考えてみると、こんなふうに彼女を見つめるのは初めてかもしれない。
いつも表情豊かに語りかけてくる黒い瞳は、今は閉じられた目蓋の奥に隠されている。
扇の形の睫毛が、頬に影を落とす。
小さくともされた灯りの中で見る肌は、陽の光の下で目にするのと少し違って、滑らかな手触りの人形のそれのように見える。
僅かに丸めた背中に沿って流れた、緩く編んだ長い髪。
身につけているのが薄い寝間着のみだからだろうか、もともとほっそりした身体がさらに小さく見えた。
軽く結ばれた唇は桃の花のような色で、そこからゆるやかな寝息がこぼれおちる。
じいっと眺めていたら、無性にそこに触れてみたくなって―――
思わず顔を近づけてしまったところで剣心は我に返り、慌てて首をぶんぶんと横に振った。
眠り姫にキス
その日の宵の口、「たまには大人の男だけで飲みに行こうぜ」と、左之助が剣心を誘いに来た。
「今日は女子供は抜きで!」との言に弥彦はたいそうむくれたが、玄関口に立つ左之助の後ろには津南の姿があり、薫はなんとなく心中を察することが
できた。放っておいたら不眠不休で絵草紙新聞の制作に没頭してしまう津南のことだ、左之助は強制的にでも息抜きをさせるつもりで引っ張り出したの
だろう。もしくは、単に酒代をたかるためだけかもしれないが。
「いってらっしゃい、でもあんまり飲みすぎたらダメだからね?」
弥彦を宥めつつ送り出してくれた薫に向かって、剣心は先に寝んでいるように言って出かけたのだが―――
★
日が変わる前に、剣心は左之助と津南を残して家路についた。
「んだよー、たまには飲み明かそぉぜー」と、呂律のあやしくなってきた左之助に引きとめられたが、なんとなく―――弥彦はともかく薫は、起きて帰りを
待っているのではないだろうか、という予感がしたのだ。そして、その予感は半分ほど当たっていた。
控えめに言ったただいまの声に返事はなく、足音に気をつけて居間に向かうと、そこでは夜着に身を包んだ薫が寝息をたてていた。
畳の上に横向きに身体を投げ出して、傍らには読みさしの本が伏せられている。
帰りを待っていたものの、待ちくたびれて眠ってしまったらしい。
家を出るときに釘をさされたにも関わらず、今日は少々酒量が過ぎた。
剣心は、頭にふわふわとした酔いが残っているのを感じながら、薫の横にしゃがみこむ。
いつも賑やかに笑ったり怒ったりと、絶え間なく表情を変化させる薫を見ているのが、剣心は好きだった。
けれど、目蓋を閉じた彼女の寝顔は、不思議と普段と違って見える。
無心で眠る子供のようであり、どこか憂いを含んだ大人の女性のようにも見えて―――まるで、少女から大人に変わる途中にいる、彼女の内側を透か
して覗いているようだった。
起きる気配がないのをいいことに、剣心はしばらくの間飽きもせず彼女の寝顔を眺めていた。
そしてその間幾度か唇に触れてみたい衝動が湧き上がったが、その度になんとか理性で抑えこんだ。
「って、いや・・・・・・いかんな、朝になってしまいそうだ」
と、いうかこのままだと、そのうち理性が負けて眠っている薫を襲いかねない。いいかげん寝顔の観賞は切り上げなくては。
「それにしても・・・・・・風邪をひくだろうに」
身につけているのは寝間着一枚。あらわになった足首が細く白いだけに寒々しく見える。秋にはまだ間があるとはいえ、この時期でも夜には思いがけ
ず気温が下がる日だってある。
剣心は僅かの間考えてから、やむを得ないと自分に言い聞かせつつ、薫の身体を抱き上げた。
腕に抱いた薫を起こさないよう、用心しながら彼女の部屋の襖を開ける。幸いにして、既に布団は敷いてあった。
腕からおろす前に、そっと薫の顔を覗きこむ。更に視線を下に落とすと、ゆったりと身につけた夜着の袷から胸元がのぞいて見えそうで、慌てて目をそら
した。柔らかくあたたかい身体に触れているのは気持ちよいけれど、ずっとこうしているわけにもいかない。剣心は薫をゆっくりと敷布の上におろし、肩
のあたりまで布団をかけてやった。
