めぐる  (実写映画設定)










        朝、目を覚ますと薫が隣にいなかった。




        彼女のほうが早く起き出すことは別に珍しいことではない。しかし、それにしてもずいぶん早起きだなと思い、首を傾げる。
        布団を抜け出すと、肌に触れる空気は思いのほか冷たくて、剣心は寝間着の袷をかき合わせる。秋も深まって日に日に気温は低くなってきているが、今
        朝は殊に冷え込んだようだ。

        「薫殿?」
        小さく声に出して呼びながら、彼女を探して廊下を歩く。裸足に触れる床が冷たくて、自然と足取りは速くなる。
        ふと、気配を感じて、縁側を覗いてみた。
        ほっそりとした背中を其処に見つけて、剣心はほっと息をつく。
        「・・・・・・薫?」
        そっと呼びかけると、薫はふりむいて「おはよう」と笑った。手招きをされて、剣心は彼女の隣に腰をおろす。
        どうして、こんな時間にこんな場所にいるのか。その訳は薫を見つけたのと同時に理解できていた。何故なら―――



        「凄い霧でござるなぁ・・・・・・」



        縁側から臨む景色は、平素とまったく異なるものになっていた。
        道場を、いや、おそらくは街全体をすっぽりと覆いつくした深い霧。
        細かな水の粒子からなる真っ白い厚い幕は、すぐ近くにある庭木の輪郭さえも曖昧なものにしてしまっている。

        「なんだか今日は早く目が覚めちゃって、お水を飲もうと思って起きたんだけれど・・・・・・そうしたらこの霧で、びっくりしちゃった」
        「寒くないでござるか?」
        言いながら、剣心は並んで座る薫の肩を抱く。温かな体温にくるまれて、薫は「たった今、あったかくなったわ」とくすぐったそうに微笑んだ。
        「よかった、剣心が起きてくれて。これをひとりで見るのは勿体ないなぁって思っていたの」
        「ああ、確かに」


        ふたりが会話を交わしている間にも、昇りくる陽の光を受けて、だんだんと霧が晴れてゆく。
        たゆたう白い霧のなかに、ぼんやりと透けて見えていた赤い色彩―――庭の紅葉の赤が、霧が薄くなるにつれ次第に鮮やかに浮かび上がってくる。

        まといつく朝霧に濡れた紅葉の葉の、一枚一枚に朝日が降りて、尖った葉の先できらきらと光の粒が輝く。
        幻のような白い紗の中から、姿をあらわにする世界。霧が晴れて、そこから新たに生まれてくる朝の光景。
        ふたりはしばし、身を寄せ合って神秘的とも呼べるその情景を見つめていた。


        「綺麗でござるな」
        「うん、綺麗ね」
        あたたかな陽光を頬に感じながら、囁くようにそう言い合う。
        「ねぇ」
        「うん?」
        「今年は、どの葉がいちばん美しい?」

        その台詞に、剣心は思わず薫の顔を覗きこむ。寄り添いながら悪戯っぽく笑う彼女に、つられて剣心も目許を緩めた。



        「もう、一年経つんでござるなぁ」
        しみじみとした口調でそう言うと、剣心は薫の肩にまわした腕をぐいっと自分のほうへと引き寄せる。
        おもむろに抱きしめられて、薫は「きゃあ!」と笑い声の混じった悲鳴をあげた。








        ★







        今から一年前、道場の庭の紅葉が綺麗に色づいた季節に、剣心は薫に求婚した。






        「ともに・・・・・・見守ってはくださらぬか?」



        何の、前触れもなく。突然かしこまった口調で言われたものだから、びっくりした。
        いや、だいたい場所だって縁側から出てすぐの庭先だったし目と鼻の先では弥彦や他の門下生たちが稽古をしていたし、そういった意味でも何もかもが
        突然だった。

        薫は、彼から手渡された紅葉の葉を手にして、「・・・・・・え?」と驚いた顔で聞き返した。すると剣心は、少し照れた色を滲ませて、でも、これまで薫が目に
        してきたなかで一番優しい表情で微笑んだ。
        「一緒に・・・・・・生きてゆこう、って、こと・・・・・・?」
        薫の問いに、剣心はゆっくりと頷く。それでも、まだその言葉の意味が信じられなくて、薫はさまざまな感情が入り混じって混乱しそうになりながらも、もう
        一度尋ねた。
        「わたしを・・・・・・お嫁さんに、してくれるの・・・・・・?」
        繰り返し訊いてくることに不安を覚えたのか、剣心は薫の瞳からじっと目を離さないまま、再び頷いてみせる。
        「・・・・・・返事は?」


