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        「あの・・・・・・ほんとにすみません・・・・・・」





        「手伝いましょうか」と声をかけてくれた男性の厚意に甘え、籠をひとつ彼の手に預けた薫は、ひたすら恐縮した。
        「いいんですよ、同じ方向ですから」
        柔和な顔で男が笑う。見る人の心を和ませるような笑みに、薫もつられて微笑みを返す。


        それにしても、と。
        薫はちらりと男のいでたちに目を走らせる。

        男はまだ若い。どうみても剣心よりも年下だ。温厚そうな雰囲気に、優しげな黒い瞳が印象的である。
        しかし、彼の髪が髷に結われているのが薫の目には不思議に映った。
        明治になっても髷を結っている人間は稀にはいるが、それはたいてい年嵩の者だ。こんな若いひとが珍しいな、と思う。


        しかも、青年は帯刀していた。
        それも大小を重たげにたばさんでいる。

        剣心も刀を差して歩いているが、彼の場合特別黙認されているようなものだ。とてもそうは見えないが、この青年にも刀を手にすることを許されるような、
        何か特殊な事情があるのだろうか。
        不思議に思ったが、青年のまとう雰囲気はとても穏やかだったので、薫は詮索をしなかった。



        「この野菜、お墓に供えるわけではないですよね?」
        青年の言葉に薫は赤面する。
        ふたりが歩いている道の向こうには墓地があるのみ。そして、薫が抱えている籠の中には、何故か青々とした野菜がぎっしり詰まっていた。籠の野菜は
        重さからいって、墓前に供えるにしては多すぎる量だ。

        「えーと・・・・・・ここに来る途中、野菜の行商の女の子が絡まれているのを助けて・・・・・・それで、お礼にって、頂いたんです」
        「ああ、そうなんですか。それは善いことをしましたね」
        感心したように青年がまた微笑む。薫は、具体的にどう助けたのかの説明を求められなかったことに安堵した。


        先程、用事を済ませて白べこを出た直後、薫は行商の娘が酔っぱらい二人に絡まれている現場に行き合った。薫が眉を寄せて彼らのほうに足を向ける
        と、泣きそうになっている娘と目があった。
        傍を歩いていた通行人の中に丈夫そうなステッキを手にした男性がいたのが、薫と娘にとっては幸運で酔っぱらいたちにとっては不運であった。薫は「お
        借りします!」と叫んでステッキをその男性の手からもぎ取ると、今まさに娘に手を上げようとしていた酔っぱらいに打ちかかった。

        結果として、黒檀のステッキで首筋をしたたかに打たれ鳩尾を突かれた酔っぱらい二人はほうほうの体で逃げ出し、薫はステッキの持ち主をはじめ様子を
        見ていた街の人々から喝采を浴びた。
        行商の娘はいたく感謝をして「御礼になるかわかりませんが・・・・・・」と言いながら売り物の野菜をたっぷり入れた籠をふたつ、薫に持たせたのだった。


        そんなわけで確かに「よいことをした」のだろうが、初対面の相手に詳しく説明するのは流石に恥ずかしい。どんなじゃじゃ馬なんだと思われるのがおちだ
        ろう―――まぁ、自分がじゃじゃ馬なのはまごうことなき事実ではあるが。とにかく、そんな「不測の事態」があったため、剣心に追いつくのが遅くなってし
        まったのだ。

        せっかく二日続けて墓参りにゆくのだから、ひとりで墓前で巴の思い出に浸る時間があったほうがよいのではと思ったのだが―――妬けないといえば嘘
        になるが、それはまた次元の違う話なのだし―――しかし、合流するのがあんまり遅くなると、きっと彼は心配するだろう。今頃気を揉んでいるだろうな、
        と、薫は心の中で詫びの言葉を呟いた。



        「あの、お墓参りに行かれるんですか?」
        野菜を貰った経緯についてそれ以上追及される前に、話を変えた。
        「そのような感じです。妻がこの先で待っているので、迎えに行くところですよ」
        「待ち合わせ、しているんですね」
        「ええ、お盆ですから、家族のところに顔を出しに行っていまして・・・・・・なので、水入らずのほうがいいかと思いましてね」
        あなたは?と返されて、薫も「わたしもです、うちのひとが先に着いているかと」と答えた。

        からりころりと、ふたりがゆく道に下駄の音だけが音楽のように響く。
        先程まで賑やかだった蝉の鳴き声が消えていることに、薫は気づいていなかった。


        「あの、邪魔になってしまうかもしれませんが・・・・・・ご迷惑でなければ、この後、お野菜少し持って行かれませんか?」
        手伝ってくれた御礼にと薫は申し出たのだが、青年はお気持ちだけ頂きますと辞退した。
        「せっかくですが、これから遠くまで帰らなくてはいけませんので」
        「あ、そうなんですね。奥様とご一緒に?」
        「ええ、勿論」
        包み込むような笑顔で答える。この人はさぞや愛妻家なのだろうな、と薫は想像する。
        それに、彼の暖かい表情はちょっと剣心に似てるな、と思った。

