翌朝、薫が部屋に戻ると、剣心は既に身支度を整えていた。
「おはよう」
襖を半分も開けないうちに振り向いた剣心からそう言われて、薫は思わず頬をゆるめつつ「おはよう」を返した。
「昨夜は、楽しかったでござるか?」
「うん、予想はしていたけどつい話しこんじゃって、ちょっと寝不足かも・・・・・・じきにご飯だそうだから、支度させてね」
そう言って薫は鏡の前に膝をつく。操の部屋で着替えはしたものの、まだ髪は結っていなかった。
「そうでござるか、さぞかし盛り上がったのでござろうなぁ・・・・・・」
髪を梳いていると、鏡のはじに剣心の顔が映りこんだ。鏡越しにじとりと睨んでくる表情は明らかに「拗ねて」おり、薫は思わず口の端を上げる。
「・・・・・・寂しかった?」
少しばかり、笑いを含んだ声で訊いてみる。すると、鏡に映る剣心の姿がぐっとこちらに近づくのが見えた。
「寂しかった」
「きゃあぁっ!」
抱きつかれるくらいは予想していた。
しかし、後ろから回された手のうちの一本が、するっと着物の合わせ目に滑り込んでくるとは思っていなかったので―――驚いて、悲鳴があがる。
「や、やだっ!剣心、だ・・・・・・めっ・・・・・・!」
明るいうちから悪戯を仕掛けられるのはよくある事だが、今いる所は自宅ではなく葵屋で、当然操や蒼紫たちもいるわけで、薫は焦った。薄い夏着物と襦
袢の間に差し込まれた手がごそごそと動くのを感じて、身を捩って逃れようとする。
「あ・・・・・・っ!」
ぐい、と正面を向かされ、抱きしめられる。近づいた顔に思わず目を閉じると、唇が重ねられた。
有無を言わせない腕の力。でも、それ以上彼が悪さをする気配はないようだったので、薫はおとなしく身を任せる。
―――と、その時。ふいに甘い香りが鼻孔をくすぐった。
押しつけがましくない、上品な。けれど華やかに甘い、異国の花の香り。
ふわりと香ったそれは、薫が普段使っている香油とそっくりな香りだった。
香りが身じろぎをするのを感じて、剣心は腕の力を緩める。
「気づいたでござるか?」
「え?・・・・・・あ」
唇を離して楽しげに言った剣心の視線は、薫の胸元に注がれてた。はっとして、着物の袷に手を入れてみると、指先に小さな何がが当たった。
「これって・・・・・・」
先程剣心が胸に手を侵入させたのは、「これ」を忍ばせるためだったらしい。指に触れた紐らしきものを引っ張って、薫はその何かを袷から取り出す。
それは御守り袋によく似た形で、でもそうではなく。繊細なつまみ細工の花飾りがあしらわれた小さな袋からは、仄かに、薫にとっては親しい甘い香りが
漂っている。
「香り袋・・・・・・?」
呟いた薫に、剣心が頷く。
「昨日、水仙堂で見つけたんでござるよ。薫殿が使っている香油と、同じ香りでござろう?」
「え、昨日って、いつの間に?!」
口にしてから思い出す。そういえば昨日、剣心は「書付けを忘れたから取ってくる」と言って店に戻った。
そうか、あの時彼がひとりで戻ったのは、こっそりこれを買い求めるためで―――
「昨夜のうちに渡そうと思っていたのだが、薫殿、操殿に拐かされてしまったから」
殊更に恨みがましそうに声を低くする剣心に笑ってしまいそうになりながら、薫は改めて、手のひらに乗せた香り袋に目を落とす。
「可愛い・・・・・・」
「衿や袂に入れるといいそうだ。これを持っていれば、旅先でもその香りをまとっていられるでござろう?」
普段使っている香油は、荷物になるから旅先である京都には持って来ていない。その代わりに、と思ったらしい。薫はその可愛らしい香り袋を、そっと衿元
に挟んでみる。ふっと剣心が顔を近づけて、嬉しそうに目を細めた。
「・・・・・・やっぱり、薫殿にはこの香りが似合うでござるな」
薫は剣心の顔をじっと見つめて―――おもむろに腕をのばして、がばっと首に抱きついた。
「・・・・・・薫?」
「・・・・・・嬉しい・・・・・・」
その言葉に、剣心は「大げさでござるなぁ」と笑いながらも、自分のほうこそ嬉しそうに相好を崩して薫の身体を抱きしめ返した。
「ありがとう・・・・・・」
「どういたしまして、でござる」
「剣心」
「うん?」
「好き・・・・・・」
まだ結われていない黒髪に指を差し入れ、地肌を撫でながら、剣心は「拙者も」と答える。
「それも・・・・・・」
「うん」
「はじめて、ここで言われたんだったわ」
一年前、この部屋に泊まったとき、はじめて「好きだ」と剣心に告げられて―――
あの夜は、右腕を負傷していたから片腕でだったけれど。剣心は「この度こそは」というように、薫を抱く両の腕に力をこめると、まるであの時を再現するか
のように言った。
「好きだ・・・・・・」
少し、照れた色の混じった。でも、短い言葉に、あふれるくらいの想いをこめて。
―――どうしてだろう、あの夜を過ごしてから、もう何度もその言葉を貰っているのに。それなのに、今更ながら涙が溢れそうになってしまって、「こんなとこ
ろまで再現されなくてもいいのに」と、薫は自分の涙腺の脆さに困惑した。
