はじめて人を斬った、その夜。











        ばっ、と。碁盤の目のように走る道の、ひとつの角から飛び出した人影。
        闇夜に溶けてしまいそうな輪郭を、しかし薫は見間違える筈はなかったし、それは向こうも同じだった。



        「・・・・・・かお、る?」



        飛び出してきた剣心は、突然出くわした薫に驚愕の表情になり―――いや、そのこわばった顔からは、驚きだけではない何か張り詰めたものを感じて、
        薫は息を飲んでかける言葉に迷った。
        ふたりは一瞬立ち尽くしたが、先に我に返ったのは剣心だった。
        彼が走ってきた方角から、なにやら騒がしい気配がした。剣心ははっとして薫の腕をがしっと掴む。
        「―――こっちへ」
        小さな、しかしはっきりとした声で短く告げる。薫はどういう事態なのかを飲み込めぬまま、腕を引っぱられながら道なりに数間を走り、促されて一軒の店
        に入った。

        剣心が戸を開けたそこは、どうやら小間物屋らしい。小さな店先に品物がこまごまと並んでいるが、中は無人のようで灯りもついていなければ人の気配も
        なかった。戸惑う薫を上がり框に座らせると、剣心はひとり閉めた戸の前に片膝をつき、刀の鯉口を切る。話しかけるのがためらわれるような雰囲気に、
        薫は黙って彼の行動を見ていたが―――その手をかけた刀の下げ緒がべったりと黒い血の色に染まっているのに気づき、心臓がどきりと跳ねた。

        その音が聞こえたわけでもないだろうに、剣心はふと薫のほうを向いて、泣き笑いのように顔を歪ませた。その表情が、その血は彼が流したものではない
        ということを、如実に語っていた。


        戸の外で複数の足音が響いて、薫は身を固くする。剣心の身体に緊張が走るのが、薫にもわかった。
        息苦しい程の沈黙が、狭い空間を満たす。
        しかし、表の足音は程なくして遠ざかり―――気配も消えた。


        ふぅ、と薫は大きく肩を落として息をつく。その真横を剣心が通り過ぎ、そのままずんずんと店の奥、座敷の方まで上がりこんだ。
        「ちょ、ちょっと剣心! そんな勝手に・・・・・・」
        薫はなんとなく声を潜めながら彼を引き止めようとしたが、剣心は構わずに畳の上にどっかと腰をおろす。
        「大丈夫、ここは藩のものだから」
        「え?」
        「店は表向きの隠れ蓑。会合に使ったり、こんなふうに何かあったときの退避所にしているんだ」
        そう言いながら剣心は手を動かしていた。はめている手甲を外そうとしていたのだが、上手くいかない。いう事をきかずぶるぶると震える指に剣心は舌打
        ちをした。すると、目の前にすっと白い手が差し出された。

        「薫・・・・・・」
        膝をついて、手甲を外してやろうとする薫に、剣心は素直に手を借りようとしたが―――すぐに、はっとしてその手を振り払った。
        「だめだ―――触ったら、汚れる」
        薫はその言葉に、自分の手元に目を落とした。指先に、赤い色が見えた。
        しかし指を濡らした血には構わずに、薫はもう一度剣心の手をとる。
        「薫、汚いから―――触るな」
        「平気よ、これくらい」
        実際、強がりなどではなくそう思ったのだが、その言葉に却って剣心は苦しそうな顔になった。
        「・・・・・・だめだよ」
        悲痛な声に、薫は顔を上げる。



        「・・・・・・人を、斬ったんだ」



        薫の肩がぴくりと震えた。だが、それだけだった。


        「・・・・・・はじめて?」
        短く問いながら、薫は血を吸って肌にへばりついた手甲を両方とも外してやる。剣心はその質問に、小さく頷く。
        「・・・・・・そうなの」
        薫は剣心の手を離さなかった。まだ震えているのを落ち着かせるように、重ねた自分の手でぽんぽんと優しく叩いてやる。その感触に次第に気が静まっ
        てきたのか、震えはやがて小さくなっていった。
        「情けないなぁ」
        喉の奥で発音するような、弱々しい声。
        「桂さんに、人を斬れるかと訊かれて、あんなに大きく答えておきながら・・・・・・情けないよ」


        実際、斬るのは簡単だった。
        今までしてきた修行とまったく同じ要領で刀を振るった。ただそれだけ。
        相手は一撃のもと、あっさりと斃れた。

        ただ違っていたのは、白刃を前にした相手の、絶望に追いつめられた表情。
        手に伝わった肉を斬る感触。刀をつたって指を濡らした、血潮の温かさ。
        そして、それらに動揺する―――自分の姿。


