久々に、清々しい目覚めだった。
ふっと、目蓋を開くと視界が明るい。ああ、もう朝なのだなと思った。
その感覚で、剣心は自分が深くぐっすりと眠っていたことを知る。
なんだか、頭が軽い。
ここ数日、目が覚めると同時に感じていた頭の中心がぼうっと熱いような不快感が、今朝はない。
―――熱が、下がったのか。
そう思うのと同時に、腕に抱いていた薫が身じろぎをした。
「・・・・・・剣心?」
「あ、起こしてしまったでござるか?」
「ううん、ちょっと前から起きてたの・・・・・・具合、どう?」
「うん、昨夜ぐっすり寝たおかげか、すっかり・・・・・・」
よくなった、と続けようとして、言葉が途切れる。
ちょっと待て。
あまりにもいつもどおりだったから、うっかり気づかなかったが、しかし。
「薫殿」
「はい?」
「・・・・・・どうして、ここにいるんでござるか?」
そうだ、風邪をひいてからは寝室を別にしていたのに。昨日も薫は隣の部屋で休んでいた筈なのに。
それなのに、何故今朝の自分はこうして、寝間着姿の彼女を腕に抱いているのだろうか。
「・・・・・・あー、やっぱり剣心、寝ぼけてたんだ」
腕の中の薫は、納得したような声でそう言って、それから説明を始めた。
「昨夜ね、剣心苦しそうな感じだったから、おでこ冷やしてあげようと思ってお部屋に行ったのよ。そうしたら・・・・・・」
昨夜は襖越しでも、剣心が何度も寝返りを繰り返しているのがわかった。
「熱が上がっているのかな」と心配になった薫は、寝床から抜け出し手ぬぐいを絞って彼の部屋に入った。
剣心は、眠っていた。
薫は彼の額と首筋に浮いた汗を拭ってやり、冷たい手ぬぐいを額に置こうとして―――その手首を捕まえられた。
起こしてしまったか、と思って剣心の顔を見ると、彼の目は半分も開いていない。そして、そのままぐいっと腕を引っぱられて、膝が崩れた。
引き倒されて、しっかりと抱きしめられる。薫は目を白黒させながらどうしたものかと思ったが、耳元で小さな声で「かおる・・・・・・」と囁かれたので、このま
まこうしていることに決めた。そろそろと手を動かして、布団をひっぱってふたりぶんの身体を納める。
触れ合ったところから、寝間着越しに剣心の体温を感じる。
こんなふうにされるのはなんだか久しぶりだなぁ、と思いながら、薫は目を閉じたのだった。
「あれ、やっぱり寝言だったのね。そうじゃないかとは思ってたんだけど・・・・・・」
風邪をひいてからの剣心は神経質と言ってもいいほどに、自分と接触しないよう気をつけていた。そんな彼に、布団の中に引っぱりこまれるなんて妙だな
と思ったのだが―――
「すっ、すまない! 拙者昨夜は薫殿の夢を見たから、それで・・・・・・いや、薫殿がいたからあんな夢を見たのか・・・・・? って、いやそうではなくて!」
これまでずっと「伝染さないように」と注意を払っていた剣心は、慌てて薫から距離を取ろうとする。しかし、薫は逆に腕をのばしてぎゅうっと剣心に抱きつ
いた。
「一晩こうしていたんだから、今更でしょう?」
「・・・・・・それは、確かに」
薫の言う事はもっともだったので、剣心は抗うのを止めた。と、いうか久しく触れていなかった薫の身体の柔らかさはこの上なく気持ちよくて、突き放すの
はどだい無理な話だった―――まぁ、久しくといってもたかだか数日なのだが。
「具合、よくなった?」
「うん、昨夜はぐっすり寝たから、かなり楽になったでござるよ」
薫は少し身体を起こして、剣心の前髪をそっとかき上げた。そして、額と額をぴたりとくっつける。
「ほんとだ。熱、下がってる」
嬉しそうに笑って、すり、と剣心の鼻に自分のそれを擦り付ける。くすぐったい感触に剣心は目を細めた。
「やっぱり、しっかり寝るのが一番効くのでござるかなぁ」
