長屋の戸の前に立った剣心は、なんとなく息を潜めるようにしながら、中の気配を窺った。
どうやら―――留守ではないようだ。
「お裾分けを届ける」という大義名分を思いついた剣心は、芋が煮えるなり此処まで足を運んだわけだが、いざ戸を開ける段になって逡巡する。
嫌な想像だが―――もし、万が一、この戸を開けて薫がいたとしたら。
その場合のダメージは、きっと相当大きい。
たっぷり三分ほど戸の前で立ち尽くした剣心は、すっと深く息を吸い込み、蛮勇をふるって戸を叩いた。
数拍おいて、中から「うーぃ」という唸っているのか返事をしているのか判別し難い声がした。
戸を開ける。と、部屋の中からむわっと酒臭い空気が溢れ出て、剣心は顔をしかめる。
結果として、左之助はひとりだった。
二日酔いなのだろうか、昼間だというのに部屋の中央に敷いた布団にうつ伏せになり、うんうん苦しそうに唸っている。
「んぁー・・・・・・嬢ちゃんかぁ? 悪ぃ、今日はとてもじゃねぇけど、無理・・・・・・」
剣心は無言でずかずか上がりこむと、畳の上に鉢を置いて左之助の髪をむんずと掴んで引っぱりあげた。
ぐい、と強制的に頭を持ち上げられて、左之助は背中を反り返らすようにして目の前の人物の顔を見た。絶不調を絵に描いたような顔色の左之助は、そ
そこにいるのが薫ではないことを知って、「・・・・・・なんだ、剣心かよ」と酒くさい息で言う。
剣心はぱっと手を離した。
薄い布団の上にごとんと音を立てて頭が落ちたが、小憎らしいことに左之助はたいして痛がる様子もなかった。
「昨夜はずいぶん飲んだようでござるな」
「おーう、今、賭場が開帳しててよ。昨夜は大勝ちだったもんだからさぁ、ぱーっと飲み代に使っちまって・・・・・・ちっと飲みすぎちまったなぁ」
左之助は緩慢な動作でふらふらと身を起こすと、布団の上に胡坐をかいてぼさぼさの頭をかきむしった。
「煮物を作りすぎてしまったので、持ってきたのだが」
「あー、ありがてぇけど・・・・・・今日はちょっとなぁ。何食ってもすぐに戻す自信がある」
「長屋の他の住人もいるでござろう」
「あ、それもそうだな。じゃあ頂くわ、ありがとな」
かくん、と首を前に折るような仕草で礼をして、そのまま再び布団に倒れこもうとする左之助の頭を、剣心はもう一度捕まえる。
「・・・・・・薫殿は?」
「・・・・・・は?」
「さっき、今日は無理とか何とか言ってたでござろう。拙者でよければ、言付けをするでござるよ」
昨日と似たような台詞を、しかし昨日より幾分強い語調で口にする。そんな剣心を左之助は焦点のあやしい目で見ていたが―――やはり昨日と同様
に、人の悪い顔でにやりと笑った。
「別に、言付けなんざねぇよ」
「しかし、左之・・・・・・」
「安心しろってぇ。俺はお前と違って嬢ちゃんにはこれっぽっちも惚れちゃいねーし、お前が心配してるような事はなんにもありゃしねーから」
剣心は、また手を離した。
左之助の頭がぐらりと傾いたが、おっとっとと言いながら自力で持ちこたえる。
「まー、剣術小町ってくらいだから、確かに嬢ちゃんは器量はいいけどよ。ちょっと活きが良すぎるっていうかクセがありすぎるっていうか? ああいう気の
強いのはどうも俺は女として見ることは出来ねえなぁ。つーかお前の趣味も変わって・・・・・・」
「惚れてなど、おらぬよ」
ぼそりと、呟くような音量だったが、話を断ち切った剣心の声には重い響きがあった。
それを左之助は「嘘つけぇ」と軽い調子で否定する。
「んだよ、まさか自覚がねぇとか言う気かぁ? 言っとくけど、傍から見ててもまるわかりだぜぇ」
「拙者は、流浪人でござるよ。いつかここを離れる身の男などに、もし、好かれたとしても・・・・・・薫殿が不幸なだけでござろう」
それは、左之助にというより、自分に言い聞かせるための言葉だった。