        「覚悟は決めている、人斬りになるのは構わない。そう、思ってた。思っているのに・・・・・・」
        剣心の手が、再び震えはじめた。薫はその手を、ぎゅっと強く握ってやる。
        「生まれてはじめて人を斬って、動揺しないほうがどうかしているわ」
        俯いてしまった剣心は、薫の目を見られないでいた。薫は身体を傾けて、額を彼のそれに押し付けるようにして、言葉を続ける。

        「動揺したけれど、怖かったけれど・・・・・・でも、あなたの覚悟はかわっていない。そういうことでしょう?」
        諌めるわけでも、慰めるわけでもない、薫が口にしたのはただの事実。しかし剣心は心の中を見透かされたような気がして、どきりとした。


        そう、はじめて人を殺して、その業の重さに気づいた。命を奪う行為とはどんなものかをこの手で実感して、苦しくなった。怖くなった。
        でも―――覚悟は消えていない。自分はこれからこの道を、こうやって血を流しながら進んでゆくのだと―――改めて、思った。

        「あなた、こんなに優しいのに・・・・・・つらい道を、選んじゃったね」
        剣心の首に、細い腕が巻きついた。
        彼の手を離して、代わりに薫は頭をぐいっと抱き寄せる。ぎゅ、と力をこめて、剣心の顔を自分の胸におしつけた。


        「・・・・・・泣いて、いいのよ」


        すっと、息を飲む気配が伝わった。
        「どうしても、泣きたいときには泣いてもいいの」
        剣心の手がおそるおそる、薫の背中にのびる。
        「ねぇ、剣心。今泣いておかなきゃ、きっと後から、もっともっと辛くなるわ」

        剣心の肩が震えるのを、薫は感じた。
        いつも自分のことを、抱きしめてくれる剣心。薫のよく知る彼と、今ここにいる剣心は、もう殆ど背の高さも手足の長さもかわらない。けれど、こうして震えて
        いる彼は、年相応の―――いや、年よりももっと幼い子供のようで、その背中がとても小さく思えて―――
        あの満月の夜、はじめて薫が過去に遡ったとき。彼の両親が亡くなった夜のことを思い出して、薫は腕に力をこめた。


        低い嗚咽がこぼれる。
        押し殺したような、唸るような、苦しい泣き声。
        背中にまわした手が、すがりつくように薫の着物を握りしめた。

        「っ・・・・・・うぁ・・・・・・」
        剣心は今夜、自分の選んだ道が茨の道であることを、はっきりと悟った。
        でも、引き返したりはしない。ひとつ、命を奪ってしまったのだから―――もう、引き返してはいけないのだ。
        この道の先に、新しい時代が待っていることを信じて―――いや、必ず創らなくてはいけないのだ。新しい、よりよい時代を。



        様々な感情が渦を巻いて胸の奥を叩くのが、苦しい。苦しさは涙になってあふれて、薫の胸を濡らす。
        薫は黙ってしっかりと剣心を抱いて、彼の髪に頬を押しつけていた。










        ひとしきり、涙を流したのち、剣心は乱れた呼吸を整えるように、大きく息をついた。


        「薫のほうが、よっぽど覚悟しているみたいだ」
        少し落ち着いてきた剣心が、かすれた声で薫の胸に顔をうずめたまま呟く。
        「ほんとうに情けないな。こんな、泣くところまで見られちゃって」
        薫は、ゆっくりと剣心の髪を撫でながら、静かに囁いた。
        「情けなくなんかないわ。あなたが泣いたこと、誰にも言わないから、秘密にしておくから・・・・・・だから、大丈夫よ」

        ぴくり、と。剣心の肩が動いた。
        薫の胸から頭を起こす。
        近い位置から薫を見上げる瞳には涙が残っていたが、それよりも今は、その目は驚愕に見開かれていた。


        「それ・・・・・・薫、前にも―――」


        前にも、確かに聞いた台詞。
        幼い頃の記憶を手繰りよせる。
        両親の死んだ晩に、抱きしめて、胸を貸して泣かせてくれた女性。あれは、あのひとは―――



        「薫、だったのか・・・・・・?」



        剣心は、息をするのも忘れたように、薫を見つめた。
        薫は、哀しげに笑った。
        きっと、気味悪く思うだろう。だって剣心にしてみれば―――何年も前、剣心が子供のときから、自分の姿はまったく変わっていないのだから。
        しかし剣心は、その表情をどう解釈したのか、不安そうに顔を歪ませて首を横に振った。

        「・・・・・・いいよ、薫が誰だって」
        剣心は、ぎゅっと薫の肩を両手で掴んで、まっすぐに彼女を見つめた。


        「薫が、誰だろうが何だろうが構わない。だから・・・・・・そばに、いてくれ」
        絞り出すような声音に、今度は薫の胸が苦しくなる番だった。
        剣心は、ぐっと膝で立つと薫の細い身体をきつく抱きしめた。首筋に息がかかり、薫は切なげに目を細める。






        「好きだ・・・・・・」












       
 モドル。