「・・・・・・そろそろ、髪を結ったほうがいいでござるかな」
しばらくの間剣心の腕に身を委ねていた薫は、その言葉にまだ起きたばかりだったことを思い出す。
「そうよね、もうすぐ朝御飯だろうし・・・・・・じきに操ちゃんが呼びに来るでしょうしね」
「ごめん、もう来てたりして」
襖の向こうから聞こえた声に、薫は驚いてびくっと肩を震わせる。
慌てて剣心から身を離して襖に駆け寄ると、廊下には操の姿があった。
「・・・・・・み、操ちゃん・・・・・・いつからいたの・・・・・・?」
「残念ながら、たった今来たばかり。もうすぐご飯の用意ができるよって伝えにきたんだ」
薫はほっと安堵の息をつくと、「ありがとう」と礼を言う。
「すぐに髪を結うから、それから行くわね」
「うん、待ってるから一緒に食べようね。ところで薫さん」
「え?」
操は身を乗り出して薫の衿のあたりに顔を近づけ、そしてにっこりと笑顔になる。
「ほんとだ。似合ってるね、その香り」
薫はその一言に目を大きくして、そして「ありがとう」とはにかみながらもう一度言った。しかし、すぐに今のは先程の剣心の台詞を真似たものだということ
に気づく。と、いうことは―――
「やだっ!操ちゃん、やっぱりさっきから聞いて・・・・・・!」
薫が言い終える前に、操は「じゃあまた後で!」と襖を閉めて回れ右をする。襖の向こうからは薫の「もー!剣心気づいてたんでしょ?!言ってよー!」と
いう悲鳴のような声が聞こえた。どうやら矛先は彼の方に向けられたようだ。ちょっと申し訳ないような気もするが、まぁこれは緋村からのろけ代を貰ったこ
とにしておこう、と操は小さく舌を出す。
そして―――操は昨夜の薫との会話を思い出した。
★
「もし、わたしが剣心に殺されたとしたら」と。
巴の存在を知ったとき、薫がほんの少し考えてしまったという、甘くて暗い誘惑。
操は思わず息を飲んだが、次の瞬間。薫は操の顔をまっすぐ見つめながら、いつもの彼女らしい明るい声で言った。
「でも、ちょっと思っただけ。すぐに考え直したわ」
一瞬、瞳に宿った昏い翳りはすでに跡形もなくて。
明るい夜空を映したような澄んだ瞳には、いきいきとした輝きが宿っていた。
「だって、わたしは神谷薫だもの。わたしには、そんなの全然似合わないから」
きっぱりと、張りのある声でそう言い切る。
咄嗟に言葉を返せずにいる操に、薫は笑顔で続けた。
「だって、わたしはこのとおり、がさつで騒々しくて何かあったら口より先に手が出るほうで、弥彦に言わせると『凶暴な男女』だもの。こんな賑やかな娘が
死んで思い出になって心の中に居座るだなんて・・・・・・全然格好つかないでしょう?」
操はあっけにとられてぽかんと口を開け―――やがて、くつくつと笑った。
「あんまりな言い方だけど・・・・・・ごめん、それちょっとわかる。だってあたしも同じ系統だもん」
薫はすました顔で「でしょう?」と頷いてみせ、それがまた操の笑いを誘った。
「・・・・・・思い出になって彼の心に一生残るのは、わたしには似合わないわ。でも、そのかわり一生かけて、彼と一緒に思い出を沢山たくさん作ってゆきた
いの。きれいな思い出だけじゃないと思うけど、辛いこととか失敗しちゃうこととか、格好悪いこともいっぱい起きると思うけど・・・・・・」
仰向けに横たわった胸の上で、薫はそっと指を組み合わせる。
まるで敬虔な祈りを捧げるように。大切なひとへの、大切な誓いをたてるように。
「・・・・・・わたしには、そっちのほうが似合っていると思うの」
その声には、一片の迷いも感じられなかった。
息をするのを忘れたように、じっとこちらを見ている操の視線に気づいて、薫は照れくさそうに笑う。「今の話、剣心には内緒よ?」と、唇の上に人差し指を
立てた薫に、操は「勿論だよっ」と大きく頷いた。
「こんなの・・・・・・緋村には勿体無くて聞かせられないよ」
そう言って悪戯っぽく笑う操に、薫も同じ笑みを返す。
「でも、さっきのちょっと違わない?薫さん今は緋村薫でしょ」
「それはそうだけど、当時はそう思ったんだもん」
「そっかぁ・・・・・・ね、改めて聞くけど、名字が変わるってどんな感じ?」
身を乗り出してきた操に、薫は「そうねぇ・・・・・・」とくすぐったそうな笑顔になる。
それからふたりはそんなふうに、なんだかんだと他愛もない「女同士の話」で盛り上がり、結果としてしっかり夜更かしをしてしまった。
若干の寝不足でなんとなく目蓋が重いけれど、昨夜の薫の「似合っている」話と、たった今の剣心の「似合っている」贈り物のおかげで、廊下をゆく操の足
取りは軽い。
一生かけて、一緒に思い出をつくりたいと言った薫。時が経つにつれて、思い出はどんどん増えてゆくことだろう。
そして、近い将来「ふたり」の思い出は「家族」の思い出になって、彼らの心の中をあたたかな幸せで満たしてゆくのだろう。
―――あたしも、いつか蒼紫様とそうなれたらいいな。
操は心の中で呟いて、ひとり口許をほころばせた。
5 へ続く。