ずっと、あてもなく流れる暮らしだった。今はこの場所にとどまっているが、それがいつまで続くかはわからない。
薫のことを好きになってしまったとしても、いつか別れると判っていながら、彼女と想いを交わすことはできない。
ましてや―――自分は、多すぎる罪を背負っている身だというのに。
「・・・・・・面倒くせぇなぁ」
剣心の沈痛な声に耳を傾けていた左之助は、大きく息を吐き出しながらそう言った。
「なぁ、流浪人ってのはそんな不自由なもんなのかよ? 自由に流れて生きるから、流浪人っていうんだろ? だったら、居たいと思った場所ができたら、
そのままずっとそこに居る自由ってのもあるんじゃねーのか?」
不自由、という言葉に、剣心は横っ面をひっぱたかれたような気になった。
それは、何にもとらわれないで自由な身で人を助けるため流浪人になった自分には―――最も遠い言葉だと思っていたのに。
「そんな、簡単なものではござらんよ。拙者は明治になってからずっと根無し草で生きてきたのに、それを今更・・・・・・」
「俺は、喧嘩屋を辞めたぜ」
困惑する声を一刀のもとに斬って捨てられて、剣心ははっとした。
「流浪人だから、とか、そういうのは自分で決めた『枠』みてーなもんだろ? 俺の喧嘩屋も同じさ。自分で決めたもんは、自分で自由に変えられるもんだ
ろ。そこに他人から文句を言われる筋合いもありゃしねーしな」
言いながら、左之助はひとつ欠伸をする。その拍子に吐き気もこみ上げてきてしまい、慌てて口許を押さえた。
「・・・・・・うぇぇぇ、危なかったな今・・・・・・とにかく、生き方とか信条とかってよ、その時々で変わってゆくもんだろ。変えるだけの理由があればだけどよ」
惚れた女が出来たってのは理由としては充分だよなぁ、と左之助は付け加えた。
からかうような口調だったが、剣心は何も言い返すこともできず、ただ黙りこんでいた。
「・・・・・・前川道場」
「え?」
「行ってこいよ。なんか変な勘繰りしてたみてーだが、嬢ちゃんはちゃんとそっちに行ってるよ」
「いや、では、おぬしと薫殿はここ数日いったい何を・・・・・・」
「嬢ちゃんに聞けよ。俺は剣心には言うなって口止めされてるからよ。とにかく、そろそろ『用』も済む時間だろうし、迎えに行ってやんな」
剣心は返事をせずに、何か必死に考えているような様子でぎゅっと拳を握りしめていたが―――
やがて、くるりと左之助に背をむけた。
「左之」
「んー?」
「・・・・・・かたじけない」
そのまま、駆け出そうとした剣心を、しかし左之助は引き止めた。
「ちょっと待て、剣心」
「何でござる?」
「悪ぃ、水汲んできてくれ・・・・・・」
「・・・・・・」
無視してやろうかとも思ったが、たった今思いがけない「助言」をされた身としてはそれも薄情である。剣心は共用の井戸で水を汲んで左之助の長屋に
とって返し、湯呑になみなみと注いだ水を乱暴な手つきで布団の脇に置くと、ものも言わずに出て行った。
一刻も惜しいというような雰囲気を放つ背中を、左之助はにやにやしながら見送った。冷たい水を一息に飲み干し、人心地ついたように息を吐く。
剣心に「説教」をできる機会などなかなか無いであろうから、折角だからもっとずばずば意見をしてやりたかったが、いかんせん今日の体調は最悪なの
でほどほどで止めておいた。まぁ、説教をしたいというよりは「もっとからかいたかった」というのが正確なところではあるが―――
左之助は重い頭を持て余しつつもうひと眠りしようかと思ったが、剣心の持ってきた煮物の鉢が目に入り、まずはこれを長屋の誰かに引き取ってもらおう
と立ち上がる。
「―――しかし、俺ならもう少し料理の上手い女がいいけどな」
呟いて、左之助は危なっかしい足取りで戸を開けた。
5 に続く。