仰向けに寝かせると、顔の横に垂らした髪がさらりと流れ、暗がりに白い花が咲いたように輪郭がくっきりと浮かび上がる。
このまま離れるのが勿体無くて、名残を惜しむように、指を伸ばした。
滑らかな頬をてのひらで、そっと包む。
「・・・・・・おやすみ」
紅を差す必要もないような、形のよい唇。
それを親指の腹でくすぐるように撫でて、手を離す。
そして、そのまま背を向けて部屋を出ようとした、その時。
「ありがとう」
一瞬、寝言かと思った。
それにしては随分と、はっきりした声。
ふりむくと、まばたきをするくっきりとした二重の瞳。
薫と、目が合った。
「起きて・・・・・・いたんでござるか?」
「ん、さっき抱き上げられた時に」
「・・・・・・」
だとすると。
馬鹿みたいにじーっと寝顔を眺めていたときは、本当に眠っていたということか。
・・・・・・よかった。
それはよかったが、いや、しかし、今、触れたときには―――
「・・・・・・起きているなら起きていると言ってくれればよいものを・・・・・・」
「ごめーん、だって抱っこでお布団に運んでもらうなんて、お父さんにしかしてもらったことないから、嬉しくって」
薫はくすくすと楽しげに笑った。彼女にしてみれはその台詞に他意はないのだろうが、剣心としてはありがたい言葉ではない。
できれば、父親役より―――もっと別の存在になりたいのだが。
「薫殿、いくら拙者が相手とはいえ、あまりに無防備でござろう」
「あ、わたしそんなに重かった?」
「いや全然軽かったでござるよ、って、そうじゃなくて!」
剣心はどっかりと枕元に腰をおろし、軽く薫を睨んだ。珍しく、説教をする口調になる。
「年頃の娘なんだから、もう少し警戒心を持てと言ってるんでござるよ」
「警戒心?」
「軽々しく男に持ち上げられたり運ばれたり触れられたりするような隙を作るな、と言ってるんでござる」
「もちあげ・・・・・・」
具体的すぎる事例に薫はきょとんとする。
と、いうか、たった今持ち上げて運んで肌に触れていた本人が叱りつけるのも妙な話なのだが、剣心は真剣だった。
「ただでさえ薫殿のまわりには若い男が多いのだから、もっと自覚を持つべきでござるよ。わかったでござるか?」
念を押したが、しかし薫は黒い瞳をぱちくりさせて―――そして何故か、嬉しそうに笑った。
「薫殿?」
「・・・・・・うれしいなぁ」
「へ?」
「剣心、ちゃんとわたしのこと、『年頃の女の子』って見ててくれたんだ」
「・・・・・・は?」
「だってほら、剣心はわたしよりずっと大人なんだから、剣心からするとわたしなんてほんの子供にしか見えてないんだろうなー、って思ってたから・・・・・・
えへへ、そっか、なんか嬉しいなっ」
「・・・・・・」
何を、今更そんな。
当然、女性として思っている。
それどころか、とても、とても大事な。
だから―――今、自分はここにいるのだというのに。
今夜は、かなり飲んでいた。
まだ、酒精が頭の中に残っていた。
そんな酔いの勢いも手伝って―――剣心の手が布団にかけられる。
「きゃ!?」
突然、布団を剥がれて、薫が悲鳴をあげる。
構わずに、両の手首を捕まえて、ぐい、と引っ張った。
「痛っ!」
両手首を一掴みに束ねるようにして引っぱり上げ、頭の上で、敷布に押さえつける。
華奢な手首を拘束するのは、左手だけで充分だった。
「剣心っ・・・・・・!?」
空いている右手で、喉笛を捕まえた。
逃げられないよう、顔を逸らせられないよう首を押さえこみながら、剣心は薫を見下ろす。
「薫殿こそ・・・・・・」
低い声音に、薫の瞳が不安げに揺れた。
「薫殿こそ、拙者が男だということを、忘れているのではござらんか?」
掴んだ首筋が、熱く脈打っているのがてのひらから伝わってくる。
捕まえたまま、柔らかい皮膚を指でさすると、薫の唇が震えた。
もうこれは、ぶち切れられても仕方がないな、と思う。
実のところ、ふりほどかれて蹴飛ばされることくらいは覚悟の上での狼藉だった。
勝気で手が早くて、男相手に堂々と竹刀で渡り合えるような彼女のことだ、こんな目に遭わされて黙っているわけがない。
