉を通らな
        い有様だったので、彼が風呂に入っている間、うっかり湯船で溺れてたりしてないだろうかと薫は本気で心配した。

        そして、早々に寝所に逃げ込んで布団に隠れてしまった剣心に、薫は少々呆れ顔で息をつく。
        「えいっ!」
        ぼすん、と背中のあたりをめがけて倒れこんでやる。布団ごしの剣心の体温を探すようにぴったりと頬をおしつけて、ぐいぐい身体を揺すってやった。
        「ねえ、そんなに恥ずかしがるような事はしていなかったじゃない」
        返事は、たっぷり間をあけてぼそりと返ってきた。
        「・・・・・・充分、していたでござるよ・・・・・・」
        やっと反応してくれた剣心に、薫は黙って次の言葉を待った。

        「あんな青くさい台詞を、薫殿に連発して・・・・・・何度飛び出して奴の口を塞いでやろうと思ったことか」
        「奴って・・・・・・そんな、自分のことでしょう」
        「だからでござるよ・・・・・・だいたい薫殿にこう言われたらこう返すだろうなと、悉く予想通りの返答をしやがって」
        「しやがって、ねぇ」
        言葉遣いが微妙におかしくなってきている。余程いっぱいいっぱいなんだろうなと薫は苦笑した。
        「それに・・・・・・」
        「ん?」
        いよいよ小さくなる声は、くぐもって聞きづらい。薫は身体を移動させて、布団越しに剣心の頭に自分の頭をくっつけるようにする。


        「・・・・・・あからさまに、奴が薫殿への好意を表に出しているものだから・・・・・・もう、見ていていたたまれなくて・・・・・・」


        薫は軽く目をみはり、次いで頬を赤く染める。
        「・・・・・・剣心もそう思った?」
        「自分のことだから、手に取るようにわかるでござる・・・・・・」
        語尾が弱々しく消えてゆく剣心とは逆に、薫の声は明るく弾んだ。
        「えっとね、わたし、向こうの剣心もわたしの事好きなのかなぁって、ちょっと自惚れたこと考えたりしてたんだけど、そっかぁ・・・・・・えへへ」

        薫は布団の上から剣心の肩のあたりにぎゅうっと抱きついた。
        少年の頃の剣心が向けてくる、視線や言葉の端々に込められた好意。それを薫はうっすら感じとってはいたのだが、こうして「当の本人」から確証を取れ
        ると、より嬉しくなる。


        「まったく若い・・・・・・少しは隠そうとすればよいものを」
        大人になってからは、にこにこ笑う内側に感情を隠す術を覚えたけれど。まだ荒波に揉まれる前の、「少年の自分」の言動はストレートすぎて―――しかし
        その幼さは剣心自身確かに覚えのあるものだから、余計に恥ずかしい。

        そう思っていると、薫が聞き捨てならない一言を口にした。
        「わたしは・・・・・・今の剣心と、そんなに変わっていないと思うけれど」
        ぴくり、と。布団の下で剣心の肩が震えるのを、薫は感じた。


        「・・・・・・変わっていない?」
        むくり、と剣心が身体を起こす。
        布団の上から覆い被さっていた薫は、反動でころりと畳の上に転がった。
        「あん、もう、漸く出てきた」
        「薫殿・・・・・・変わっていないって、どういう意味でござるか?」
        布団の上に座り直した薫の両肩を、剣心はがっしと掴む。
        「拙者は・・・・・・あんな青くさい子供の頃から変わっていないと言うのでござるか?」
        愕然としたふうに訊いてくる剣心に、「ほんとうによっぽど恥ずかしかったんだなぁ」と薫はむしろ感心する。確かに、もし自分が同じ立場に立たされたらそ
        う思うかもしれない、けど。

        「そういう意味じゃなくて・・・・・・剣心は大人よ。人間としてという意味で、わたしよりもずっとずっと大人だわ」
        それは本当にそう思うので、薫は素直に答えた。
        「それとはまったく別の意味で―――剣心は十年以上前から、根っこの部分にあるものはまったく変わっていないことが凄いと思ったの」
        「・・・・・・根っこ?」
        「なんていうのかな、真ん中にあるもの」
        誤解を生まないように、薫は慎重に言葉を選ぶ。
        「えーと・・・・・・剣心は、この国が大きく変化する渦中にいて、辛いことや痛いことを沢山経験してきたでしょう。わたしなんかの、何倍も」

        苦しいことも沢山あった。自分の果たすべき役割を頭で理解はしていても、人を斬ることを思い悩んだ。
        愛し愛される人に出会えたが、幸せな暮らしは長く続かなかった。
        そして、贖罪の念を胸に―――長い時間を孤独のままさすらってきた。


        「そんなに色々なことが起こったら、当然、人間って変わるものだと思うの。でもね、剣心の真ん中にある、一番強く思っている事はずっと変わっていない」


        剣心は、薫の肩をしっかり掴んだまま、彼女の紡ぐ言葉に聴き入った。澄んだ夜空の色の瞳は深く、見つめているとひきこまれそうになる。
        「弱いひとを守りたいとか、自分の力を役立てたいとか、そんな想いは子供の頃からずっとずっと変わっていない―――今だって、そうでしょう?」
        軽く首を傾げると、洗い髪がふわりと寝間着の肩をすべり、剣心の指をくすぐった。
        「それって、凄いことだと思うの。それだけあなたの信念が強いってことだもの。だからね、そういう意味で『変わっていない』って言ったの」

        ちゃんと説明できたかしら、と薫は笑った。
        しかし剣心はそれに答えず、先程とは違う意味合いで、まじまじと薫を見ていた。
        「って、ねぇ剣心、聞いてるの?」
        「ああ・・・・・・納得したでござる」
        「え?」


        肩に置かれていた手が、首筋を撫であげるようにして、頬へと移動した。乾いた大きな手が、薫の頬を包み込む。
        ゆっくりと剣心の顔が近づいてきたので、薫は反射的に目を閉じた。

        ほんの僅かに、唇が重なる。
        尊いものに触れるような、静かな口づけ。


        「・・・・・・参ったなぁ」


        目を開けると、剣心が困ったような顔で自分を見ていた。
        一瞬、いま此処にいる彼と、少年の日の剣心の瞳が重なったように見えて―――薫はああやっぱり変わっていないわ、と思う。

        口に出して言ったら拗ねるだろうから言わないけれど、あなたは時折そうやってわたしに甘えてくるじゃない。
        そんな時の顔は、少年の頃のあなたと同じ目をしているのよ?


        「参ったって、何が?」
        頬を包んだ剣心の手の暖かさを感じながら、薫は訊いた。
        頬がくっつきそうな距離。剣心は先程の薫のように、どう言ったらうまく伝わるだろうかと言葉を探した。が、結局のところ、変に言葉を選ぶよりも、感じたこ
        とをそのまま口にするのが一番よいのだろう。今日は散々恥ずかしい思いをしたのだから、照れくさいのなんて、今更だ。



        じっと、薫の目をのぞきこむ。
        瞳の奥にある、強く優しい光にむかって語りかけるように。






        「きっと拙者は、どの時代にどんな出逢い方をしても、必ず薫殿を好きになってしまうのだろうな」











        
はじめて人を斬った、その夜。