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        「・・・・・・だから、自分でできるでござるよ」
        「だから、どうやって背中を自分で拭くわけ?」



        「すぐ治る」筈だった剣心の風邪は四日目に突入した。
        ことさらに悪化しているわけではないが発熱はずるずると続いており、まだ布団の中から出られずにいる。
        その間、剣心は相変わらず「模範的な病人」として大人しく過ごしていたのだが―――湯を張った桶と手ぬぐいを持って部屋にやって来た薫に対して、
        剣心は珍しく「反発」した。


        「今日も汗いっぱいかいたでしょ? 朝より熱も下がってきたんだし、気持ち悪いだろうから身体拭いてあげるわよ」
        「湯は使わせてもらうでござるよ。でも、手伝ってもらわなくても自分でできるから」
        「じゃあ、妥協案! 背中だけはわたしがやってあげるわ。そのくらいならいいでしょ?」
        「いやしかし、このくらいのこと薫殿の手を煩わせなくとも・・・・・・」

        これまで剣心は、「薫に余計な手間をかけさせないように」「うっかり伝染したりしないように」と気を遣ってきた。薫も、剣心がそう振舞うのはいかにも彼ら
        しいことだと思ってはいたのだが―――


        「ああもう、そこまでかたくなにされると却って手を煩わせてるようなものよ!」
        薫はそう叫ぶなり、ぐっと布団の上に膝を乗せて、身を起こした剣心を下から見上げるような格好で詰め寄った。
        「剣心、大人しく言うことを聞くのも、病人の仕事でしょ?」
        ただ見上げる、のではなく、睨みつけるような強い力のこもった目で見つめられ、剣心はどきりとする。ここ数日近くで感じていなかった彼女の甘い香り
        が、ふわりと鼻孔をくすぐった。
        その、一瞬怯んだ隙をついて、薫は剣心の寝間着の袷に手をかけ一気に押し開いた。

        「かっ、薫殿っ?! 何を・・・・・・」
        「だから、大人しくしてて! 背中だけでもやってあげるから・・・・・・」
        業を煮やして実力行使に出た薫は、ふいに言葉を切った。袷を掴んだまま、まじまじと剣心の顔を覗きこむ。
        「な、なんでござる?」
        「いや、なんだか・・・・・・いつもと逆みたいだなって思って」
        「え?」
        「いつもは、わたしが脱がされてばかりじゃない・・・・・・ほら、こんなふうに」


        薫は唇の端を上げて、くすりと笑う。
        右手をほどいて、細い指を剣心の顎に添わせる。爪の先でくすぐるようにしながら、首筋を撫でおろした。
        ぞくりとする感覚が背筋に走り、剣心は動けなくなる。



        「・・・・・・いい子だから、大人しく言うことを聞くでござるよ、剣心」



        目を合わせたまま、薫はそっと囁く。
        その瞳と声音の匂い立つような色気に、剣心の心臓がまたひとつ大きく跳ねた。

        ゆっくりと、寝間着が両肩から引き下ろされる。
        顔が急激に熱くなってゆくのがわかったが、間違いなくこれは発熱の所為ではない。


        「その、薫殿、拙者は別にそんな事は言ってな・・・・・・」
        そう反論しようとして、しかし剣心は言葉に詰まる。そして日頃の自分の言動を改めて振り返ってみて―――

        「・・・・・・言ってるでござるな、確実に」
        「でしょー?」
        一瞬前の色っぽい風情はどこへやら、薫はからからと明るく笑う。膝で立ち上がって手ぬぐいを湯に浸してきゅっと絞ると、「と、いうわけで、そろそろ観念
        しなさい」と剣心の背後にまわった。背中を小さく、ぺち、と叩かれて、剣心はすとんと肩を落とした。


        「ちょっと髪、前にもっていってね」
        薫はおろしたままの剣心の髪を手で束ねるようにして、胸の方へと流す。広くなった背中の、先ずは首筋のほうから手ぬぐいを当ててやる。
        「熱くない?」
        「・・・・・・いや、ちょうどいいでござるよ」
        実際、手ぬぐいはほかほか温かくて、それで背中を拭われるのは心地よかった。冷めないうちにもう一度湯にくぐらせて絞り直した手ぬぐいが、再び背中
        にあてられる。その感触は純粋に気持ちいいのだが―――それと一緒に、背中に優しく添えられた薫の指の感触がどうしても気になってしまう。

        「ああ、後は自分でするでござるから・・・・・・」
        「えー? 何か言った?」
        薫はするりと彼の左腕をとって、手ぬぐいをそこに滑らせようとした。しかし、剣心の右手がそれを押しとどめる。
        「ほんとに、このくらい大丈夫でござるよ。そこまで弱ってはいないから」
        「・・・・・・もう、強情なんだから」
        薫は腕をとったまま頬を膨らませて、むぅ、と剣心を睨んだ。その表情がまた可愛らしくて―――可愛いからこそ問題なのだと思いつつ、剣心は曖昧に笑
        ってみせる。


        だって、背中ならまだしもそんな至近距離で懐に入られたら、思わず抱きしめたくなってしまうではないか。
        おまけに、先程のあの表情。あんな顔で微笑まれたら、うっかり襲ってしまいたくなるではないか。

