どうも、妙な具合だな、と剣心は思った。
二日連続で訪れた巴の墓。
昨日入手できなかった白梅香を墓前に供えて手を合わせ、さて、と首を傾げる。
昨日は隣に薫がいたが、今日は今のところ、自分ひとりである。
★
京都にやって来て二日目。正午前の混み始める前の時間を狙って、剣心と薫、そして操は「白べこ」を訪れ、女ふたりはひとしきり冴とのお喋りに興じ、皆
で賑やかに牛鍋を囲んだ。
その後は水仙堂にむかい、入荷していた白梅香を買い求めた。操とはそこで別れ、剣心と薫はふたりで墓地へ行くはずだったのだが―――
「やだ、これ渡すの忘れちゃったわ」
水仙堂を出てから少しして、薫はしまったという風に袂を押さえた。中からひょいと取り出したのは、紙を細く丸めた筒である。
「何でござるか?」
「絵草紙新聞。こっちじゃ手に入らないからって、妙さんから預かってきたの」
冴は双子の姉妹である妙と同じく、津南の信奉者である。そんなわけで、薫は妙から「あの子にも読ませてやりたいから、白べこに行った際に届けてくれ
へんやろか」と頼まれていたのだ。
「では、帰りにもう一度寄るとしようか」
「ううん、そんなに遠くないし、わたしちょっと戻って渡してくるわ。だから、剣心先にお墓に行ってて」
「おろ?しかし、薫殿・・・・・・」
「道なら覚えているから大丈夫よ、向こうで落ち合いましょ。じゃあ、すぐに追いつくから!」
言い終わらないうちに、薫はすでに身を翻していた。
小走りで今来た道を戻る薫に、剣心は「いや、拙者も一緒に・・・・・・」と呼び掛けて小さな背中を追おうとしたが―――
「せっかくだから、水入らずで話してきたら?」
くるりとふりむいた薫に悪戯っぽい笑顔で言われ、剣心はきょとんとして足を止めた。
「水入らず」の相手が巴のことを言っているのだと気づくのに、僅かにだが時間を要した。
「いや、でも、薫殿・・・・・・」
その、僅かの間のうちに薫の背中は遠ざかり―――結局剣心は、ひとりで墓地にむかうことになったのだった。
★
薫としては、「気を利かせた」つもりなのだろう。
巴は剣心とかつて夫婦だった女性だ。現在の妻である自分が傍にいては、故人と語らいづらいところもあるのでは、と考えたのだろうが―――
しかし、この度故人に報告するのは、「おかげさまで、元気に平和に過ごしています」という事くらいで、それも既に、昨日訪れた際に報告している。
正直なところ薫が遠慮するようなことは何もないのだが、と。小さな墓石の前に立ちながら剣心はひとり苦笑した。
昨年のことを思い出す。
薫を失ったと思い込んで、壊れてしまった自分。
燕の声で再び剣を手にとって、そして深い眠りから目覚める直前、夢の中で巴の幻を見た。
今にして思うと、あの時の語らいが、彼女との本当の「別れ」だった。
幕末、巴はあまりに突然に自分の前から消えてしまった。彼女が胸に抱いていた本当の苦悩と悲嘆を知ったとき、巴は彼岸のひととなっていた。
謝罪も懺悔も、離別の言葉も、何ひとつ彼女に伝えることはできなかったから、延々と後悔ばかりを引きずってしまうこととなった。
けれど―――あの眠りの底での邂逅を経て、自分の中での巴の存在は完全に、「過去の思い出」へと昇華した。
「・・・・・・あなたが微笑えば、わたしも微笑う、か」
その言葉の意味は理解できるし、彼女の思いを汲み取ることはできる。
それにしても、一緒に暮らしているときも滅多に笑うことなどなかったくせに、と。少し可笑しくなって、剣心は口許を緩ませた。
だからこそ、稀に彼女が見せる微笑はとても貴重なものに感じて、どうしたらもっと笑ってくれるんだろうと、少年だった自分は必死に考えたものだった。
―――我ながら、変わったなと思う。
以前は、こんなに穏やかに巴のことを思い返すことはできなかった。
以前は、彼女の面影は自分にとって、罪と後悔の象徴だったから。彼女のことを思い出そうとすると、決まって最初に浮かぶ情景は、彼女を斬ったあの瞬
間だったから。
でも、今では。あの頃ふたりで暮らしていた様子を、自然に思い出せるようになった。
そしてあの頃のことを振り返って、「懐かしい」とすら思えるようになった。
勿論、俺が巴を殺めたことを忘れてはならない。それは、自分が犯した罪だから。
巴を失ったときの絶望を忘れてはならない。彼女が清里を失ったときにも、縁が巴を失ったときにも、同じ絶望を味わったのだから。
そして俺は他にも大勢の人々に同じ思いをさせてしまったのだから。愛するひとを失うという耐え難い哀しみを与えてきたことは、決して消えない事実なの
だから。
けれど、それだけではなくて。
俺は、彼女が「生きていた」ことも、覚えていなくてはいけないんだ。
