「おやすみなさい」を言ってから、どのくらい経っただろうか。
        数分・・・・・・ではなくて、きっとゆうに一時間は経っている。



        外は雨。
        と、いっても屋根を叩く雨音はごく静かだ。
        隣に眠る君の寝息と相まって、それは耳に心地よい音色で。

        雨の音がうるさいわけでもなく、身体に不調があるというわけでもない。
        それにもかかわらず眠れない理由は、多分「なんとなく」なのだろう。
        きっとたまには、そんな夜もある。








      眠れない夜






        首を横に倒すと、目に入るのは君の顔。
        闇を透かして見える、柔らかな輪郭。寝息を紡ぐ唇が剥いた果実のようで、反射的に触れたくなる。でも、起こしてしまっては可哀想なので我慢する。

        きれいだな。
        可愛らしいな。
        こうして、大好きなひとの寝顔をじっくり眺められるのだから、眠れない夜もたまにはいいのかもしれない。


        そういえば、昔もこんなふうに、なかなか寝つけない夜があった。
        流浪人だった頃は、住む家を持たなかったから当然夜は野宿も多くて―――そうだ、流れ始めて間もない頃は、うまく眠れる場所を探すのも、夜露をし
        のぐのも下手だったから、眠れない夜もたびたびあった。

        けれど、月日が経つにつれて、そういうことにもどんどん慣れていって。
        住む家を持たない、根無し草の生活にどんどん適応していって。


        ・・・・・・この家に来て、二年と、もうすぐ半年。
        (いや途中君を泣かせて京都に行っていた時期もあったけれど、ともかく)

        そうだ、最初のうちは、久々に落ち着いて布団で眠れることが、どうにも不思議なことに感じられて―――でも、すぐに慣れた。
        それはそうだ。俺だって子供の頃から旅暮らしだったわけではないし。流浪人になる前は、夜は布団で眠っていたわけだし。


        つまり、適応するのが、人間なんだ。


        人を斬ることにも。
        孤独に生きることにも。
        あてもなく彷徨う旅暮らしにも。

        そういったことにも、いつの間にか、慣れてしまうものだった。



        ―――じゃあ、今は?



        今は、此処で生きるのが当たり前になったけれど。
        君と夫婦でいることが当たり前になったけれど。
        大切なひとのそばにいられることが当たり前になったけれど。


        もしも、今の暮らしが突然に消えてなくなってしまったら―――俺はまた、慣れてしまうんだろうか。


        此処ではない何処かでの、旅暮らしに。
        昔のように、孤独に生きることに。
        君がいない、人生に。



        「・・・・・・それは、無理だな」



        君を起こさないように、雨音よりも小さく口にする。


        この家に来て、二年と、もうすぐ半年。
        つまり、君と出逢ってそれだけ経ったわけだけれど、もう無理だ。

        隣に眠る君を見る。
        寝顔のその下へと、視線を移す。
        布団にくるまれたそこには、君のお腹の中には、もうすぐ会える、小さな命が宿っている。

        失うだなんて、考えられない。
        君がいない人生に―――適応なんて、できるわけがない。


        だから、大切にしなくてはならないんだ。


        この日常を。大好きなひとと暮らせる、かけがえのないこの日々を。
        決して―――失ったりしないように。




        外は雨。
        屋根を叩く雨音は、変わらずごく静かだ。
        俺と隣に眠る君と、そしてこの家を優しく包む、穏やかな水の音。

        どんな夢を見ているのだろうか、君の唇がかすかに微笑みのかたちをとっている。
        反射的に触れたくなる。でも、起こしてしまっては可哀想なので―――いや、起こさないように気をつければいいか。


        身を起こして、そっと唇の端に触れる。
        頬にもひとつ口づけて、そろりと離れる。


        君の顔が見られるように、横向きに頭を枕に戻す。

        こうして、大好きなひとの寝顔をじっくり眺められるのだから。
        こうして、大好きなひとへの想いを新たにできるのだから―――



        眠れない夜も、たまにはいいのかもしれない。












        了。








                                                                                   2019.06.29








        モドル。