前編
春寒、というのだろか。ここしばらく暖かい日和が続いてすっかり季節は春に移った筈だったのに、今日は朝から妙に肌寒い。
空一面が薄い雲に覆われて、太陽の恩寵は下界まで届かない。たった今干し終えたばかりの洗濯物を眺めながら、剣心は「これは乾くのに時間がかか
りそうだな」と思う。
こう寒いと、せっかく咲いた桜も再び花弁を閉じてしまうのではないだろうか。そんなことを考えつつ母屋に戻りかけたところで、風が軒端を吹き抜けた。
木枯らしのように冷たいそれに首筋を撫でられ、思わず肩をすくめる。ついでに、鼻がむずむずして―――
「「・・・・・・くしゃん!」」
飛び出したくしゃみは、二重奏になった。おや、と目を丸くした剣心がもうひとつのくしゃみの主を探すと、薫の姿が目に入った。
道場で、稽古をしていたのだろう。道着の上にえんじ色の羽織を重ねて、やはり目を丸くしている。
ふたりは顔を見合わせて、今度は同時に吹き出した。
「寒いでござるなぁ、今日は」
「ほんとねぇ、これじゃせっかく咲いた桜が閉じてしまうんじゃないかしら」
自分と同じことを考えていた薫にまた笑いつつ、剣心は「早く着替えないと、風邪をひくでござるよ」と促した。「そうするわ」と答えて母屋に上がろうとした薫
は、しかし剣心の手を見とがめて、立ち止まる。
「やだ!真っ赤・・・・・・!」
「おろ?」
襷をほどいていた剣心は、自分の手に目を落として「ああ」と頷く。つい先程まで冷たい水で洗濯をしていたため、その手は指先から甲まで赤く染まって
しまっていた。
「今日は、水も冷たかったでござるから」
「これじゃあ剣心こそ風邪ひいちゃうじゃないの!あああ、こんなに冷え切っちゃって・・・・・・」
言うなり薫は、剣心に向かって手を伸ばす。自分のそれよりひとまわり大きい彼の手を、左右まとめて捕まえる。
はらり、と。襷を足下に落としてしまったことに、剣心は気づけなかった。
剣心の冷たい手を、薫は自分の両のてのひらで挟みこむ。
少し前まで稽古をしていた、彼女の手はあたたかい。その手の温度を分け与えるように、きゅっと剣心の指を握る。
―――自分は、神速をうたう飛天御剣流の使い手で。相対した敵の動きを先んじて読んだり、それに対して素早く攻撃を返すのを得意としていて。でも
今、彼女の動きを読み切れずあっさりと手を捕まえられたのは何故なんだろうああそうか彼女に敵意が一切ないからか成程そういう事か。
一瞬、思考が停止して。そして今現在起きていることを分析しようと高速で頭が回転し出す。と、いってもそれは殆ど意味のない空回りで、要するに剣心
は動揺していた。
薫の、あたたかくて柔らかな手。
気持ちいいなと思いながらも、こうしていると彼女の手も冷えてしまうのではないかと心配になる。
でも、だからといってその繊手をふりほどく気にはなれなくて。だって―――
手を握られたまま剣心は無言で、向かい合って立つ薫の頬のあたりを眺めていた。
長い睫毛が、血色のよい肌に影を落としているのが綺麗だった。
先に我に返ったのは、薫のほうだった。
剣心の手をとったのは、完全に「反射」だった。真っ赤になった彼の手が、あまりに冷たそうだったから。
しかしながら、まがりなりにもうら若き乙女の身でありながら、異性の手を自分からとって握るだなんて―――
「ごっ・・・・・・ごめん!」
薫はぱっと手を離し、その手をそのまま背中に隠す。今や彼女の頬は、剣心の手よりも真っ赤になっていた。
「ちっ・・・・・・違うのよこれは!つい、昔の癖で・・・・・・ほら、うちは道場だから、小さな子供も稽古に通ってきてたから!ついその時の感覚でやっちゃった
の!それだけだからっ!」
勢いよくまくしたてられる言い訳を、剣心は「ああ成程そういうことか」と納得して聞いていた。
まだ、彼女の父親が存命していた頃。この道場は賑わっており年端もいかない子供たちも剣を習いに通ってきていて。たとえば冬の日、手も鼻の頭も真
っ赤にしてやってきた小さな門下生の手をとって、あたためてあげたこともあったのだろう。あるいは、それはまだ薫自身も「子供」と呼ばれるような年齢
だった頃の話なのかもしれない。
剣心は、今よりずっと幼く小柄な彼女が、お姉さんよろしく年下の門下生の手をあたためてやっている様子を想像して、微笑ましさに頬をゆるませる。
「だからっ、ついうっかりこんな事しちゃっただけだからね?!それだけなんだからねっ?!」
「うん、わかったでござる。ついうっかりでござるな」
「・・・・・・そうよ、じゃないとこんなはしたないことしないわよ」
「はしたない、でござるか?」
