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        ころん、と軽やかに下駄が鳴った。




        「剣心!」




        薫の澄んだ高い声がそれに重なる。
        ふりむくと、薫のきらきらした笑顔がそこにあった。

        「ごめんなさい、すぐ行くって言ったのに、遅くなっちゃって・・・・・・」
        「いや、大丈夫でござるよ。しかし、一体何があったんでござるか?」
        薫の手には先程までは持っていなかった野菜の籠があり、別行動をとっている間に「何か」があった事は一目でわかった。
        「うん、ちょっと色々あって、あちらの方に手伝ってもらったんだけど・・・・・・あら?」



        振り返った薫の視線の先には、持ち手を失った籠がひとつ、ぽつんと取り残されたように地面に置かれていた。



        薫は、数歩引き返して、あたりをきょろきょろと見回す。しかし、青年の姿は何処にもない。
        「どこに行っちゃったのかしら・・・・・・今の今まで、ここにいたのに」
        薫の眉が怪訝そうに寄せられるのを見て、剣心は「誰か、一緒にいたんでござるか?」と尋ねた。薫は頷くと、籠を地面に置いて事情を説明する。
        それを聞いた剣心は―――思い当たる人物に、はっとした。

        「薫殿」
        「はい?」
        「その青年は・・・・・・どんな御仁でござったか?」
        風体や顔立ちについては既に話した。剣心が訊いているのはもっと違うことだろうと思い、薫は僅かの間考えて、言葉を探す。
        「笑ったときの感じが、ちょっと剣心に似ていたわ。優しそうな雰囲気のひと」
        その表現に、剣心の表情が、また揺れた。
        それで、彼には青年についての心当たりが―――そして、何か事情があるであろうことを、薫は察する。

        「えっと、奥さんと一緒に帰るところだって言ってたの」
        「奥方と?」
        「うん、それでね・・・・・・」
        薫の耳に、まだ青年のあの台詞が残っていた。
        そして何故か―――剣心に、伝えなくてはと思った。



        「今は、妻と穏やかに過ごしています・・・・・・って。幸せなんですねって訊いたら、とても、って答えて、笑っていたわ」


        剣心が、大きく息をついた。
        心の底から安心したような、そんな彼の表情に、薫もほっとする。



        あの青年が誰なのかは、訊かないでおこうと思った。
        剣心との間にどういういきさつがあったのかはわからないけれど、青年の消息を伝えられたのだから、それでいい、と。
        しかし―――あっという間に青年が姿を消してしまったのは、残念だった。

        「もう、奥さんとふたりで行っちゃったのかしら。きちんとご挨拶したかったんだけどな」
        かくんと落とした薫の肩を、剣心はぽんと叩いた。
        「縁があれば、また会えるでござるよ」
        「・・・・・・そうよね」
        寂しげに寄せた眉をひらいて、薫は剣心を見つめた。
        「次に会えたときに、ちゃんとお礼を言わなくちゃね」

        そして、いつものように、笑う。
        それは彼の愛してやまない表情。見るものすべてを幸せにするような、光があふれるような笑顔。
        ああ、どうしてこんなにきれいなんだろう、と。これまで幾度となく繰り返した疑問をもう一度心の中で呟きながら、剣心は目の前にいる愛しい人に微笑み
        を返した。






        それからふたりは改めて巴の墓前に白梅香を供え、線香をたむける。揃って手を合わせた後、剣心は薫に「ありがとう」と礼を言った。
        「なぁに?そんな、改まって」
        「いや、盆に合わせて京都に来てもらったでござろう?薫殿のご両親にだって、挨拶に伺わねばいけないというのに」
        「なんだ、そんな事」
        すまなそうな顔の剣心に、薫は笑って首を横に振る。
        「いいのよ。わたしのほうは思い立ったらすぐに行ける場所だから、ちょくちょく顔を見せに行ってるし・・・・・・それに、巴さんだって久しぶりに剣心に会えて
        喜んでいると思うわ」
        少し、身体を屈めて。剣心だけではなく、小さな墓石にむかって語りかけるようにして、薫は続ける。

        「亡くなったひとは、こっちの世界で生きている親しいひとたちには、もう会えないんだから・・・・・・やっぱり寂しいと思うの。だから、できるだけこちらから会
        いに来なくちゃね」
        剣心は、薫の横顔をいとおしげに見つめながら、「そうでござるな」と頷く。それは、彼女の言うとおりだろう。でも―――


        「・・・・・・でも、あちらに行ったからこそ、会える相手もいるでござるよ」


        薫は少し目を大きくして、そして、唇の笑みを深くする。
        「確かに、そうね。父さんが亡くなったときにも思ったっけ・・・・・・きっとむこうで、母さんに会えたんだろうなぁって」
        どこかで焚かれた迎え火の麻幹の焦げた香りが、空に漂う。ふたりは晴れ渡る蒼穹を見上げて、それぞれの懐かしいひとたちの面影をしばし想った。



        「よかったでござるよ、今年はこうして来ることができて。そのうち、あまり頻繁には来られなくなるだろうし」
        「え、どうして?来年も来るんじゃないの?」
        穏やかな沈黙が続いたのちに剣心が口にした言葉に、薫は首を傾げる。すると剣心は微妙に視線を泳がせながら言った。
        「いや・・・・・・ほら、じきに拙者たちにも、子供ができるだろう、から・・・・・・」
        「・・・・・・あ」
        剣心の言わんとすることを理解して、薫はぽっと頬を染める。
        確かに、子供が産まれたら、小さい子を抱えて京都まで足を伸ばすのは難しくなるわけで―――それは、きっと近い将来のことだろうから。