例えば、後世に残る何かを成し遂げたり、次代へ命を繋ぐ子孫を残したり―――そうやって、ひとは生きてきた証をこの世に刻む。
けれど、それだけではなくて。誰かがそのひとの存在を思い出として心に遺すことが―――なによりの、「この世に生きた証」になるのだから。
彼女は、初めて好きになったひとを、心から愛したひとだった。失ったときに、心が壊れかけてしまうほどに。
弟から誰よりも慕われていて、彼女も彼を大切に慈しんでいた。謎めいた美しさと料理の腕とで、同志の皆からも好かれていた。
笑うのが苦手で、でも、ごく稀に見せる笑顔はきれいだった。
そして、あの頃人を斬りすぎて自分を見失いそうになっていた俺の、狂気を抑える鞘となってくれた。
そんなふうに―――彼女はあの混迷の時代を、生きていた。
きっと巴の存在は、彼女の人柄に触れた人々のなかにも、今も思い出となって残っている。
生き延びた同志や、村で出会った、今は大きく成長したであろう子供たち。そして―――この広い空の下のどこかにいる、縁のなかに。
そうやって人は他の誰かの記憶に残り、思い出という形で存在を遺すのだ。
―――もし、薫に出逢わなければ、薫と愛しあわなければ、こんな簡単なことにも俺は一生気づかないままだったのだろう。
薫に出逢い、恋をして結ばれて、夫婦になって。薫と日々を暮らして互いに慈しみあって、今の自分はそうやって、「幸せ」を実感しながら生きている。
寄り添ってともに人生を歩んでくれる薫に、限りない感謝の想いを抱きながら。
だからこそ、ようやく気づけた。ようやく思い出した。
これを―――この暖かなものを、かつて巴も、束の間だが与えてくれていたということを。
人斬りと呼ばれていた頃、巴と一緒になってはじめて、これが「幸せ」というものなのかと知ることができた。
その幸せはあっという間に、泡のように消えてしまったけれど。かりそめの、互いに傷を抱いてのものだったけれど。
それでも確かに―――あのときの俺は、あの瞬間をのことを、「幸せ」だと、感じていたんだ。
そのことを、思い出として忘れないでいよう。
罪の意識と懺悔の念だけではなく、あのころ幸せをくれたことへの感謝の想いも、胸に刻んでおこう。
彼女が生きた証として、俺の記憶のなかにある彼女の生きた人生を、ただ哀しいだけのものにしないために。
ふっと、目を閉じる。
今は、盆だから。亡きひとの魂が帰ってくるときだから。もしかして巴の存在を感じたりできるのかな、と思って。
しかし、欠片ほどもそういう感覚は降りてこず、まぁ当然だなと剣心は目を開けた。
以前、縁にも語ったが、あの幻を最後に巴の存在を感じることはない。それこそが正しく、そのことを寂しいとも残念とも思ったことはない。
薫を迎えにゆくよう言って笑った、あの笑顔。
あの笑顔を最後に、巴と自分は本当の意味での別れを、きちんとむかえることができたのだから。
「・・・・・・しかし、ずいぶんと遅いな」
すぐに追いつくと言っていた薫だが、なかなか墓地に姿を見せない。
冴とまた話しこんででもいるのだろうか。それなら良いのだが、まさかとは思うが途中で何か不慮の出来事でもあったのではないだろうか。
そう考えて、剣心は俄に落ち着きをなくす。これはきっと迎えに行ったほうがいいだろうそうしよう。いやしかし万が一行き違ってしまっても困るし―――
そのように、お得意の心配性が首をもたげた剣心がひとりそわそわと気を揉んで、墓石の前でおろおろと行ったり来たりして他の墓参客から奇異の目で
見られていた頃。
薫はずっしりと重い、野菜がたっぷり入った籠をふたつ抱えて歩きながら、「こんなはずじゃなかったんだけどなぁ」と呟いていた。
★
もう少し、歩く速度を速めたい。
だけど、両手に抱えた、重ねたふたつの籠が邪魔をする。
一度葵屋に戻ってこれらを置いてくるべきだっただろうか。
しかし、そうなると剣心を更に待たせることになってしまう。そうなると彼は、きっと心配する。
現在の状況は、白べこに届け物をした後、ちょっとした「不測の事態」が生じたからである。薫はその出来事を思い返しながら、自分のお節介な性分にた
め息をついていた。
「・・・・・・でも、義を見てせざるは勇無きなり、だわよねぇ」
歩きながら、ぼそりと独りごちる。八月の京の街の暑さに、襦袢の背中に汗が滲むのがわかる。
そんな中、すうっ、と。
一筋、ひんやりとした風が流れた、ような気がした。
おや、と思って足を止めるのと、前方に人が立っているのに気づくのは、ほぼ同時だった。
重ねた籠が邪魔をして視界を遮る。薫が首を動かして前を見ようとすると、若い男性の声がした。
「重そうですね、手伝いましょうか」
6 へ続く。