汗ばんだ肌。
自分のものではない寝息。腰のあたりに、彼の腕の感触。
意識は、眠りの淵と目覚めの岸との間を、ゆっくりと行ったり来たりする。
遠くで、風鈴が鳴った。
その、微かな響きをきっかけに、重たい目蓋がようやく動く。
ぼんやりした視界が、次第に焦点を結ぶ。
瞳にまず映ったのは、剣心の顔だった。
長い睫毛は、まだ閉じられている。
普段から年齢より若く見られることが多い彼だが、こうして眠っていると更に幼く見える。
もっとも、本人にそれを言ったら機嫌を悪くするのだろうけれど。
ぼんやりと剣心の顔を眺めていた薫は、もうひとつ鳴った風鈴の音に誘われるようにして、身体を起こした。
腰を抱いている彼の腕を注意深く退かして、布団から畳へと膝で移動する。
障子に手をかけて横に引くと、さっと朝の光が寝所へと射しこんだ。
流れこんでくる清新な空気は、日中のそれよりひんやりとしている。
外に向かって手を伸ばしてみると、腕に太陽の温度を感じる。
今はまだ風は涼やかで心地よいが、じきに陽がのぼりきると、また焼け付くような暑さがやってくるのだろう。
薫は腕を引っ込めた。
このタイミングで起きてしまってもよかったのだが、なんとなく、布団へと戻る。
もう一度、ころんと剣心の隣に転がると、明るい色の瞳と目が合った。
「あ、起こしちゃった?」
「いや、起きてた」
「おはよう」
「おはよう」
眠っていたときと同じように、再び腰へと腕をまわされて、引き寄せられる。
薫は、僅かにはだけた剣心の胸に、ぴったりと頬をくっつけた。
「今日も、暑くなりそうでござるな」
「ほんとねぇ」
「気持ち悪くないでござるか?」
「え、何が?」
「汗、べたべたするでござろう」
確かに、頬を寄せた肌は少し汗ばんでいるが、それは薫も似たり寄ったりである。
「全然、汗ならわたしもかいてるもん」
「ちょっと、風呂に入りたい感じでござるな」
「むしろ、水浴びしたいかも」
連日、暑さが続くここ最近は、毎朝同じような会話を交わしているような気がする。
もう殆ど眠くはなかったが、薫は剣心に抱かれたまま目を閉じた。
彼の手が、ゆるゆると背中のあたりを撫でているのが気持ちよかった。
風鈴が、また鳴った。
耳を澄ますと、朝の静けさの中にも、一日の始まりに人々が動き出す気配が感じられる。
部屋に吹きこむ風はまだ爽やかだけれど、心なしか、先程より空気が太陽の熱を孕んでいるように感じられた。
じわじわと、陽が高くなってゆくのに比例して、気温は上昇してゆく。
「・・・・・・起きるの、嫌になっちゃうわね」
「今日は、起きるのやめようか」
「ほんとねぇ・・・・・・そうしましょうか」
ふたりの意見は一致したが、そうもいかないことは互いにわかっている。
じきに弥彦が稽古をしに来るし、午後には門下生の子供たちもやってくる。
わかってはいるのだがなかなか起き出す気になれず、剣心は寝転んだまま薫の髪に手をのばした。
髪紐をひっぱって、緩く編んだ三つ編みを先の方から解きほぐす。
長い髪がふわりと広がる。
首の後ろに指を差し入れて、髪を掻き乱して地肌を撫でてやると、薫は気持ち良さそうに目を閉じ喉の奥で、くふ、と笑った。
子猫が喉を鳴らしているみたいだな、と剣心は思った。
「・・・・・・今年は」
「んー?」
「今年の夏は、去年より暑いようでござるな」
それは、以前からなんとなくそう思っていたことを素直に口にしてみたのだったが―――
薫はその言葉にぴくりと反応し、剣心の胸から顔を上げた。
「やっぱり、そう思う?」
「え?」
「わたしも、そう思ってたから、この前妙さんに言ってみたの。そしたら首を傾げられちゃって」
薫は身を起こして、布団の上にちょこんと座る。
そして剣心の顔を見下ろしながら、話を続けた。
「確かに暑いけど、そんな特別暑いってわけじゃないだろうって」
「そうでござるかなぁ」
「わたしたちは去年の夏はばたばたしていて、暑さどころじゃなかったから、そう感じるだけなんじゃないかって」
その「ばたばた」の原因はすべて自分にあったので、剣心は苦笑せざるを得なかった。
そして、よいしょと一旦身体を起こし、ぱたんと薫の膝へと倒れこむ。
うつぶせに、膝に顔をうずめて、そのままきゅっと細い腰に抱きついた。
薫は先程のお返しのように、剣心の緋い髪に指を梳き入れて、くすぐるように撫でてやる。
「剣心もそう思ってたんだ・・・・・・そうよね、やっぱり今年のほうが暑いわよねぇ」
我が意を得たり、というふうに、薫は満足そうに微笑んだ。
しかし、柔らかな腿に頬を預け、薫のぬくもりを堪能していた剣心は―――ふいに、ひとつの理由を思い当たった。
「いや、薫殿」
「ん、なぁに?」
「それは、拙者たちが特別暑いだけなのかも」
「え?」
意味がわからず、薫は不思議そうに聞き返す。
剣心は顔をあげて、下から薫の瞳を覗き込んだ。
「去年の夏は・・・・・・まだ、こんなことはしていなかったでござろう?」
薫が、大きな目をより大きくする。
脚には、抱きついた剣心の体温。確かに、昨年の夏はまだ、こんなふうに触れ合ったりしてはいなかった。
肌を重ねて、抱き合ったまま朝を迎えるのが当たり前になったのは、秋も深まってからのことで―――
「・・・・・・そっか」
「うん」
「でも、そういう事なら」
薫は、思ってもみなかった「発見」に瞠った目を、今度は優しく細めた。
そして、とろけるような笑みを唇に乗せる。
「これから先は毎年、ずーっとこんな暑い夏が続くのね」
今度は、剣心の目が丸くなる番だった。
そのまままじまじと薫の顔を見て―――おもむろに、彼女の腰に巻きついている寝間着の帯を緩めた。
「・・・・・・剣心?」
「うん」
「あの・・・・・・そのうち、弥彦が来ると思うんだけど」
薫の声に構わず、剣心は帯を取り去る。
袷を開き、覗いた肌をぺろりと舐めると、薫の肩がぴくりと震えた。
「今朝は、拙者が稽古をつけるでござるよ。薫殿は昼まで寝てるとよい」
「でも・・・・・・」
「弥彦には、何か適当なことを言っておくでござるから」
薫は少しの間、どうしたものかと考えるように首をかしげていたが―――
やがて、身体を傾けてぱたりと布団の上に倒すことで、返事のかわりにした。
豊かな黒髪が敷布に広がる。
剣心は薫の上に覆い被さると、自分の内にある狂おしい熱を伝えるために、深く唇を重ねた。
★
じりじりと、太陽が乾いた地面に濃い色の影を焼きつける。
風鈴の音に、蝉の声が重なる。
抱かれながら感じているこの体温は、自分のものなのだろうか、それとも彼のものなのだろうか。
判然としないまま、薫は譫言のように「あつい・・・・・・」と呟いた。
了。
2013.08.07
モドル。