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        「午後から、前川道場に行ってくるから」



        明けて翌日、朝食の後片付けをしながら薫はそう言った。
        一昨日の出稽古から、これで三日連続である。何の用があるのか、剣心はやっぱり聞けなかったし、聞くのが怖いような気もしていた。
        はぐらかされるのはともかく、もしも彼女に嘘でもつかれたら、きっと自分は精神的にかなりの痛手を負うだろうから。

        「では、夕飯は拙者が支度するでござるよ」
        一緒に片付けをしながらそう返すと、薫は「なんか連日でごめんね、ありがとう」と首をすくめるようにして礼を言った。


        痛手を負う、か。
        剣心は自分の内心の呟きに苦笑した。

        旅暮らしのこの十余年、他人から物理的な攻撃を受けて傷を負いそうになったことは度々あった。それを怖いとも思わなかったし、危害を加えようとして
        くる相手は速やかに撃退してきた。
        しかし今、なんの害意も持っていないひとりの少女の行動や発言を「怖い」と思っている自分が、我ながら滑稽だった。


        「・・・・・・おろ? 薫殿、何をしているのでござるか?」
        後片付けを終えた剣心は、薫がそのまま台所の棚をごそごそ探っているのを見て、首を傾げた。
        「探し物でござるか」
        「んー、ちょっとねー・・・・・・あれ、どこに仕舞ったっけなぁ・・・・・・」
        「手伝うでござるよ、何でござるか?」
        「あ、ううん大丈夫。たぶんここじゃなくて、別の部屋だったと思うわ」

        薫はそう言って、前掛けを外して台所を素早く後にする。この探し物も「知られたくない」事なのかな、などと思った自分に、剣心はまた苦笑するしかなか
        った。いったいいつから―――俺はこんな僻み性になってしまったのか。


        胸の奥でくすぶっている嫉妬心。
        一旦気づいてしまうと、それは雪玉が転がっていくうちにどんどん大きくなってゆくように、際限なく膨らんでしまうものらしい。


        剣心はため息をつくと、のろのろと襷をはずし、なんとなく薫の姿を追った。
        探し物は見つかっただろうか、などと思いながら襖を開くと―――妙に高い位置で薫の黒髪が揺らめくのが見えた。
        一瞬、彼女が何をしているのか判らなかったが、すぐに剣心は、薫が踏み台に乗って押入れの上の天袋を覗いていることを理解する。危なっかしい姿勢
        にぎょっとしたが、案の定、天袋の奥へと腕を伸ばした薫は、うっかり重心を崩し前のめりになった。

        「きゃ・・・・・・!」
        バランスを保とうとして、背中を反らしたのがいけなかった。ぐらりと足元で踏み台が揺れ、薫の身体が後ろへ大きく傾く。
        そのまま、仰向けに畳の上に落下しそうになったところに、剣心は勢いよく飛びこんだ。
        しかし、支えきれずに、受けとめた薫の下敷きになるような格好で―――重い音をたてて畳に倒れこむ。
        ふたりの身体と一緒に、天袋の中からこぼれ落ちた重箱や客用の椀などが、ばらばらとその場に散らばった。


        「きゃあっ!! う・・・・・・うそっ! ごめん、剣心っ、大丈夫?!」


        剣心の上に落ちた薫は、身体をひねって彼の顔をのぞきこむ。畳に仰向けになった剣心は、目を閉じたまま、身動きもしない。
        「や、やだ剣心! 嘘でしょ?! ね、しっかりして! 目、あけて!」
        薫は剣心に覆いかぶさりながら、必死に彼の名を呼んだ。けれども、彼の目は閉じられたままである。

        呼び声に反応しない剣心に、薫は形のよい眉を歪ませた。
        どうしよう、倒れた拍子にどこか変なところをぶつけたのかしら。
        恵さんか、小国先生を連れてこないと―――

        薫はおろおろとそんな事を考えていたが、不意に、両腕をきゅっと下から掴まれたのを感じて「え?」とまばたきをする。と、目を閉じたまま倒れている剣
        心の口許が、笑いをこらえるように震えているのに気づいた。


        「・・・・・・剣、心?」
        おそるおそる呼ぶと、ぷは、と大きくひとつ息をついてから、剣心の目が開かれた。
        「・・・・・・大丈夫でござるよ」
        のほほんと笑みを浮かべながら答える声はいつもの調子とまったく変わりがなくて、その顔と声からは本当に「大丈夫」なことが感じとれた。今度は薫
        が大きく安堵の息をつく。

        「もうー! 趣味の悪い冗談はやめてよ! どこか怪我したのかと思ったじゃないのぉ・・・・・・」
        「あはは、すまない。でも、薫殿こそあんまり危ない真似をしてはいかんでござるよ。まだ拙者のほうが薫殿より大きいのだから、手くらいいくらでも貸す
        でござるよ」
        「うん・・・・・・そうよね、ごめんなさい」
        薫は素直に謝罪の言葉を口にしてうなだれる。それにしても、ひとまず剣心が無事でよかったと思い―――それから、未だに両腕を掴まれたままである
        ことに気づいた。それどころか、自分は今、倒れた剣心に重なるように覆いかぶさっていて、身体を密着させた体勢でいる。
        着物の袖越しに剣心の指の感触が伝わってきて、薫は今更ながらに赤面した。自分が下敷きにした手前ふりはらうようなことも出来ず、薫は戸惑いを
        乗せた眼差しで剣心を見下ろす。


