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        「なんだ、起きてたのかよ」
        弥彦が剣心の部屋に駆けこむと―――と、いうよりは逃げこむと、剣心は布団の上に半身を起こした姿でいた。


        「台所のほうが賑やかでござったから、これは弥彦が来ているのかと思ってな。また、何か叱られるようなことをしたのでござるか?」
        「別に何も? ほんとの事を言っただけだぜ」

        そう答えたものの、実際のところ薫はさぞ献身的に良人の世話を焼いているのだろうな、と弥彦は思っていた。以前剣心が志々雄や縁と闘った後も、薫は
        つきっきりで大怪我をした彼の看病していたのだから。
        もっとも、今回は風邪ということで、少し勝手が違うようだが。

        「で? 具合はどーなんだ?」
        「ご覧のとおり大したことはないでござるよ。ちょっとした風邪なのだから、こんなの病気のうちに入らぬよ」
        そう言って笑う剣心の口調は確かにしっかりしているし、顔色も平生とたいして変わらないように見える。熱があるせいか少し目が潤んでいるようだが、そ
        れ以外は至ってしゃんとした様子だ。


        「ちょっと弥彦! 卑怯よ、剣心のところに逃げ込むなんて」
        開けたままにしておいた襖の向こうから、薫がにゅっと顔を出した。手には湯呑が乗った盆がある。これのせいで、弥彦を走って追いかけることが出来な
        かったのだろう。
        「なんだよ、俺は見舞いに来てやったんだから、剣心のとこに来るのは当然じゃん」
        「まったく、減らず口ばかり上手くなっていくんだから・・・・・・はい剣心、よかったら、これ」
        ぶつぶつ言いながら薫は剣心の肩に綿入れをかけてやり、卵酒の入った湯呑を手渡す。
        「やあ、かたじけない。いただくでござる」

        剣心は、ちょうどよい飲み頃になっている卵酒に口をつける。ひとくち、こくりと飲むと、ぼそりと「・・・・・・あ、旨い」という言葉がこぼれた。
        それは、思わず口をついて出てしまったというような自然な一言で、剣心の顔をじっと注視していた薫はほっと息をついた。
        ちゃんと美味しいと感じてもらえるかどうか不安だったのだが、その反応で肩からふっと力が抜ける。薫が嬉しそうに口元をほころばせると、そんな彼女の
        表情に気づいた剣心も柔らかく目を細めた。
        にこにこ見つめ合うふたりの様子をすぐ傍らで見ていた弥彦は、すげぇなぁこいつら会話もなしに空気だけでいちゃいちゃ出来んだなぁ、と妙な具合に感心
        していた。


        「これは暖まるでござるなぁ、飲んだらまた少し休むでござるよ」
        「うん、汗かいたらちゃんと言ってね? お夕飯には妙さんからのお見舞いがあるから、楽しみにしててね」
        「おろ、弥彦が持ってきてくれたんでござるか」
        「肉、柔らかく煮たやつ。粥と一緒に食えってさ」
        「かたじけないでござる。治ったら礼を言いに行かなくてはな」

        剣心はそう言いつつ、卵酒を飲み終えて空になった湯呑を薫に渡した。薫はそれを受け取りながら剣心の顔をのぞきこむ。
        「何か、してほしいこと、ある?」
        そう尋ねた薫に、しかし剣心は「ありがとう、大丈夫でござるよ」とにっこり笑って返した。薫は微笑んで頷いたが、その表情にはほんの少しだけ残念そう
        な色が混じっていた。


        「じゃあ、何かあったら呼んでね。弥彦は?」
        「あ、俺はもうちょっと喋ったら帰る」

        薫は頷くと、部屋を後にした。
        足音が遠のくのを確認してから―――弥彦は剣心に向き直る。


        「あのな、ひとつ告げ口するぞ?」
        「おろ、なんでござる?」
        「薫、ちょっと気にしてるぞ。お前が気を遣いすぎてるって。もっと甘えてくれたらいいのに、って」

        余計なお節介かとは思ったが、今しがたの剣心の「大丈夫」を聞いて、つい言わずにはいられなかった。
        弥彦は自分の師匠のことを「残念ながさつ女」と公言してはばからないが、薫はこと剣心の事となると途端にこまやかになることも知っている。剣心が酷い
        怪我をした際も、薫がそれはかいがいしく看病をしてた事も弥彦はちゃんと覚えている。

        しかしながら今回は勝手が違って―――なんだか病人である剣心が「そんなに世話を焼かなくても大丈夫」という雰囲気を放っているように感じた。
        そしてその態度は、薫のことを「突き放して」いるようにも思えたのだ。


