「・・・・・・薫さん、怒ってる?」
布団の上にうつぶせになって、胸に枕を抱え込むような姿勢で、操は隣の布団に横になる薫に尋ねた。
薫は操のほうに首を動かすと、怒っているどころかむしろ可笑しげに笑いながら「全然」と答えた。操は薫の返答に安堵して、口許をふわりと緩める。
「でも、剣心は怒っているというか、へそを曲げていると思うけれど」
「いいんだよ。だって、緋村は自業自得だもん」
そう言って、操は顔をしかめてみせた。
先程、剣心と薫の部屋に乗り込んできた操は、「今晩はあたしの部屋に泊まってよ!女同士で、たっぷりおしゃべりしよう?」と言って薫を拉致した。
当然剣心は苦情を申し立てたが、「だって、明日もまたお墓参りに行くんでしょ?そのぶんあたしが薫さんといる時間が減っちゃったんだから、一晩くらい
薫さんのこと借りてもいいじゃない」と反論され、それ以上何も言い返せなくなり―――そんなわけで、薫は一晩操と一緒に過ごすこととなったのだ。
「自業自得って・・・・・・別に剣心、悪いことしたわけじゃないのに」
「そりゃ確かにそうだけど、でも、こう・・・・・・なんかさぁ・・・・・・」
ぶつぶつ呟く操に、薫はまたくすりと笑った。そして「ね、明日のお昼は白べこに食べに行かない?」と持ちかける。
「冴さんに会いに行くの?」
「ええ、挨拶したいし、妙さんからのお届け物も預かってるの。だから、操ちゃんも一緒にどうかしら」
「行くーっ!」
操は寝転がったままぴしっと腕を手前にのばして、挙手の代わりとする。
「わたしと剣心は、その後水仙堂に寄って、それからお墓に行こうって話してたの。だから、お昼の後は操ちゃんと別行動になっちゃうんだけど・・・・・・」
薫の補足に、操は勢いよく突き出した腕を、ぱたんと布団の上に落とした。うつぶせの身体を反転させて、隣に横になっている薫の顔をじっと見る。
「・・・・・・薫さんは、凄いなぁ」
唐突な賛辞に、薫はきょとんとする。
「凄いって、何が?」
「あたしだったら・・・・・・そんなに優しくできないよ」
操は、腕に抱えた枕をぎゅっと抱きしめる。視線を薫から離さずに、言葉を続けた。
「これ、あたしの勝手な想像っていうか妄想なんだけど・・・・・・気を悪くしたらごめんね」
そう、前置いて、操は唇を動かす。
「もしも・・・・・・蒼紫様に、あたしと出逢う前に奥さんがいたとして、そのひとと一生忘れられないような形でさよならをしていて・・・・・・ある日突然その事を蒼
紫様から打ち明けられたとしたら、あたしは平気でいられるのかな、って。そんなふうに、思うことがあるの」
―――薫さんが、緋村からそうされたように。
口に出しては言わなかったけれど、薫には操のそんな心の呟きが聞こえたような気がした。
操は今もまさに「そんなことがあったらどうしよう」と想像しているらしく、枕を抱く手に力をこめて苦しそうな顔をしている。薫は優しく目を細めながら、「操ち
ゃんなら、それでも構わずに蒼紫さんを好きでいるんじゃないの?」と諭すように言った。
「うん、きっと構わず好きでいる。でも、それはそれで、やっぱりいろいろ考えちゃうと思う。そのひとのことを今でも好きなのかな、忘れられないのかなって
思って・・・・・・嫉妬とか、しちゃうと思う」
わかっている。彼のことが好きならば、彼の過去も思い出も全部一緒にだきしめて、そのまま愛してしまえばいいだけだ。
だって、その過去や思い出があるからこそ、自分の好きな今の彼が存在するのだから。
けれど、そうは判っていても、制御できない感情だってある。
自分と出逢う前の彼の心を手に入れることなど、できないと判っているのに。わかっていながら、彼が過去に愛したひとに嫉妬してしまうのを、止めること
