「まことに申し訳ありません、白梅香は只今品切れでございまして・・・・・・」
水仙堂にて、済まなそうに店主に謝られた剣心と薫は顔を見合わせた。
しかし、店主が「もう一日お待ちいただけましたら・・・・・・明日には入荷する予定なのですが」とつけ加えたため、ふたりは揃ってほっと息をつく。
「では、明日改めて伺うでござる」
「ありがとうございます、ご足労をおかけします。それでは恐れ入りますが、お名前を・・・・・・」
薫は店主と剣心のやりとりを聞きながら、店に出ている品物を眺めた。香水や香り袋のほか、かわいらしい櫛や簪、小さな根付などが並んでいる。操が褒
めていただけあって、趣味のよい魅力的な意匠の品ばかりだった。
「奥様は白梅香をご愛用かと思いますが、それ以外の香りもございますので、よかったらお試しになってくださいませ」
店主に声をかけられ、薫は「ありがとうございます」と笑って答えた。所望した白梅香は自分が使うものではないのだが、わざわざ訂正することでもないの
で何も言わないでおいた。
今は旅先だからつけてはいないが、薫も普段は花の香りの香油を髪に使っている。
それと同じ香りのものはあるのかしら―――と、色とりどりの商品を前に、薫はなんとなくそんな事を考えた。
剣心と薫はせっかくだからと燕や妙への土産も選び、明日まとめて取りに伺うと約束をして、水仙堂を出た。
「じゃあ、白梅香は明日まで待っていてもらうことにして・・・・・・行きましょうか、巴さんのところへ」
待っていて、の主語は巴なのだろう。夏の陽射しの下そう言った薫の笑顔に目を細め、剣心は頷いたが―――ふと、何か気づいたような顔になって懐に
手をやった。
「どうしたの?」
「あ、いや・・・・・・書付けを店に置いてきてしまったようだ。ちょっと、取ってくるから待っていてくれ」
「あら、それならわたしも一緒に・・・・・・」
「いや、すぐ済むことだから大丈夫でござるよ」
そう言って、剣心はひとりで店にとって返す。書付けとは翁に書いてもらった水仙堂の住所が記された紙のことだろう。店の場所は既に判ったのだから、も
うそれが無くても平気ではないだろうか―――と薫は思ったが、確かに店先に置きっぱなしでいるというのも失礼だろう。それもまた、剣心らしいな、と、薫
は柔らかく口の端を上げた。
剣心を待ちながら、目の前を流れてゆく人々の波を眺める。京都に来るのはこれで三回目だ。最初の滞在が長かったこともあり、この街の風景は薫の目
にはすっかり馴染んだものとなった。
きっと、剣心と出逢わなければ自分とは一生縁がなかった土地であろう。
大切なひとができると、その人にゆかりがある場所も自分にとって親しい場所になる。それは素敵なことだな、と。薫は改めてそんなことを考える。
「すまない、待たせてしまって・・・・・・」
そう言いながら戻ってきた良人に、薫は笑って首を横に振り、行きましょうと彼を促した。
★
「・・・・・・あら?」
その夜、風呂から部屋に戻った薫は呟いて首をかしげた。
今回、剣心と薫が貸してもらっているのは、昨年の秋に逗留したときと同じ二人部屋である。あの時は、まだふたりは夫婦ではなく、それどころかまだ互
いの気持ちをちゃんと言葉にして伝えあう前で―――だというのにいきなり同じ部屋をあてがわれ、これはいったいどういう事だろうとたいそう焦ったことを
鮮明に記憶している。
この度は、もう焦ることはない。
しかし、どちらかというと逆の理由で、薫の頭に疑問符が浮かぶ。
「どうかしたでござるか?」
「うん、えーと、お布団なんだけど・・・・・・」
一足早く風呂から上がった剣心は、既に布団の上に胡坐をかいてくつろいでいたのだが―――
「どうして、ひとつしかないのかしら?」
そう、部屋に敷かれた布団は、今剣心が居る一組のみ。
それが不思議で、薫は首をかしげたのだった。
