後編










        「・・・・・・剣、心?」





        驚きに、息を飲む気配。それに、戸惑いの声が続いた。
        困惑するのは当然だろうと思いつつ、剣心は腕を解かなかった。


        「ごめん・・・・・・もう少し」


        寂しさがあふれたのは、これから先のことを思ってしまったからだ。
        これから先、きっと遠くない未来に訪れる別れ。俺は、いつまでも此処にいてはいけない人間だから。



        いつまでここにいられるのだろう。
        いつまで君と一緒にいられるのだろう。

        ずっと一緒にいられないことはわかっている。でも、一緒にいたいと思ってしまった―――この想いは、消そうと思っても消せるものではなくて。



        「もう少しだけ・・・・・・」



        だから、せめてもう少し、あと少しだけ。
        今だけは、こうしていたい。

        腕に力を入れたら、薫が身じろぎをした。抵抗されるのだろうかと思ったら、そうではなくて。伸ばした手で、髪に触れられた。
        華奢な指に、優しく髪を撫でられる。ああ―――気持ちいいな、あたたかいな。
        ひょっとして、君も同じ想いでいるのだろうか。いつか来る別離を予感して、それを悲しんでくれるのだろうか。嘆いてくれるのだろうか。


        ―――いや、待てよ。


        駄目だ。そんなのは駄目だ。だって俺は君を悲しませたくない。君が泣くところなんて見たくない。もし君が涙を流すとしたら、それは嬉しさゆえの涙であ
        ってほしい。
        俺が一緒にいることで、君が笑顔でいてくれるなら、俺は君とずっと―――



        ・・・・・・あれ?いや、待て待て待て。
        この時、この年の春、俺はこんなことを思えただろうか。

        第一、この時の俺はまだこんなふうに君を抱きしめることなんてできなかった。
        じゃあ、このあたたかさは、この、髪をくすぐる感触は―――





        頭をもたげると、薫の帯の色彩が剣心の目に映った。




        「あら、起きた?」
        うつぶせに、膝枕に顔をうずめた良人の頭を、優しく撫でていた薫が笑った。









        ★









        「その夢、途中から違ってるわよ。あの時、手はあたためてあげたけれど、その後抱きしめられたりはしなかったわ」
        「で、ござるよなぁ・・・・・・」



        昼下がり、妻の膝枕で居眠りをしていた剣心が見た夢は、数年前の春の出来事をなぞる夢だった。
        しかし、正確に当時のことを辿っていたのは途中までで、薫を抱きしめた場面からは完全に剣心の「捏造」である。


        「けれど、もしあの時も抱きしめてもらえたなら、嬉しかっただろうなぁ・・・・・・きっと、嬉しすぎて倒れちゃってたでしょうね」
        「倒れないでござるよ、拙者が支えるから」
        もしもの話に大真面目に返してくる剣心に、薫は笑った。その声に反応してか、傍らで眠る剣路がうーんと小さく唸った。
        そもそも、剣心が居眠りをしてしまったのは、剣路が気持ちよさそうに昼寝をしているのを見ているうちに、つられて眠くなってしまったからだ。障子を開け
        放った居間にうららかな日差しがふりそそぐ今日は、睡魔に襲われても仕方ない日和だ。

        「でも、手をあっためてあげた事なんて、剣心よく覚えていたわねー」
        「薫殿だって覚えていたでござろう」
        「だって・・・・・・そりゃ、嬉しかったもの。それに、恥ずかしかったし」
        「うん、拙者も嬉しかった」
        膝枕に仰向けになった剣心が口許をほころばせ、見下ろす薫も一緒に微笑む。

        想いを寄せる相手と触れあえるのは単純に嬉しいことだし、あの当時は手を握ることが精一杯で―――嬉しくてくすぐったくて照れくさくて、あの時のそん
        な感情は、今でも鮮明に記憶している。


        「あの時・・・・・・」
        「うん?」
        「あの時、思ったのよね。剣心は旅をしている間、きっと冬なんかはいつも寒い思いをしていたんだろうなぁ、って」
        まさに当時の剣心は「すこし前まで旅暮らし」の身だったから。季節もようやく春になったあのとき、薫はつい、そんなことを考えた。

        「・・・・・・もう、寒い思いはしてほしくないなって。そう思ったことを、覚えてるわ」
        「そのとおりに、なったでござるな」
        あの後、一度流浪人には戻ったが、結局剣心は薫のもとに戻ってきた。そして神谷道場が終の住処となり、もう寒風と雪のなかで冬を越すことはなくなっ
        た。



        「もう少しだけ、一緒にいたい」
        それは刹那の願いのはずだった。いつかは此処を離れなくてはいけない。君のもとを去らなくてはいけない。だけど、あと少しだけそばにいたい。