        促されて、薫は数歩後ずさった。
        そして、そのままかくんと崩れるように、縁側に腰を落とした。
        とてもじゃないが、まともに立っている事などできなかった。だって、こんなの嬉しすぎて夢みたいで―――気絶してしまいそうだった。

        剣心は縁側に歩み寄ると、薫の傍らにひざまずく。
        紅葉の乗った小さな手をそっと取って、両手で包みこみながら彼女の顔を見上げた。
        「薫殿、返事は・・・・・・?」
        なかなか答えを貰えないことに、剣心の顔と声にはいよいよ不安の色があらわになっていた。そんなの、返事なんて勿論決まっているのに―――と。ほ
        んの少し可笑しくなって、薫は思わず唇をほころばせた。

        「・・・・・・はい」
        声は小さくかすれて、そこではじめて、自分が泣きそうになっていることに気づく。それでも、きちんと答えなくてはと思い、懸命に声を紡いだ。



        「あなたと、一緒に・・・・・・生きて、ゆきます・・・・・・」



        溢れた涙がひとしずく、剣心の手の甲に落ちる。剣心は彼女の手を離さないまま腰を浮かせた。こつん、と薫の額に自分のそれを軽くぶつける。
        「ありがとう・・・・・・」
        心の底から安堵したような声。だから、断るわけなんてないのにと思いつつ視線を動かすと、ごく近くで剣心と目が合った。彼の瞳に浮かぶ喜びの色を見
        て、ああ、剣心も嬉しいんだわ、と薫は心の中で呟く。

        ありがとう、はこちらの台詞だと思った。だから、そう言おうとして唇を動かそうとしたら、口づけで阻まれた。
        瞳を閉じて、静かにそれを受ける。甘美な感触と、握られた手にぎゅっとこもった力を感じて、ああこれは本当に夢じゃないんだ現実なんだわと実感してい
        たら―――


        「いやー!めでたいっ!!!」


        すぐ近くからの大音声に、剣心と薫は慌ててばっと顔を離した。
        「そうかそうか!遂にそうなったか目出度ぇじゃねーか!よかったなぁおい剣心!!」
        ただでさえ大きな声を普段より更に張り上げながら、左之助はばんばんと剣心の背中を叩く。その賑やかな声を聞きつけた弥彦をはじめとした門下生たち
        も、「何事か」というようにわらわらと庭に集まってきた。


        「いやぁ、お前ぇが薫を嫁にしたがってるのは、はたから見りゃあ丸わかりだったんだがよー、一体それをいつになったら言うのかと、こっちとしちゃあ気に
        なって仕方がなかったんだ! よく言ったそれでこそ男だぜ!!」
        「さ、左之、おぬし、どうして・・・・・」
        「あぁ?どうしてもこうしてもねぇだろ、目の前でおっ始めておいてよー。いやとにかく目出度ぇなぁよかったなぁ!」
        背中を叩かれながら剣心は珍しく狼狽したが、左之助の言うとおりなのだ。彼はずっとふたりの姿が見える場所で七輪を使っていたのだから、当然やりと
        りの一部始終は見えていたし聞こえていた。そう考えると、むしろ途中で茶々を入れなかったことを感謝すべきなのかもしれない。

        「なんだなんだ、喧嘩でもしたのかよ?!」
        泣き顔を目にしての弥彦の台詞に、薫は濡れた瞳のまま「その逆よ」と笑った。
        「皆の衆!剣術小町の嫁入りが決まったぜ。相手は勿論、天下一の剣客だ!」
        左之助が高らかに発表して、わっと歓声があがり、拍手が起こった。
        弥彦は驚きに目を丸くし、左之助は幾度も「めでたい!」を繰り返した。門下生のなかには密かに薫に懸想していた者もいたので、彼ら数名はあからさま
        に落胆の様子を見せたが、それでも、皆は口々にふたりを祝福した。




        そんなこんなで―――剣心から薫への「求婚」の一幕は、思いがけず賑やかな結びとなったのだった。







        ★







        「・・・・・・そりゃ、そうなっちゃうわよねぇ。皆すぐ近くにいたわけなんだし、ましてや左之助なんて視界に入っていたんだもの」
        剣心は腕のなかでくすくす笑う薫の頭をぽんぽんと叩きながら、「いや、面目無い」と改めて謝罪する。一年前のことではあるが、あの日のことは気恥ずか
        しさも含め、剣心自身も昨日のことのように鮮明に覚えている。
        「いいのよ、確かに恥ずかしいといえば恥ずかしかったけれど、そのかわり直ぐにみんなから祝ってもらえたわけなんだし」
        「うん・・・・・・かたじけない」
        髪の中に指を梳き入れて、地肌をくすぐるように撫でてやると、薫は気持ちよさそうに息をつく。それから―――ずっと不思議に思っていた疑問を、ぽつりと
        口にしてみた。