        「・・・・・ね、剣心」
        頬を染めながら、薫はおずおずと唇を動かした。
        「あの・・・・・・退くから、手、離して?」

        気のせいだろうか、離すどころかその反対に、きゅ、と剣心の指に力がこめられたように感じて、薫はぴくりと肩を震わせた。
        仰向けのままの剣心は、じっと薫を見上げている。


        「・・・・・・嫌だ」


        それは、口の中で呟いた、ごく小さな声だった。
        ちゃんと聞き取れなかった薫は、困ったような顔で「え?」と聞き返す。
        無言の視線が絡み合う。だが、それは束の間のことだった。
        剣心はふっと表情をゆるめると、ぱっと薫の腕から両手を離した。

        「薫殿も、どこも痛くしていないでござるか?」
        「うん、大丈夫」
        言いながら薫は、身を起こす。自由になった手で赤く染まった頬を隠すようにしてそそくさと腰を浮かし、そして散らかった椀やら何やらを拾い集めようと
        する。
        「上に仕舞うでござるか?」
        「あ、うん、お椀と茶托はしまっちゃうわ」
        よいしょと起き上がった剣心は、膝で歩いて片付けるのを手伝い始める。
        「ずいぶん沢山あるでござるなぁ・・・・・・全部来客用でござるか?」
        「うん、父さんがいたころは門下生が大勢いたから、お客様も多かったの。また、いつかそんなふうになるといいんだけれど」
        椀類を集めて重ねながら、剣心は「後は拙者が戻しておくでござるよ」と言った。薫は剣心の申し出を「ありがとう」と受けて、入り用だったらしい重箱を
        抱えて部屋を後にしようとし―――廊下に出る手前で小さく振り向いた。



        「あと・・・・・・助けてくれて、ありがとうね」



        照れくさそうに微笑む顔は、とても可愛かった。






        ★






        ・・・・・・そうだ、無様に倒れこんだのはわざとだ。



        薫ひとりくらい、受け止めて支えることは別に難しくなかった。
        あんなふうに倒れたりしたら、薫が心配するであろうことを承知で。いや、彼女に心配されたくて、咄嗟にあんな真似をしたともいえる。


        そして、薫には申し訳ないが―――あの瞳が迷わずにまっすぐ自分に向けられるのは、心地よいと、改めてそう思った。


        慣れない距離と、掴まれた腕に、戸惑いを隠さなかった薫。
        けれど、その瞳に嫌悪の色はなかった。それを確認できて、凄く安心した。
        恥じらいに、みるみるうちに頬が桜色に染まってゆく様子が初々しくて、このままずっとこうしていたいと思った。

        「・・・・・・どうも、いかんなぁ」
        里芋の皮を剥きながら、ひとりごちる。
        あの後薫は、朝に言ったとおり前川道場に出かけていって、まだ戻ってきていない。
        剣心は夕食の下ごしらえに手を動かしながらも、頭は別なことを考えていた。主に今朝のことや、薫のことや左之助のことである。

        自分が、薫を好もしく思っていることは、さすがに自覚していた。
        けれども、ここまでとは―――こんな不毛な嫉妬に懊悩する程、彼女に心が傾いていることには、自分自身気づいていなかった。


        里芋に包丁を入れる。   
        焦茶色の皮を剥いて、手元の笊に入れる。

        この家にいてほしいと、彼女から言ってくれた。
        それを、嬉しいと思った。そんなふうに感じたことは今までなかった。

        彼女は、自分のことを憎からず想ってくれているのだろうと思っていた。
        いや、自惚れかもしれないが、少なくとも嫌いな人間をあんなふうに引き止めたりはしないだろうし―――ましてや、薫は自分が人斬り抜刀斎ということ
        を知りながらも引き止めてくれたのだし。


        次の里芋に手をのばす。  
        同様に包丁を入れる。

        彼女の―――薫の心は、本当はどこにあるのだろうか。
        先日から、薫と左之助は自分から隠れるようにして、何をしているのだろうか。
        まさかとは思うが、薫は前川道場に用があると言っていたが、ひょっとしてそれは口実で、ふたりで逢引きでもしているのでは―――



        「・・・・・・何やってんだ? 剣心」



        顔を上げると、すぐ目の前に弥彦が立っていた。
        今日は赤べこに手伝いに行っていたはずだが、いつの間にか帰ってきていたらしい。

        「おろ、弥彦、早かったでござるな」
        「ああ、今日はあんまり客の入りが良くなくて、もう上がっていいって言われたんだけど・・・・・・なんだ、うちには誰か客でも来るのか?」
        「いや? 別にそんな予定はないはずでござるが」
        「え? でも、これって・・・・・・」
        困惑したような弥彦の視線を追った剣心は、絶句する。


        そこには、皮剥きが終わった里芋の山があった。
        それは、煮物にして三人で食べるとしたら―――普段の四、五倍はありそうな量だ。


        「いや、しまった・・・・・・ちょっと考え事をしながらやっていたものだから・・・・・・」
        「こりゃ、明日の夕飯の分までありそうだなぁ」
        弥彦は呆れながらも、よくぞここまで真剣に「考え事」をしていたものだと、半ば感心する。
        「同じ献立が続くのは構わねーけど、でも、こんなにあるなら少し何処かに分けてもいいんじゃねーか?」
        「そうでござるな、ご近所にでもお裾分けをして・・・・・・」


        そこまで言って、何か思いついたかのように急に言葉を止めた剣心の顔を、弥彦は不思議そうにのぞきこんだ。






        ★






        それから、約一時間半後。



        剣心は里芋の煮物を盛った鉢を手に、左之助の住む破落戸長屋の戸の前に立っていた。












        4 へ続く。