「はしたないでしょう!男のひとの手を女の子から握るなんて!」
そうか、それは彼女にとっては「はしたない」ことなのか、と。剣心は、薫の少女らしい潔癖さに、目を細めた。
「昔は・・・・・・小さな子供たちも、ここに通ってきていたんでござるな」
ふと、先程の薫の言葉を剣心が反復し、薫は「そうよ」と頷いた。
「まだ、父さんが生きていた頃ね・・・・・・あ、嫌だな、昔っていう程前のことじゃないかしら」
ふっ、と。寂しげに薫の眉が曇る。彼女が戦争で父親を亡くしたのは昨年のことで、突然の別離に負わされた心の傷は、まだ癒えていないことだろう。し
かし、寂寥は懐かしい記憶も呼び起こしたらしい。
「それこそ、すごく昔のことだけれど。子供の頃、冬の出稽古から帰ってきた父さんの手を、あんなふうにあっためてあげたっけなぁ」
「すごく昔とは、いつ頃のことでござるか?」
「えーと、そうねぇ・・・・・・明治になるかならないかの頃かしら」
「・・・・・・そう言われると、自分の年齢を痛感するでござるな」
大きくため息をついて、肩を落とした剣心に、薫は「え?どういう事?」と首を傾げる。
「いや、拙者はその頃に流浪人になったから・・・・・・薫殿にしてみれば、その頃は『大昔』なんでござるよなぁ・・・・・・」
そう言って、かくんと首を倒して項垂れるのに、薫は目をぱちくりさせて―――そして、声をあげて笑った。
その顔を見て剣心は、ああ、よかったと思う。
笑いを誘うように振る舞ったのは、わざとだ。この娘に、寂しい顔は似合わないから。
「そうねぇ、剣心の顔を見てると時々忘れちゃうけれど、わたしよりひとまわり上なのよねぇ」
「どうせ拙者は年寄りでござる」
「褒めてるのよー!若々しく見えるっていいことじゃない・・・・・・ところで、ねぇ剣心」
「うん?」
「まだ、手、冷たいの?」
「・・・・・・おろ?」
そう言われて、剣心は気づいた。
先程、薫に握ってもらい、あたためてもらった手。
薫が恥ずかしさに気づいて手を引っ込めたあとも―――剣心はずっと胸の前に、自分の手を差し出したままでいた。
その格好を指摘されて、剣心は「あ、いや、これは」と狼狽える。
しまった、これじゃ彼女に手を離されたことを相当名残惜しく思っているみたいではないか。いや確かに名残惜しいと思っているのは事実だけれど。
ともかく剣心は、慌てて背中に手を隠そうとした。けれど―――薫が動く方が早かった。
再び触れる、やわらかな体温。
もう一度、彼女に手を捕まえられる。
「・・・・・・仕方ないわねぇ、もう少しだけ、あっためてあげる」
驚きに、咄嗟に声を出せずにいる剣心に、薫はやれやれと首を横に振りながら、彼の手を握りながら、そう言った。
剣心はただただ目を大きく丸くしていたが、正面に立つ薫の頬の色に気づいて、口許を緩ませる。
異性の手を握ることを「はしたない」と言った彼女にとって、この行動は相当恥ずかしく、勇気を要する事なのだろう。すました顔で「仕方ない」などと言っ
てはいるけれど、向かい合う薫の頬には、赤くあざやかに血がのぼっていた。
「・・・・・・かたじけないでござる」
「もう少しだけよ?」
「うん、もう少しだけ」
冷たかった手が、だんだんあたためられて、ふたりのてのひらの温度が、同じ温度に近づいてゆく。
先程、同じことをされた時「これでは彼女のほうが冷えてしまうのでは」と心配になったが、その手をふりほどく気にはなれなかった。そして、今もやはり
そんな気にはなれない。
だって―――彼女にこんなふうにしてもらえる事が、俺は嬉しくてたまらないのだから。
触れたところから、あたたまってゆく手。いや、手だけではなく、心に灯がともされたように、胸の内側までもが熱をもってくる。
上昇する心の温度は、俺が君に惹かれている証拠だろう。出逢って間もない頃に芽生えたこの想いは、近頃は気づかないふりをするのが難しいくらい大
きく育ってしまい、もう、自分の心を自分でごまかす事は不可能になってしまった。
どのくらいの間、そうしていたのだろうか。
ずいぶん長い時間のようにも感じられたし、あっという間のようにも感じられた。
「・・・・・・あったまった?」
「うん、あったまったでござる」
「よかった」
その言葉とともに、離れるぬくもり。
薫が手を離したのと同時に、ふたりの間を冷たい風が通りすぎた。
手は、すっかりあたたまったのに。離れた瞬間、すっと心が冷えたように感じた。
ああ、これは―――寂しさだ。
「・・・・・・剣、心?」
今度は、剣心から手を伸ばした。
捕まえたのは手のひらではなく、彼女そのもの。
細い身体を、剣心は力をこめてぎゅっと抱きしめた。
後編 へ続く。