剣心は、ふむ、と頷くと薫に向かって両手を差しのべる。つられて手を伸ばすと、剣心はおもむろにその細い腕を捕まえた。
「きゃあっ!」
ぐい、と引き寄せられ、抱きしめられる。ぴったり耳元に唇をくっつけて「一組あれば、充分でござろう?」と囁かれ、薫はあっという間に真っ赤になった。
「それは、そうかもしれないけれど・・・・・・」
ごにょごにょと不明瞭に返す薫の背中を撫でながら、剣心は緩く微笑んだ。
「思い出すでござるな」
「え?」
「一年前に泊まったのも、この部屋でござったから」
薫は、剣心の肩に預けていた顔を上げた。
近い距離で、目が合う。明るい色の瞳に、自分の姿が映っている。
「・・・・・・あの時は」
「うん」
「あの時の剣心は、面白かったわよね」
薫の、明らかにわざと「外した」返答に剣心はきょとんとして―――そして次の瞬間には、むうっと不機嫌そうに顔をしかめる。
「きゃーっ!」
ぼすっ、と。いきなり布団の上に押し倒されて組み敷かれ、薫は笑い声まじりの悲鳴をあげた。
「今蒸し返すんでござるか?!それを?!」
「きゃーっ!きゃーっ!ごめんなさいー!」
のしかかってきた剣心にあちこちくすぐられ、薫はやはり笑いながら謝った。
一年前、剣心は黒星に撃たれた傷のため右腕が使えなかった。そういう状態でふたり一部屋になったものだから、剣心は薫に手を出そうか出すまい
か悩んで迷って躊躇して―――かなりの挙動不審になってしまったのである。
その様子は端から見ると「面白い」以外の何物でもなかったが、あくまで真剣に悩んでいた剣心としては、薫の言葉は心外だった。
「あっ・・・・・・」
くい、と顎を掴まれ口づけられて、薫はじたばた暴れるのを止める。
目を閉じて、素直に剣心の唇を受けながら、改めて昨年の秋のことを思い返す。
一年前、結局剣心は「腕が治るまでは何もしない」と宣言をして。
でも、これは約束のしるしだから、と。
これから先の未来、ずっと一緒にいることを約束して、誓いのしるしだと言って唇を重ねた。
それは、初めてかわした口づけだった。
「・・・・・・思い出した?」
「忘れるわけ、ないじゃない・・・・・・」
剣心も、同じ事を考えていたらしい。少し顔を上げて、互いの鼻をくすぐるようにこすりあわせて、ふたりはくすくす笑いあう。
そして剣心は薫の袷を軽く引っ張って、華奢な首筋に顔を埋めた。
「ね・・・・・・剣心。やっぱり、変じゃない?」
「何が?」
「ほら、お布団だけならともかく、枕もひとつしかないって、どうして・・・・・・」
寝間着越しに、身体の線をなぞるように触れてくる剣心の指の動きを感じながら、薫は細く声を紡ぐ。彼女の疑問をもっともだと思いながら、しかし剣心は
はぐらかした。
「枕なら、腕を貸すでござるよ」
「そっ・・・・・・そういう問題じゃなくて・・・・・・!」
白い首を反らしながら発した当惑の声に、剣心は顔を上げた。
しかし、それは薫の訴えに反応したというよりは、この部屋に近づいてくる賑やかな足音に気づいたからで―――
「おっ邪魔しまーす!!!」
剣心が慌てて身体を離して薫を抱き起こすのと、襖が勢いよく開かれて操がそこから顔を出すのとは、ほぼ同時のタイミングだった。
「・・・・・・操殿、どうかしたのでござるか?」
何をしようとしていたのか気取られないよう、剣心はつとめて自然な感じを装いつつ訊いた。突然の闖入者はにっこり笑うと、素早く部屋へと滑り込む。
「いや、お布団が一組しかないから、困ってるんじゃないかなーと思って」
「あ、そ、そうなの。どうしてかしらって話していたところで・・・・・・」
出来る限りのさりげなさで乱れた胸元を直しながら、薫は操に言った。すると操は薫の腕をがしっと掴み、ぐいっと引っ張り布団から立ち上がらせる。
「薫さんのお布団なら、あたしの部屋に敷いてあるよ」
「え」
「今晩は、一緒に寝ようね!」
薫の腕を抱きかかえながら、にっこり笑顔で、操はのたまった。
3 へ続く。