        さすがに、今の状況でそれはよろしくない。
        確実に風邪を伝染してしまうだろうし―――いやそれ以前に、彼女に叱られるか。




        薫は、剣心がかたくなに拒絶したその理由はつゆ知らず、渋々という顔で彼に手ぬぐいを渡した。
        剣心は薫に気取られないよう、こっそり安堵の息をついた。









        ★









        眠れなくて、目を開ける。
        いや、それでも少しはまどろんでいたのだろうか。ぼんやりと天井を眺めて、それから首を横に倒す。


        いないとはわかっているのだけど―――つい、癖のように、薫の姿を探す。
        そんなことを、今夜はもう何度も繰り返している。

        首を倒したまま、剣心は闇を透かした先にある襖を見つめた。
        彼女がいるのは、その向こうだ。



        身体を拭き清めてさっぱりして、夕飯には柔らかく煮たうどんを食べていい具合にあたたまって。残り僅かになった薬も飲んで、薫に「おやすみ」を言った。
        その時点ではずいぶん気分もすっきりしており、この調子ならひと眠りしたら快復しているかな、と思った。
        しかし、そう上手くはいかず―――夜も更けた現在、相変わらず熱っぽさは続いているし喉のあたりの不快感も消え去ってはいない。

        剣心は横になったまま、やれやれ、とため息をついた。
        この程度の風邪、大人しく寝ていればすぐに治る筈だったのに。
        少なくとも―――旅暮らしをしていた頃はそれで治っていたものだったが。



        身体に、ガタがきている所為だろうか。
        いや、それとこれとは無関係だろう。自分の身体にできた綻びについて自覚はあるが、それは直ぐに何処かがおかしくなるようなものでないことも、なんと
        なく判っている。

        いずれは、これまでのように剣を振るえなくなること。それはむしろ、自然なことだ。
        例えば、森や山の木だって延々と育ち続けて天を突くことはない。いつかは枝を伸ばすのをやめ、やがて来るべき時がきたら緩やかに枯れてゆく。それと
        同じで、それでいいと思っている。


        闘うべきときに闘い、守るべきときに守る事ができた。果たすべき役割は果たしてきたと信じている。
        勿論これからも剣を手放すことはないが、この先万が一、再び志々雄のような者が現れたとしたら―――そのとき立ち向かうのはきっと、自分ではない。
        弥彦や、薫のもとで剣を学んでいる少年たち。そして、いつか生まれるであろう自分たちの子供。そんな、次の世代の者たちだろう。

        だから、これからは―――育てて、伝えてゆくのも、自分の新しい役割なのだ。
        守るために剣を取ることの意味や、その想いを。



        「・・・・・・しかしながら、今はとにかくこの風邪でござるな」
        未来に思いを馳せるのもいいが、とりあえず今はしつこい風邪から快復することが最重要課題である。いいかげん、薫にこれ以上心配をさせたくないし
        手を煩わせるのもやめにしたい。
        今日だって、彼女は自分の面倒をみつつきちんと出稽古にも出かけて、ついでに前川道場の奥方からうどんの作り方の指南も受けてきたらしい。
        夕飯に出されたのが美味しかったから素直に感想を言うと、薫は「さっき特訓を受けてきたの」と照れくさそうに種明かしをしたのだった。そんなふうに、
        薫はなにくれとなく世話をやいてくれる。

        正直に言うと、それは当然嬉しい。嬉しいのだが、彼女の負担にはなりたくないと思うし、何より四六時中一緒にいると伝染してしまいそうで怖い。
        そんなわけで、薫のためにも早く治りたいものなのだが―――

        「単に・・・・・・年ってだけなのかな」
        ひとりごちて、そして剣心はひとりで落ちこんだ。それはある意味、剣に対する身体の変調よりもがっくりくる事実かもしれない。
        再びため息をつく。視線は先程から、隣へ続く襖に注いだまま動いていなかった。



        もう数日間、薫に触れていないなと思う。
        正確にいうと今日、彼女の方からあたかも「迫られる」ような格好になったが、あれは心臓に悪かった。と、いうか危うく理性が崩れるところだった。

        薫に、触れたいな、と思う。
        抱きしめて口づけて、いい香りのする髪に顔をうずめたい。重ねたところから溶け合ってしまいそうな、柔らかな白い肌が恋しい。

        同じ屋根の下、すぐ近くに彼女はいるのに、触れられないもどかしさにじりじりする。
        薫と一緒になる前まではひとりで眠るのが当たり前だったのに、今では彼女が傍にいないことが不自然に思える。
        そして―――寂しいと感じてしまう。



        目を閉じて、耳を澄ます。
        隣の部屋で眠っている、彼女の寝息が聞こえないかな、と思う。

        意識して深い呼吸を繰り返す。とにかく、早く眠ってしまうことだ。眠ってしまえば、寂しいと思うこともできないだろうから。
        日中もいいだけ寝ていたせいでなかなか眠気は訪れなかったが、時計の針が深夜を回った頃にようやくうつらうつらとし―――いつしか意識は眠りの沼
        の底へと沈んでいった。




        そして、眠る直前に彼女のことを考えていたせいか、薫の夢を見た。




        夢の中、剣心は自分が小さな子供の姿になっていることに気づいた。
        覚束ない足取りで、子供の自分は真っ暗な中をよたよた歩いている。熱があるのは、夢の中でも変わらないようだった。

        ふと、指の先に何か柔らかいものが触れた。
        そのまま小さな手をのばし、引き寄せるようにする。


        よく知っている香りがした。
        顔をあげると、そこには薫がいた。

        夢の中、子供の剣心は薫の胸に顔をうずめた。
        白い優しい腕が、柔らかく剣心を抱きとめる。



        ああ、気持ちいいな。
        ずっとこうしていてほしいな。

        風邪が伝染ってしまうだろうか。
        いや、大丈夫かこれは夢なんだし。





        夢なのだから―――剣心は何も考えずに何の躊躇もなく、ただ薫に甘えることにした。
        ここ数日間の寂しさを埋めるように、彼女の胸にすがりつき、あたたかさに包まれる。






        それは、とても幸せな夢だった。












        4 へ続く。