        「ねぇ剣心」
        「うん?」
        「どうして、あの時・・・・・・突然、あんなこと言おうと思ったの?」


        あの時剣心は、すぐ近くに弥彦が左之助たちがいる状況で、突然求婚の台詞を口にした。
        けれど、一緒の家で暮らしているのだから、他にふたりきりになれる機会はいくらでもあった筈なのだ。
        それなのに、何故あの時あの場所で、急に切り出したりしたのだろう。

        薫からのもっともな問いに、剣心は髪を撫でる手をぴたりと止める。
        そして―――たっぷりの間を置いてから、ぼそりと言った。


        「・・・・・・きれい、だったから」
        その答えに、薫の肩がぴくりと震える。同様にたっぷり間を置いた後、「・・・・・・紅葉が?」と更に尋ねる。
        しばしの間、続く沈黙。そして剣心はなんとか覚悟を決めたのか、はたまた観念したと言うべきか―――薫を抱きしめたまま、ぐらりと上体を傾けた。
        「きゃ!」
        ぱたり、と。剣心は縁側に仰向けに倒れこみ、抱きしめられていた薫は彼の胸の上に「乗っかった」格好になる。



        「紅葉と・・・・・・薫殿が、きれいだったから」



        真っ正面から顔を見て言うのはさすがに照れくさいので、剣心は視線を中空に泳がせながら言った。その途端、胸のあたりにある薫の頬が急に熱くなった
        ように感じたが、それはおそらく気のせいではないだろう。


        あの日、柔らかな秋の陽光に包まれた庭で、鮮やかに色づいた紅葉が見頃をむかえていて。
        年に一度だけ、あでやかに染まる木々の特別な姿を美しいなと思って。
        そして、その風景のなかで微笑む彼女は、もっと美しいと思った。

        そう、思ったら―――あふれてしまったのだ。
        泉に満ちた水が、溢れて川となって流れ出すように。胸の中にあった伝えたい想いは、ふわりと口をついてこぼれ出た。



        ずっと、伝えなくてはと思っていた。これから先の人生を、ともに歩んでほしいと。
        そう思いながらもなかなか言い出せないでいたが―――きっともう、胸に閉まっておくのも限界だったのだろう。



        「・・・・・・薫?」
        ごそ、と胸の上で、薫が身体を移動させるのを感じて、剣心は視線を動かした。
        ごく近くで目が合ったかと思うと、ちゅ、と小さく口づけが降ってきた。
        「・・・・・・嬉しい」
        頭を起こした薫の頬は、色づいた紅葉のように染まっていた。初々しく頬を真っ赤にしながら、かすかに潤んだ瞳で微笑む薫は―――やっぱり、とてもきれ
        いだった。

        照れながらすぐに離れようとした薫を、剣心は下から腕を伸ばして捕まえる。頭を引き寄せて、今度は剣心から彼女の唇に触れた。
        「一番、美しいでござるな」
        そっと囁くと、「え?」と唇の上で声を漏らす。剣心はそのまま息で紡ぐように、小さな声で続ける。
        「どの紅葉よりも・・・・・・薫殿が」
        その言葉に、彼女の頬がますます赤くなるのがわかったが―――きっと自分も似たり寄ったりの顔になっているのだろうな。剣心はそう思いながら薫の頭
        をかき抱いて、深く口づけた。

        「また、誰かが見ていたりしない・・・・・・?」
        呼吸の合間に、掠れる声で薫が訴える。こんな早朝なのだから、この度はその心配は無用だと思うのだが―――それでも、彼女に風邪をひかれるのも
        嫌だったので、剣心は「部屋に戻ろうか」と言って身体を起こした。立ち上がりながら薫の膝の裏に手を通して、ひょいと抱き上げる。
        「霧、すっかり晴れたわね」
        剣心の首に腕を絡めながら、薫が言った。空を仰ぐと、頭上には澄み渡った蒼穹が広がっていた。



        「季節が、めぐってゆくのね」
        生まれたての陽光を受けていっそう鮮やかな紅葉を見つめながら、薫は一年前にも口にした台詞を呟く。
        「こうやって・・・・・・生きてゆくでござるよ」
        そっと首を傾けて、彼女の髪に頬を寄せる。




        こうやって、ふたり寄り添って。
        めぐりゆく季節を、いつまでも、共に。








        互いのぬくもりを感じながら、ふたりは縁側を後にする。
        庭には黄金色の朝日が満ちて、新しい一日が、また始まる。















        了。






                                                                                          2014.11.26






        モドル。