薫がどんな反応を返してくるか、覆いかぶさりながら待っていたら―――
「・・・・・・忘れて、ないわ」
思いがけず、か細い声に、剣心ははっとした。
普段の、明るい笑い声や、弥彦を叱り飛ばす威勢のよい声とはまるで違う、消え入りそうな。
「忘れてないから・・・・・・わざと、寝たふりしてたんじゃない・・・・・・」
首にかけられた手が苦しいのか、切なげに掠れて語尾が消えた。
夜目にもはっきりわかるくらい、赤く染まった頬。おずおずと剣心を見上げる、潤んだ双眸。
―――しまった。
こんな反応をされるのは、想定外だった。
彼女がどんな女性なのか、よく知っているつもりだった。
なぜなら、自分は彼女の快活さやまっすぐな気性や、素直な優しさに惹かれているのだから。
行方をくらませた自分を必死で追いかけてきてくれた一途さや、女の身で一門を背負う逞しさ。そんな、薫という人間を形成する様々な要素を知るごと
に、どんどん彼女を好きになっていった。
同じ家で暮らして、同じ時間を過ごして、いつも姿を目で追って、けれど。
今、自分が捕まえて組み敷いている、泣き出しそうに震えている少女。
―――初めて見る、彼女。
しまった。
こんな反応を返されたら―――このまま、襲ってしまいたくなるではないか。
今まで見たことのない可憐な一面を目の当たりにして、剣心は胸のあたりを鷲掴みにされた気分になった。
ごくり、と。無意識に唾を飲み込む。
真上から注がれる視線に耐えかねたように、薫が目を閉じる。
触れている首筋が、熱い。折れそうに細い手首も。
剣心は身を屈めた。
ぱさり、と。自分のものではない髪の毛が顔にかかったのを感じて、薫の目蓋が震えた。
そして、剣心はありったけの精神力を総動員して―――
「・・・・・・おやすみっ!」
ちゅ、と一瞬だけ額に口づけて、身を翻す。
布団の上で、突然拘束を解かれた薫は咄嗟には何が起きたのか理解できなかった。きつく閉じていた目を開けてがばりと身を起こしたときには既に、
剣心は部屋を飛び出した後で―――
「ちょ、待って剣心! 今の・・・・・・!」
開けっ放しにされた襖の向こうに呼びかけて、そして改めて薫は顔を赤くする。
「もう・・・・・・今の、何なのよぅ・・・・・・」
額に残る、あたたかな感触。
今のは、ひょっとして―――
薫は再びばたりと敷布に身を投げ出し、急激に速さを増してゆく鼓動を持て余して、ぐねぐねと身体をくねらせた。
★
「おはよーっす! って、うわっ酒くさっ!」
勢いよく剣心の部屋の襖を開けた弥彦は、勢いよくのけぞって顔をしかめた。
「す、すまん弥彦、窓開けて・・・・・・外の空気・・・・・・」
「なんだよ起きてこないと思ったら二日酔いかー?! 珍しいなー」
呆れ顔になりながらも言われたとおり窓をがらりと開け放ってくれた弥彦に、剣心は布団の中から礼を言う。
「いや・・・・・・昨夜はちょっと出鱈目に飲みすぎた。弥彦は来なくて正解だったでござるよ」
「その顔見てると俺もそう思うよ。もう少し寝てるか?」
「ああ、そうさせてもらうでござる・・・・・・それと弥彦、すまないが水を一杯持ってきてはくれぬか?」
「おう、了解ー」
部屋を出た弥彦の足音を聞きながら、剣心はため息をつく。飲みすぎたせいで頭は痛いし胸はむかつくしで体調は最悪だったが、それよりも、薫の部屋
で起きた出来事のほうが、剣心の気をずんと重くしていた。
理性と本能との闘いでかなり気力を消耗した昨夜、ぎりぎりで理性が勝ったものの、完全勝利とはいかなかった。
いや、あの程度で済んでよかったというべきか―――あと一歩、いや半歩間違えればあのまま薫を自分のものにしてしまったことだろう。
いい大人が、酒の力を借りて。彼女の意思も何もかも無視して、勢いで。
それはあまりにみっともないし、何より、きっと薫は傷つくだろう。
だから踏みとどまれて本当によかったと思ってはいるのだが、しかし。布団の上で彼女を組み敷いたことは紛れもない事実で―――