はできない。その彼女が、彼の記憶に鮮烈な痕を残しているのなら、尚更だ。
「緋村はさ、頭もいいし人の気持ちもちゃんとわかる奴でしょ?だから薫さんがどんなふうに感じているかも判っている筈なのに、薫さんを連れてああいうお
店に巴さんの物を買いに行くのが、なんか、面白くなくて・・・・・・」
それで、こんなふうに薫を拉致するという「嫌がらせ」に及んでしまったわけだ。
敷布に頬をすり寄せながら「あたしって心が狭いのかなー」と眉根を寄せて言う操に、薫は口許の笑みを深くする。方法はどうあれ、操のとった行動は自
分を気遣ってのことだとわかっているから。
「・・・・・・操ちゃんは、優しいわね」
天井に視線を向けて、ゆっくりと息をつく。
ふたりで並んで横になりながら、こんなことが前にもあったな、と薫は思った。
「剣心がね、過去にあったことや巴さんのことを話してくれた日の晩・・・・・・恵さんと燕ちゃんが、わたしの部屋に泊まったの」
「そうなの?」
「うん、こんなふうに布団を並べてね、それこそ巴さんについて話したわ。主に恵さんと」
「それ、あたしも参加したかった」
薫はちらりと操のほうに視線を動かす。目を合わせて、ふたりは悪戯っぽく笑った。
「その時、わたし恵さんに言ったの。わたしが死んで剣心が苦しむのは嫌だから、わたしは絶対に死なない、って」
「それ、薫さんらしいね」
「後になって、剣心にも言ったわ。絶対に、あなたを置いて死んだりしない。何年先の未来も、ずっと一緒にいるって」
そう言ったのが、まさに葵屋でだった。一年前、ふたりで京都を訪れたその夜に、薫は剣心にそう約束した。
「・・・・・・緋村、嬉しかっただろうなぁ」
彼は、嫌というほど沢山「死」に向き合ってきた男だ。だからこそ、薫の力強い誓いが何より嬉しかったに違いない。
邪気のない顔でにこにこ笑う操に、薫は目を細め―――そして、静かに瞳を閉じた。
「操ちゃん、さっき『女同士語り合おう』って、言ってたわよね」
「うん、言ったよ?」
「じゃあ、これは女同士の秘密の話だから・・・・・・剣心にも誰にも言わないでいてね」
操は、身じろぎをして僅かに身を起こした。
薫らしからぬ、抑揚に乏しい感情のこもらない声。こういう場面での「秘密」という言葉は心を躍らせるものである筈だが―――今の薫の声の調子からは、
操はむしろ不安をかきたてられた。
「わたしは、剣心を置いて絶対に死んだりしない。今でもそう思っているし、それは間違いなく本心なの」
目を閉じたまま、薫は続ける。
落ち着いた、静かな声音で。
「でもね、剣心から巴さんの話を聞いたとき、そう思うのと同時に、ほんのちょっとだけ、こう思ったの」
はじめて、彼の口から、踏み込んだ過去の話を聞いて。
はじめて、彼が過去に愛したひとのことを、その女性との一生忘れられないような別離についてを知って。
様々な感情が整理しきれずせめぎあって、頭の中が飽和しそうに熱くなるなか―――異様なほど静かに、思ったことがある。
「もし、わたしが剣心に殺されたとしたら―――剣心はわたしのこと、一生想い続けてくれるのかな、って」
わたしが彼に殺されたら、きっとわたしの存在は、彼の心に大きな傷痕になって残る。
心に刻まれた深い傷は、きっと彼に一生疼く痛みを与える。
それは、ある意味とても甘美な誘惑。
だってそうすれば、彼はわたしのことをずっと忘れられないで、想い続けてくれる。
わたしはいとも簡単に―――彼の永遠になることができる。
目蓋が開かれ、薫の瞳が操の姿をとらえた。
操は魔法にかけられたように、深い黒い色の瞳から目を離せなくなる。
「ほんのちょっとだけ―――そう、思っちゃったのよ」
唇から紡がれたひんやりと温度のない声は、まるで別の誰かのそれのように、操の耳に響いた。
4 へ続く。