        剣心は、殊更に声を低くして忠告する弥彦にきょとんとして、そして嬉しそうに相好を崩した。
        「そうでござるか、薫殿は優しいでござるなぁ」
        ・・・・・・ほんとに余計なことを言ってしまったかと、弥彦は即刻後悔した。


        「しかし、薫殿には申し訳ないが、あまりつきっきりで世話を焼いてもらっては伝染ってしまいそうで心配なんでござるよ。ただでさえ、一つ屋根で過ごして
        いるというのに」
        「伝染ったらって・・・・・・お前ただの風邪は病気に入らないってさっき言ってたじゃんかよ」
        「薫殿のこととなったら話は別でござるよ。ただの風邪とはいえ、甘く見てはいかんでござる」
        「・・・・・・薫の奴、愛されてんなー・・・・・・」
        「何を今更、当然でござるよ」

        本当に、大いに余計なお世話だったと弥彦は頭を抱えたくなった。そんな心情に気づいているのかいないのか、剣心は「そう心配せずとも、このくらいの
        風邪ならじっとしていればすぐに治るでござるよ」と笑う。妙に確信に満ちた声音に、弥彦はふと浮かんだ疑問を口にしてみた。

        「剣心ってさ、流浪人やってたときもこんなふうに風邪ひくことってあったのか?」
        「そりゃ、あったでござるよ。時々ではござったが」
        「そういう時ってどうしてたんだ? やっぱ、医者に家に泊めてもらったりしてたのか?」
        「いや、それはなかったでござるなぁ。さすがに野宿をしてこじらせてもいかんので、適当な家に頼みこんで転がりこませてもらったりはしたが」
        「へぇ、泊めてもらえるもんなんだ。世の中捨てたもんじゃねーなぁ」
        「いや、物置や納屋とかにでござるよ」
        「・・・・・・」
        「まぁ、夜露をしのげる場所で動かないでじっとしていたら、一日もあれば大抵は快復したでござるな」

        剣心の意外な図太い一面に、弥彦は絶句する。しかしながら、実際そのくらい根性が座っていないと、あてのない旅暮らしを何年も続けるなんて不可能な
        のだろう。
        「なんか、動物みてーだな・・・・・・」
        「人間も動物でござるからな」
        今まではそんな治療ともいえないような処置で治してきた。だから、こうして今きちんと医者にかかって暖かい布団で休める状況ならば、「すぐに治る」と
        剣心が断言するのも当然なのかもしれない。そうだとすると、薫が「甘えて欲しい」と気を揉むのもあと僅かのことだろう。


        「でもさ、せっかくならアレやってもらえばいいのに。卵酒とか粥の熱いのに息ふーってやって冷ましてもらって・・・・・・」
        先程、薫が「そんなの照れくさい」と言っていたのを剣心にも訊いてみたが、剣心は照れるどころかぽーっと遠くを見るような目になって「ああ、いいでござ
        るなぁ、それは」としみじみとした口調で答えた。
        「やってほしいなら頼んでみろよ。こう言っちゃなんだけど、風邪ひくなんてめったにない機会だろ?」

        薫のことだから、剣心に頼まれたら決して断りはしないだろう。
        照れくさいと言いつつ「お願い」をきいてあげるに違いない。弥彦はそう思ったのだが―――



        「でも、そんなことをされたら、きっと変な気を起こしてしまうだろうからな・・・・・・」



        その一言は、弥彦に聞かせるつもりではなく、無意識に口からこぼれた言葉だった。
        弥彦はその一言こそ聞こえなかったふりをしたかったのだが耳に入ってしまった以上そういう訳にもいかず、今度こそ頭を抱えた。

        「おろ、どうかしたでござるか?」
        「いや・・・・・・左之助早く帰ってこねーかなーと思って」
        「は? 何でござるか突然」


        ―――今後も俺はずっと、こののろけに一人で太刀打ちしてゆくのだろうか。それは・・・・・・あまりにも荷が重過ぎる。
        せめて援軍でもいれば負担も軽減するのだろうが―――



        見舞いに訪れた筈が散々にあてられてしまった弥彦は、とってつけたように「それじゃ、お大事にな」と言い捨てて長屋へと帰っていった。











        さて、剣心は本気で「このくらいの風邪、もう一晩寝れば治っている」と思っていた。
        しかし予想に反し、その翌朝になっても熱は下がっていなかった。
















        3 へ続く。