剣心は薫の身体をかき抱き、もう一度すっぽりと腕の中におさめる。薫の言うとおり、一晩こうしていたのだから伝染るとしたらとっくに伝染ってしまってい
るだろう。それなら、もうここからは遠慮しないでべたべたくっついてやることに決めた。
「今まで、あんまり眠れてなかったの?」
毎晩そんなに苦しかったのだろうか、と薫は気遣わしげに訊いたが、剣心は小さく首を横に振った。
「いや、別にそんなことはないでござるよ。薬もちゃんと飲んでいたから、毎晩眠れることは眠れて・・・・・・」
と、そこまで言って、剣心は今までと昨夜との違いに気づく。単純だけど、大きな違いに。
「・・・・・・なんだ、そうか」
「え?」
「昨夜は、薫殿がいたからだ」
「わたしが、どうかしたの?」
不思議そうに顔を覗きこんでくる薫に、剣心は笑顔を返す。
流浪人だった頃は、風邪なんて大人しくじっとしていればすぐに治るものだった。
その頃はひとりでいるのが当たり前で、ひとりが寂しいなんて思ったことなどなかった。
けれど今は、ひとりじゃないのが当たり前で、薫がそばにいないと寂しいと感じるようになった。
そんなふうに、心と同じで―――身体のほうも、薫がいてくれないと、治るものも治らない身体になってしまったのかもしれない。
「薫殿がいてくれるのが・・・・・・拙者には一番効くみたいだ」
我ながら、駄々っ子みたいな理屈だな、と剣心は思った。
でも実際、この柔らかいぬくもりが寄り添ってくれていると、何より安らいで眠れるのは事実なのだから仕方ない。
つまりは、君がそばにいてくれるのが―――きっと最良の「薬」なんだ。
「失敗したでござるな、こんなことなら、はじめからもっと甘えておくべきでござった」
「そうよー、だから言ったでしょ? 病人は大人しく言うことをきくのが仕事だって」
乾いた手に髪を撫でられながら、薫はくすくすと笑い声混じりで言った。そして「今からでも遅くないわよ?」と付け加える。
剣心は、ぴたりと手を止めて、じっと薫の目をのぞきこんだ。そして、ごろんと身体を反転させる。敷布の上に仰向けに転がされた薫は「きゃあ!」と子供み
たいな声をあげた。
薫の上に覆い被さった剣心は、じゃれつくように彼女の頬に耳元に口づけを落としたが、唇に触れようとして寸前でまた躊躇する。すると、下から細い腕が
のばされ剣心の首に絡みつき―――ちゅ、と小さく、薫から口づけられた。
「だいじょうぶ。わたしは頑丈だから、そんな簡単に伝染りやしないわよ」
「しかし・・・・・・」
「もし伝染っちゃったとしたら、今度は剣心がわたしを看病すればいいんじゃない?」
甘い声でそう囁かれ、剣心は自分の中の留め金が外れる音を聞いた。「それもそうでござるな」と呟くように言って、唇を重ね合わせる。
呼吸を忘れてしまうような口づけを幾度も交わすうちに、頭の芯がくらくらと熱くなってゆく。と、いってもこれは風邪がぶり返したわけではないだろう。
甘い香りとぬくもりをもっともっと感じたくて、薫の寝間着の袷を押し開いた。そのまま胸のふくらみに顔をうずめて―――
「ちょ、ちょっと待って! まだ病み上がりなんだからそれは駄目っ!」
そこで、流石に怒られた。
★
「・・・・・・ね、ほんとにするの?」
「してほしい」
「でも、なんか・・・・・・恥ずかしいんだけど・・・・・・」
「恥ずかしいのは、拙者も同じでござるよ」
「それでも、したいの?」
「せっかくだから、ちょっとだけ」
「じゃあ・・・・・・ほんとに、ちょっとだけだからね?」
じっと目を見て「お願い」をしてくる剣心は、何を言っても諦める様子はなさそうで―――薫は根負けする。
膝でにじり寄って、剣心との距離を縮める。
向かい合って座った薫は、小さくひとつ咳払いをして、そして―――
「はい、あーん」
粥をすくった匙にふーふー息を吹きかけて、剣心に差し出した。
ぱく、と。匙を口にした剣心は、そのままちらりと上目遣いで薫の顔を見た。視線を受けて、薫の頬がぼっと赤く染まる。
