「邪魔するぜー! 誰かいねぇかー?」
あくる日は、久々の曇り空だった。
雨の降り出しそうな気配はなかったが、空全体が灰色がかった雲に覆われ、陽の光は遮られている。昨日とはうって変わって、どこか寒々とした日和
だった。
玄関のほうから聞こえた訪う声に、剣心は「こっちでござるよ」と作業の手を止めずに答えた。別に無精をしたつもりはなく、今は井戸端で牛蒡の泥を落
としている真っ最中なのだ。それに、やって来たのは気安い間柄の人間である。
「よ、剣心。嬢ちゃんは?」
開口一番、この質問である。
剣心は井戸端にしゃがみこんだまま、直接庭の方に回ってきた左之助を見上げた。
「出かけているでござるよ、前川道場に」
出稽古は昨日だったが、何やら今日も「ちょっと用があって」と言って、時計の針が午後を回るなり出かけてしまった。「ちょっと」が何の用なのか、薫は
話さなかった。
「あー、行き違っちまったかぁ・・・・・・判った、じゃあまたな」
左之助は簡潔に言うと踵を返す。彼がここに来るときはかなりの率で「腹が減ったから何か食わせろ」と言ってずかずか上がりこむものなのだが、今日
は薫に会う事だけが目的で訪ねて来たらしい。彼女の不在を知ってそのまま帰ろうとする背中に、しかし剣心は声をかけて呼び止めた。
「言付けがあるなら、拙者から伝えておくでござるよ」
左之助は、少しの間を置いて振り向いた。
そして、表情を確認するかのように剣心の顔を眺めてから、なにやら人の悪い笑みを浮かべて首を横に振る。
「いや、別にたいした用事じゃねーから」
そう言って、左之助は今度こそ道場を後にした。
★
「・・・・・・たいした用でないなら、言付けで足りるだろうに」
つい、口に出して呟いてしまい、剣心ははっとした。
手元の鍋では、卯の花がいい頃合になっている。先程左之助が訪ねてきたとき洗っていた牛蒡は、細かい笹掻きになって刻んだ葱と一緒に卯の花の
具となった。
夕飯の下ごしらえを始めてから支度があらかた終わる今の今まで、「左之助は何の用があって薫殿を訪ねてきたのか」ということを、剣心は繰り返し頭
の中で反芻している。正確に言うと、それ以外に「薫殿は何の用で今日も前川道場に行ったのだろうか」という事もぐるぐる考えているものだから、つい
手元が留守になって何度か包丁で指を切りかけた。
どうにも、いろいろ気になって料理に身が入らない。
逆にいうと、それだけ薫と左之助のことが気になっている、という事である。
気になっているものだから―――鍋の底を箸でかきまわしていた剣心は、表で人の気配がするのをいつも以上に敏く感じとった。
剣心は鍋を竈からおろすと、庭の方から、外の―――塀の向こうの様子をうかがう。
予想どおり、聞こえてきた声は薫と左之助のものだった。
「うちには来ないでって言ったじゃない! わたしのほうから行くって約束だったでしょ?!」
まず耳に入ったのは、前川道場から戻ったらしい薫の声だった。音量を抑えながらも、それでも尖った声を出すことで彼女が抗議の意をあらわにしようと
しているのが、剣心にもわかった。
「んだよ、なかなか来ねーからこっちから出向いてきたんだろうが・・・・・・細けぇことはいいじゃねーか、だいたい『お願い』してきたのはそっちだぜ?」
左之助の声も、道場の中まで聞こえないように配慮しているらしく、平素よりずっと小さい。薫はその左之助の弁にぐっとつまって、「それは、わざわざ足
を運んでくれたのはありがたいけれど」と、小さい声をより小さくする。
「・・・・・・でも、剣心には何も言ってないでしょうね?」
唐突に、自分の名前が出て剣心はどきりとする。
「そりゃ勿論。ま、俺は別に剣心にバレてもなんてことねーんだけどよ」
「それは駄目っ! わたしが嫌なのっ!」
つい、声を高くしてしまい、薫は慌てたように次に続ける台詞の音量を内緒話のレベルにまで落とす。そこから先は何を話しているのか、塀越しに聞き
取ることはできなかった。と、いうか後に続いた彼等のやりとりはほんの数語のみで、「じゃあな」と左之助が暇を告げるのが剣心の耳にも届いた。
玄関に向かう薫の足音を聞いて、剣心は慌てて台所へと走った。
「ただいま剣心! いい匂いねー」
帰宅した薫が、ひょい、と台所に顔を出した。前川道場に行った「用」が何なのかはわからないが、稽古ではない証拠に彼女は普段着である。当然、着
替える必要もないので帰ってくるなり剣心の姿を探して、薫は台所に直行してきた。
「お夕飯、何作ってたの?」
「おから、煮てみたでござるよ」
「卯の花ね。わぁ、美味しそう!」
手元を覗きこんできた薫に、剣心は鍋の蓋を開けてみせる。できたての卯の花からほわんと湯気がたって、薫は目を細めた。
「ね、つまみ食いしてもいい?」
首をかしげて聞いてくる仕草が可愛らしくて、剣心はつい頬をゆるめた。「熱いから気をつけて」と箸を渡すと、一口つまんで「美味しい!」と子供のような
感嘆の声をあげる。
「剣心ってこんなのも作れちゃうんだ・・・・・・凄いなぁ」
「別に凄くないでござるよ。豆腐を買いに行ったら、店の主人が作り方を教えてくれたから試してみたんでござる」
「それで美味しく作れちゃうんだから凄いのよ。やっぱりこういうのって才能なのかなぁ」
薫は、難しい顔で鍋の中を睨む。
そんな薫を剣心はもの問いげな目で見つめていたが―――
「・・・・・・なに? 剣心、どうかしたの?」
視線に気づいた薫に、先に尋ねられる。
左之助との用事とは一体なんだったのかを訊きたかったのだが、口をついて出たのはまったく別の言葉だった。
「味噌汁に、大根の葉入れてもいいでござるか?」
「お豆腐の味噌汁に散らすの? 勿論よー」
そっちも美味しそうねぇと続ける薫の笑顔を見ながら、剣心はやっぱり追及するのはやめておこうと思った。
だって、既に昨日一回はぐらかされているし。
さっき盗み聞いたところによると「剣心には知られたくない」事だそうだし。
まぁ、そう言われると更に気になるし左之助のあの意味ありげな笑みは非常に面白くないのだが―――
「・・・・・・おろ?」
そこまで考えたところで、剣心は無意識に呟きをもらした。
その声に、薫は不思議そうな顔でこちらを見たが、つとめて何気ないふりを装って「なんでもないでござるよ」と笑ってみせる。しかし、内心では大いに動
揺していた。
しまった。
なんだこれは。
こんな感情が生まれるのはあまりに久しぶりだったので、自分でもすぐにそれとは気がつかなかった。
昨日から続いている、もやもやした、落ち着かないこの感じ。
じりじりと苛つく、いらいらと面白くない、不快感。
胸の奥で焦げつくように疼いているこれは―――間違いなく、「嫉妬」だ。
こうして剣心は、自身の中に生まれている感情の正体を、かなり遅まきながら自覚した。
3 へ続く。