        「・・・・・・それは、そうかも」
        「・・・・・・そうでござろう?」
        ふたりは照れくさそうに顔を見合わせて、えへへと笑う。
        「来年の今頃は・・・・・・どうなっているのかなぁ」
        小さく呟いて、薫はそっと帯の下あたりに触れてみる。彼女の唇に浮かんだ微笑みはとても柔らかくて優しくて、剣心はその表情を眺めながら、早く、母親
        になった彼女の笑顔を見てみたいな、と思った。きっともっと優しく、そして美しく笑うことだろう。


        少し前までは―――ほんの一年ほど前までは、想像もできなかった。自分がこんなふうに、未来に想いをめぐらせるようになるなんて。


        自分は、罪人だ。
        大勢の人を斬って、沢山の命を奪って、幾人もの人々に喪失の哀しみを与えた。ここに眠る、愛したひとすら殺めてしまった。
        償わなくてはならない。背負った罪を手放してはいけない。ずっと、それだけを胸に生きてきた。

        けれど、旅の果てに見つけた君との出逢いが、俺に教えてくれた。
        本当の意味での命の重さを。償うために、俺が何をすべきかを。愛することで―――強くなれることを。


        だから俺は、もう罪の重さに耐えきれず、膝をつくことはないだろう。
        後悔ばかりの過去にも、思い出として目をそらさず向き合っていけるだろう。
        薫が傍にいてくれるなら、そうやって、俺は生きていける。

        そんな未来をくれた君の事を、俺は生涯愛し続けよう。
        君の存在に、ずっと感謝の念を注いでゆこう。この闘いの人生を完遂するまで。最期の瞬間まで、ずっと。



        「・・・・・・なぁに?」
        じっと見つめられていることに気づいた薫が、不思議そうに首をかしげた。
        剣心は、なんでもないよ、というように首を横に振り、「そろそろ、帰ろうか」と、足許にある野菜籠に目を落とした。

        「しかし、なかなかの量でござるな」
        「葵屋で、白さんに使ってもらいましょうよ。剣心、一個持ってくれる?」
        「ああ、いいでござるよ、ふたつとも拙者が持つから」
        「え、でもこれ重いのに」
        「大丈夫でござるよ。じゃあ、薫殿はこちらを持って」
        「あ、水仙堂で買ったお土産ね」
        「妙殿も燕殿も、気に入るといいでござるな」



        剣心と薫は、なんだかんだと喋りながら墓地を後にし、葵屋への帰路につく。





        その後ろ姿を見送る、ふたつの人影があった。








        ★








        「・・・・・・行ってしまいましたね」
        「うん、行ってしまった」
        「相変わらず、仲睦まじくて安心しました」
        「そうなのかい?少しは妬けたりするものかと思ったのだけれど」


        先程薫を手伝った青年が、彼の妻に笑いを含む声で訊いた。からかうような尋ね方が気に障ったのか、彼女は少し唇を尖らせるようにして答える。
        「そういう感情は、ぜんぶ此岸に置いてきてしまいましたから。それより、あなたこそ、随分とあの子と楽しそうに歩いていましたね」
        「全然、置いてきていないじゃないか」
        生前の彼女が滅多に見せたことのない拗ねた表情に、青年は可笑しげに目を細めた。つられて彼女も、口許を緩める。

        「あとで、縁とお父さんの話も聞かせてくれるかい?」
        「はい、もちろん」
        「あのふたりは、次に来るのは、いつだろうね」
        「わかりませんけれど・・・・・・いつか、子供を連れて会いに来てほしいです」

        きっと、そんな未来が近いうちに彼らに訪れるのだろう。
        今のあのひとは、ちゃんと光のあるほうへ向かって、歩いている。



        あの雪の日に、わたしが死んでから、あのひとはずっと苦しんでいた。
        違うのに。あのひとが、わたしを殺したのではないのに。わたしが―――あのひとを、守ったのに。

        そう、守ったつもりだった。
        でも結局、わたしはあのひとの命は守れても、心は守れなかった。
        守るどころか、心に傷を負わせてしまった。長く長く、癒えない傷を。

        けれど、もうあのひとは苦しんでいない。
        あの雪の日からはじまった呪縛から、あのひとは既に解き放たれている。
        彼女が、あのひとの傷を癒してくれたから。心を、救ってくれたから。


        あのひとが生きていてくれて、よかった。
        あのひとの剣で、救われた命や守られた笑顔が、たくさんあるのだから。
        そしてきっと、新しく紡がれる、命も。



        それに―――




        「そろそろ、帰ろうか」




        青年が手を差し出し、妻の繊手をそっと握る。
        ―――それに、ずっと会いたかったひとに、再び逢うことができた。
        ずっと想っていたひとと、今は一緒にいることができる。ずっと待っていた手に、こうして包み込んでもらうことができるのだから。





        「はい、明良さん」







        優しい手を握り返しながら、巴は幸せそうに微笑んだ。













        迎え盆 了。









                                                                                     2015.09.06








        モドル。