「・・・・・・ねぇ、お願い」
この界隈ではよく知られた、背中に「悪」の一文字が染め抜かれた白い羽織。
その裾を指でぎゅっと掴みながら、薫は声を振り絞るようにして訴えた。
「左之助じゃなきゃ・・・・・・だめなの」
見上げてくる瞳は思いがけず真剣で、左之助はいつもの調子で茶化すことができなかった。
力のこもった指には、首を縦に振るまでは決して離さないという意志が感じられる。
たっぷりの間をおいた後、左之助は根負けしたようにひとつため息をついた。
「しゃーねーなぁ、判ったよ」
いかにも気が乗らなさそうな返事ではあったが、それでも承諾を得ることができて、薫はぱっと勢いよく顔を上げた。
嬉しさを隠さずに「ありがとう!」と礼を言った直後、薫はふっと不安げに眉を曇らせる。そして、躊躇いながらもうひとつ「お願い」を口にした。
「・・・・・・剣心には、絶対に言わないでね」
召しませジェラシー
1
ここ数日、東京の街にはあたたかな春の陽がふりこぼれ、気温は一気に高くなった。
川の水はぬるみ、家々の庭木には柔らかな緑が芽吹き始め、こうなると八百屋の店先も冬の頃とは様変わりをする。寒い時期にはお目にかかれなか
った青々とした葉物の野菜も並びはじめ、品揃えは急速に充実してくる。
その日、見た目にも瑞々しい菜花を買い求めた剣心が道場に戻ると、ほぼ同時に、弥彦も出稽古から帰ってきて門をくぐるところだった。
「おろ、今帰りでござるか」
「おう、ただいまー。今日の夕飯何だ?」
弥彦は目をいきいきと輝かせて、剣心が抱えた笊を覗きこんだ。育ちざかり食べざかりの弥彦にとっては、毎日の食事は楽しみであり、重要事なのであ
る。
「菜花が出ていたから、煮びたしにでもしようかと。あと、鯵の干物のいいのがあったでござるよ」
「剣心が焼いてくれよな、薫にやらせたらどうせ黒焦げにしちまうんだろうから」
「ところで弥彦、その薫殿は?」
薫の名前が出たところで、剣心は先程から抱いていた疑問を口にした。
出稽古には当然薫も一緒だったのに、今、弥彦はひとりである。何かの理由で、帰りは別々だったのだろうか。
「さっきまで一緒だったんだけど、そこで偶然左之助に会ってさ」
「左之に?」
「ああ、そうしたら薫の奴、なんか左之助に話があるとか言い出して・・・・・・だから俺は先に帰ってきたんだ」
「話、でござるか」
「何の話かは知らねーよ。なんか、あんまり聞かれたくないような雰囲気だったしな」
一時期、良くない大人に囲まれて過ごしていた弥彦は、時折こうやって子供らしからぬ空気の読み方をする。今の台詞も、剣心の語尾が明らかに疑問
形だったため先手を打って答えたようなものだった。
「そうでござるか、何でござろうなぁ」
剣心の声音は平素と変わらないのんびりとしたものだったが、弥彦はそんな剣心をどこか「面白がる」ような顔でじろじろと眺めた。
「・・・・・・どうかしたでござるか?」
「いーや別にー? じゃあ俺、着替えてくらぁ」
もう少ししたら鰹とか食べたいよなぁ、などと呟きながら自室へ向かう弥彦の背中を見送り、剣心も夕飯の食材の入った笊を抱えて台所に向かった。
そして襷をかけて、「さて」というふうに支度にとりかかろうとしたのだが―――
「・・・・・・おろ?」
これは、なんだろう。
なんだか、胸のあたりがもやもやと気持ち悪くて、どうにも落ち着かない。
目の前の食材に手をつけようとしたのだが、どういう訳か気が散って手がのばせない。これは―――どうしたことだろう。
―――それから、暫くして。
胴着から着替えた弥彦は、足音を忍ばせながら台所の様子を窺った。
剣心の背中が見えたが、夕飯の支度をしている気配はない。腕を組んだまま少し下を向いて、固まってしまったかのようにただ立っている。
・・・・・・ひょっとして、あの後台所に入ってからずっとああしているのだろうか。
と、その時。玄関のほうから「ただいま」の声が聞こえた。
剣心は金縛りが解けたようにぱっと顔を上げ、機敏な動作で回れ右をすると弥彦の横を素通りして玄関へと向かった。
剣心は普段、思っている事を、あんまり顔には出さない。
しかし、行動を見る限りでは案外判りやすい奴なんだな―――と、弥彦は思った。
「あ、剣心ただいまー!」
出迎えるようにやって来た剣心の姿を見て、薫は改めてそう言った。
自分に向けてくる笑顔は、いつもどおりの表情だった。
「左之は? 一緒ではなかったのでござるか?」
まだ、彼女とは付き合いがそう長いとも言えないが、それでも隠し事が下手な素直な性質ということはわかっている。だから、出し抜けに訊いたのは奇
襲をかけたつもりだった。案の定、薫の目が驚いたように見開かれる。
「・・・・・・あ、弥彦から聞いたの? うん、左之助とはそこで別れたわ。別にたいした用事でもなかったから立ち話で済んじゃったの」
上手く隠し立てが出来ないのは自分でも承知の上なのか、薫は無駄な文言は使わずに話をそこで打ち切った。まるで、それ以上剣心が追及するのを
阻むかのように。そして「今日はあったかいから汗かいちゃった、着替えてこなきゃ」と、剣心に背を向けて小走りに自室へ向かった。
残された剣心は、なんだか「逃げられた」ように感じて―――しばらくその場に立ち尽くしていた。
2 へ続く。