        もう少し、あと少しの願いは、いつしか「ずっと一緒に」に変化して。
        そして―――今も俺は、君のもとにいる。



        剣心は、仰向けのまま手を伸ばした。薫は、僅かに身を屈める。
        指先で、薫の頬に触れる。やわらかさとあたたかさを確かめるように指を這わせて、唇にも触れた。
        薫は良人の手を、自分のそれでそっと包み、指先に小さく口づける。

        あたたかくて、気持ちいい。
        指だけじゃ足りなくて、もっと触れてほしくて触れたくて、剣心は身を起こした。そのまま薫を抱きしめようと腕をのばしたところで―――どーん、と。脇腹に
        衝撃を受けた。


        「お・・・・・・ろ?」
        見ると、寝ぼけまなこの剣路が、むうっと不機嫌そうに顔をしかめて父親を睨んでいる。
        「どいて!とーちゃばっかり、ずるい!」

        自分が昼寝している間に、母親を独り占めされていたのが気にくわないらしい。ぐいぐいと剣心を押し退けると、剣路は薫の膝に抱きついた。あらあらと薫
        は笑い、剣心も頬をほころばせる。
        「剣路こそ、薫殿の膝をひとりじめして、ずるいでござろう」
        「ずるくない!かーちゃはけんじの!」
        「おろ、違うでござるよ、薫殿は剣路が生まれる前から拙者のでござる」
        そう言いながら、剣心は薫の背中にまわって後ろからぎゅっと抱きしめた。「ちがーう!」と抗議の声をあげる剣路に、剣心は「違わない」と返し、薫が「喧
        嘩しないの!」とまた笑う。
        「はなれろー!」と、剣路が飛びかかってきたので、剣心は薫を解放し、今度は我が子を捕まえる。小さな身体を「高いたかい」と空に持ち上げると、剣路
        ははしゃいだ悲鳴をあげた。

        「あー、剣路ばっかり、ずるいわー」
        「とーちゃ!こんどはかーちゃもやって!」
        「おろろ、できるでござるかなぁ」


        親子三人でどたばたとじゃれあっていると、庭のほうから「ちわーっす」と弥彦の声がした。
        「何大騒ぎしてんだよ、勝手に入っちまったぞ」
        「剣路くん、お饅頭買ってきたよー」
        弥彦の後ろから、ひょいと燕が顔を出す。「饅頭」という単語に反応した剣路は、父親の手をふりほどくと縁側にむかって駆け出した。










        「あの時、抱きしめていたら・・・・・・どうなっていたのでござるかな」
        台所で、湯を沸くのを待ちながら、剣心はぽつりとそう言った。弥彦と燕に剣路をまかせてきたから、今はふたりきりだ。


        「そうねぇ、もっと早く『いい仲』って呼ばれるようになっていたのかしらね」
        悪戯っぽく薫が笑い、剣心は「そうすればよかったでござるなぁ・・・・・・」と無念そうに唸る。薫は「どこまで本気なのかしら」と首をかしげた。けれど確かに、
        剣心のなかには「もしもあの時」という想いがあるのだろう。だからこそ、あんな夢を見たのかもしれない。

        「勿体なかったでござるな・・・・・・お互い同じ気持ちでいたのに、それを告げずにいたのだから」
        「まぁ、どう頑張ってもあの頃に時間を戻すことはできないんだから・・・・・・その頃の分も取り戻すつもりで、これからを過ごせばいいんじゃない?」
        「確かに・・・・・・そのとおりでござるな」
        心底感心した、というふうに頷く剣心に、薫は「大袈裟ねぇ」と笑う。



        いつまでここにいられるのだろう。いつまで君と一緒にいられるのだろう。
        いつまでもここにいてはいけない。でも、もう少しだけ一緒にいたい。
        そうやって、いつか来る別れを常に意識していたあの頃。

        今は、少しでも長い時間を君と歩みたいと願うばかりだ。
        新しい命を紡いで、君と一緒に我が子の成長を見守って、行く末を見届けて―――


        それは、俺のような人間には贅沢で身の程知らずな願いなのかもしれない。
        けれど、願わずにはいられない。この願いは、君の幸せにも繋がることを、俺はもう知っているのだから。


        「・・・・・・もう少し、いいでござるか?」
        「あっためてほしいの?」
        「お湯が沸くまででいいから」

        薫は、どうぞ、というふうに軽く両手を広げた。
        自然な動作で、剣心は腕を伸ばし、彼女を抱きしめる。



        刹那の邂逅のはずだった、君との出逢い。
        けれど今はもう、君のいない世界なんて考えられない。

        もう少し、あと少し、もっと先まで、ずっと先まで―――
        そうやって、ふたりで時を重ねていこう。





        「・・・・・・あったかい」






        腕の中で薫がうっとりと呟いた。
        湯が頃合いになるまで、あと、もう少し。














        なんでもないや 了。







                                                                                             2017.10.08







        モドル。