「なんでそこで照れるんでござる?」
「やっ・・・・・・なんかわからないけど・・・・・・やっぱりこれ恥ずかしいわよー!」
「ほら、もうひとくち」
「うー・・・・・・これって普通、される側のほうが照れくさいものだと思うんだけど・・・・・・」
まぁ、きっとこういうのは先に照れたほうが負けなんだろうな、と剣心はこっそり思った。と、いうか―――正直なところ、頬を染めてはにかむ薫の様子があ
んまり可愛いものだから、それに見惚れてしまってこっちは照れている場合ではないのである。
親鳥に餌をねだる雛のようにじーっと見つめてくる剣心に、薫は赤い顔のまま、もう一度「あーん」と粥をひとすくい差し出す。
「熱くない?」
「うん、大丈夫。ちゃんと美味しく炊けてるでござるよ」
「よかったー! ようやく失敗しないで炊けるようになったんだもの・・・・・・」
「もうひとくち」
「はい、あーん」
「・・・・・・お前ら、何やってんだ?」
居間に、呆れた声が響く。
驚いてびくっと肩を震わせた薫が声の方を向くと、そこには竹刀を担いだ弥彦が立っていた。
「きゃーっ! やっ、やだ弥彦、なんでいるのっ?!」
「なんでって・・・・・・稽古に来たに決まってんだろうが」
「うそっ、もうそんな時間?! ごめんね剣心、あとは自分で食べてっ!」
薫は剣心に粥の器を押しつけると、泡を食ったように立ち上がり「着替えてくるからちょっと待っててー!」と言いながら居間を飛び出した。弥彦を待たせて
いるから急いでいる―――というよりは、今の様子を見られたため逃げ出した、と言ったほうがいいだろう。剣心は薫の背中をほのぼのと見送ってから、弥
彦に「おはようでござる」と挨拶の声をかけた。
「はよーっす・・・・・・で、何してたんだよ朝っぱらから」
「いやなに、朝ご飯を食べていたんでござるよ」
「言葉は正確に使えよ、食べさせてもらってたんだろうが・・・・・・って、風邪はもういいのか?」
今朝の剣心は寝間着ではなく普段着に身を包み、すっきりとした表情をしており顔色もよい。体調が良いことは一目で見てとれた。
「ああ、おかげさまですっかり。しつこい風邪だったが、もう大丈夫でござるよ」
「それは良かったな。でも・・・・・・それじゃあどうして朝飯が粥なんだ?」
更に言うと、なぜ食べさせてもらっていたんだと突っ込みたいところだったが、藪蛇になりそうだったのでそれは言わなかった。しかし剣心は訊かれるまで
もなくそこに言及する。
「うん、前に弥彦も言っていたでござろう? 風邪をひくなんてめったにない事だし、せっかくだから駄々をこねてみたでござる」
「・・・・・・もう治ってるじゃん」
「治ったからには、もう何をしても伝染る心配はないでござろう?」
「粥を食う必要もないだろ・・・・・・」
「そこも含めて、駄々でござるよ。熱があるときは頼みそびれてしまったが、薫殿に今からでも遅くないと言われたからな。お言葉に甘えたでござるよ」
剣心は笑って、添えられた梅干を崩しながら残りの粥を口に運ぶ。そんな剣心を見ながら、弥彦はこの場に居合わせてしまったことを激しく後悔した。
「・・・・・・素振りしてくる」と回れ右をした弥彦の背中に、剣心は「明日からは稽古を見てやるでござるよー」と声をかけたが、弥彦は振り向かずにひらひらと
手をふることだけで答えた。そして「左之助早く帰ってこいよー・・・・・・」と、力なく呟く。
これから先ずっと、先頭に立ってこの激甘なのろけの相手をしてゆくのかと思うと―――そうこぼさずにはいられなかった。
それから数日経っても、薫に風邪の徴候はあらわれなかった。
いつものように枕を並べて横になりながら「ほらね、わたし頑丈でしょ?」と笑った薫に、剣心は何の躊躇もなく抱きついた。
You are medicine 了。
2013.10.28
モドル。