「なかったことには・・・・・・できないでござるよなぁ・・・・・・」
薫は、昨夜のことをどう思っただろうか。この後、どんな顔をして彼女に会えばよいのだろうか。
うつぶせになって両手でがしがしと髪の毛をかきむしり苦悩していると、廊下から近づいてくる足音が聞こえてきた。続いて、襖の開く音に、枕元に盆が
置かれた気配。剣心は弥彦かと思いがんがん痛む頭を宥めながらそろそろと身を起こそうとする。
「かたじけない・・・・・・ありがとう」
「どういたしまして」
予想していたのとは違う声の主に、剣心は勢い込んで頭をあげた。同時に頭痛の大波が押し寄せて、思わずこめかみを押さえ呻き声を漏らす。
「うわ、やだっ、ちょっと大丈夫?!」
心配げに水を差し出したのは、薫だった。
「あ、いや、いたたたた・・・・・・お、おはよう」
「ん、おはよう・・・・・・お水、飲める?」
「う、うん」
片手で頭を押さえながら布団の上に座り直し、水を一息に飲み干す。
「朝ごはん、食べられそう?」
「・・・・・・ちょっと、今日はやめておくでござるよ」
「うん、そのほうがいいみたいね。まだ寝てたほうがいいわよ」
空になった湯呑みを受け取った薫は、傍らの盆にそれを置く。
用事は済んだわけだが、しかし薫は枕元にちょこんと座って、膝の上に拳をそろえたまま、立ち上がろうとはしなかった。
弁解できることでもないが、剣心は昨夜のことについて話をしたかった。しかし、何を話せばよいのか考えがまとまらない。そして、薫もそれは同じなの
だろう。互いに話のきっかけを見つけられないまま、沈黙がおりる。
庭から、鳥の囀りが聞こえてくる。
ふたりの耳には、それがひどく遠いところから聞こえているように感じられた。
意を決したような面持ちで、先に口を開いたのは薫だった。
「・・・・・・ごめんなさいっ!」
「え?」
突然謝られた意味がわからず、剣心は目を白黒させる。
「あのね、わたしあれから反省したの。昨夜言われたとおり、わたし、今まで警戒心が足りてなかったと思う・・・・・・だから、ごめんなさいっ!」
ああ、その事かと納得する。確かにそんな説教をしたにはしたが、昨夜その警戒心のなさにつけこんだのは、他でもなく自分自身なのだ。だからむしろ
謝るのはこっちのほうで―――
「これからはわたし、もっと気をつけるから!」
「いや薫殿、拙者の方こそ・・・・・・」
謝罪の言葉を口にする前に、ぱっと薫の手が動いた。小さな両手で、剣心の右手を捕まえる。
剣心の驚きをよそに、薫は彼の手をぐい、と引っ張って、自分の頬へ導いた。
「かっ、かおるどのっ?!」
てのひらに、優しい感触。
昨夜、眠る薫にそうしたように。
まぁ実際、あの時彼女は起きていたのだけれど。
薫は、紅潮した頬に剣心の手を押し当てながら、目を閉じて、言った。
「これからは・・・・・・隙を作るのは、剣心の前だけにするから」
またしても、想定外の台詞。
驚いて中途半端に開いたまま固まった剣心の口から、しばらくしてため息がこぼれた。
ああ、まったく。
先が読めない行動に翻弄されて、次々知る新しい一面にどぎまぎして。
困ったことに、それを心地いいと感じてしまう。
何というか―――いろんな意味で俺はこの娘に「かなわない」んだろうな。
触れている頬は昨日と同じように柔らかく、昨日よりずっと、熱い。
「剣心の前でだけ」を証明するかのように自ら触れされたものの、これが薫の精一杯なのだろう。目蓋をきつく閉じて、かわいそうなくらい身体がかたくな
っているのがわかる。
ふいに溢れた愛おしさに動かされるように、剣心はそっと右手を下にずらし、薫の唇を親指でなぞった。昨夜とまったく同じように。
「薫殿」
「はい」
「その、ちょっと、酒くさいのだが・・・・・・すまない」
寝起きのぼさぼさ頭を近づけたものの、剣心は寸前で躊躇する。
その情けない口調にようやく緊張がほぐれたのか、薫の口元が笑みの形をとった。
「・・・・・・全然、平気」
その返事に安心して、剣心は前髪の間にのぞく額に唇を寄せた。
了。
2012.10.04
モドル。