        「じゃあ、道中気をつけてくださいね」
        「ありがとう、あなたがたも」
        「え?」
        「いえ、言葉が京都の方ではないようでしたから」
        「あ、はい、そうなんです。東京からなんです」
        「それは、わざわざ遠いところから」
        感心したような声に、薫は「こっちには親しい人も多いですから」と、笑った。


        「お墓参りも、知人の方のですか?」
        「そうですね、主人の・・・・・・」
        巴のことを、どう説明しようか、と。薫は一瞬言葉に迷いつつも、ゆっくりと唇を動かす。

        「主人の、大事な人だったんです」
        隣を歩く青年が、不思議そうな目を薫に向けた。
        「こんなふうに言うと、わたしの恋敵みたいに聞こえますよね。でも、わたしにとっても大事なひとなんです。なにしろ、恩人ですから」
        「恩人、ですか」
        「はい、主人を救けてくれたひとなんです。それに―――」


        薫は、少し考えるように瞳を動かし、静かに続けた。



        「なんていうか・・・・・・わたしも護ってもらったような気がするんです」



        だって―――わたしは本当なら、倭刀に胸を貫かれて死んでいたはずだった。
        もしくは、孤島で縊り殺されるか首の骨をへし折られるはずだった。
        もしくは、黒星の銃に撃ち殺されているはずだった。

        けれど、わたしが死なずに今こうしていられるのは、雪代縁が「姉と同じ年頃の女性」を殺せなかったから。彼が若い女性の「死」を忌避していたからだ。
        彼の復讐は姉への狂おしい愛情ゆえに始まったけれど―――その、巴さんへの愛情があったからこそ、わたしはこうして生きている。


        あの時、銃の前に身を躍らせた薫を救ったのは縁だった。
        その後薫は島から帰る舟の中で、「彼の目に映っていたのは、わたしではなく巴さんの姿だったんじゃないかしら」と、呟くように口にした。
        疲労困憊といった様子で、でも穏やかな表情で薫の肩に寄り添い身を預けていた剣心は、「拙者もそう思っていた」と答えて薫の手をぎゅっと握った。そし
        て「薫殿が生きていて・・・・・・ほんとうによかった」と、愛おしさを隠さぬ声音で、そう言った。
        周りの皆は見て見ぬふりをしていてくれたが―――きっと、縁が巴の姿を見ていたであろうことには、誰もが心の中で賛同していただろう。

        「守りたかった」と、闘いの後、縁はそう言って子供のように泣きじゃくった。
        彼の心は、憎しみ一色に塗りつぶされていたのではない。彼の心には、大切なひとを―――大好きだった姉を守りたいという想い、そして子供の頃にそ
        れが出来なかった、目の前で姉が死にゆくのを止められなかった後悔が、確かに在った。
        生き延びてゆくために幾つもの罪を重ねて、幾人もの人を殺めるのも厭わなかった縁にも、「守りたかった」という感情だけはずっと残っていた。あの冬の
        日から、ずっと。


        それだけ、あの姉弟の絆は深かったのだろう。
        それだけ、巴さんは弟に愛情を注いでいたのだろう。
        その愛情に―――結果として、わたしは護られた。



        「・・・・・・わたしは、彼女には会ったことが無いので、護ってもらったと感じるのは勝手な思いこみかもしれないんですけど」


        束の間、巴と縁について思いをめぐらせた薫は、そう言って青年の顔を見て、少し笑った。すると彼は「いいえ」と小さく首を横に動かした。
        「思いこみなどではないでしょう。貴女がそう想っていることを、きっと故人の方も喜んでいますよ」
        「・・・・・・そうでしょうか?」
        そうですよ、と青年がまた微笑む。

        「第一、生きている者のことを見守るのは、亡くなった者の大事な仕事ですからね。そう思ってもらえたほうが、見守り甲斐もあるというものですよ」
        すこしおどけた調子でそう言われたものだから、薫は笑って「それなら、ありがたいです」と頷いた。
        このひとは、優しいひとだな。やっぱり、剣心にちょっと似ているな、と。薫はまた思った。



        「・・・・・・ありがとう」



        え、と。薫は小さく首を傾げた。
        独り言のように彼が呟いた礼は、何に対するものだろうか。
        けれど、そう言われたことも不思議と自然なことのように感じられて、薫は小さく「はい」と答えた。

        「今は、穏やかに過ごしています。妻と一緒に」
        「あなたと・・・・・・奥様と?」
        「はい」

        何故、そんなことを自分に告げるのだろう。
        薫はそう思いつつも、「それは素敵なことだな」と、やはり自然に思った。



        「おふたりとも、幸せなんですね」
        「ええ、とても」





        青年がはにかむように笑ったから、薫も笑った。
        気がつくと、墓地はもう目の前だった。














        7 へ続く。