自覚症状は、朝、起床するのと同時にだった。
棘でも飲み込んだかのように、ひっかかる感じに痛む喉。
頭の奥に、ぼんやりと熱い不快感。
あ、風邪だな、と思った。
風邪なんて、年単位で久しぶりである。
薫と夫婦になってから―――いや、それどころか東京に来て神谷道場に住むようになってから、初めてのことだ。
「これはいかんな」と思い、剣心はまず、隣でまだ寝息をたてている薫から距離をとった。
You are medicine 1
「ただいまー!」
その日の午後、出稽古から帰ってきた薫が元気いっぱいに玄関の戸を開けると、奥から「おかえり」の声が聞こえた。
いつもどおりの返事である。薫は唇を笑みの形にして、声の主を探して廊下をとんとんと軽やかに進んだ。
「剣心ただいま! あのね、今日ね・・・・・・」
ひょい、と髪を揺らして薫は剣心の部屋を覗いた。そしていつもどおり、出稽古先での出来事を話そうとしたのだが―――
「・・・・・・何、やってるの?」
続く言葉は、彼への質問へと変わった。
何となれば、まだ夕方にも間がある時間だというのに、剣心は寝間着姿である。そして、彼の足下には敷きかけの布団があった。
「おかえり薫殿、身体の調子はどうでござる?」
「え・・・・・・? あの、このとおり元気だけれど・・・・・・どうして?」
「よかった、今朝まで一緒に寝ていたからもしやと思っていたのだが・・・・・・伝染ってはいないようでござるな」
そう言って剣心は笑った。
薫は彼の言葉の意味を一瞬だけ考えて―――すぐに、理解した。
「剣心・・・・・・風邪なの?」
「ああ、どうも今朝起きたときから妙な感じがしていて。こんなの久しぶりでござるよ」
「今朝って! やだ、それならなんで今朝のうちにそう言わないのよー!」
さっと、薫の顔色が変わる。しかし剣心は彼女がどう反応するかをちゃんと予期していたらしく、なだめるように薫の肩にぽんと手を置いた。
「いや、黙っていてすまない。でも、言ったら薫殿心配するでござろう?」
「当たり前でしょー!」
薫は柳眉を逆立てたが、剣心は反対に目尻を下げて柔らかく微笑んだ。こんなふうに彼女が怒るのは、真剣に心配をしてくれている証拠である。
「だからでござるよ。出稽古の日に余計な気を揉ませるのもなんだし、薫殿が勤めを終えるまでは黙っていようと思って」
「もうー! そんなの全然余計じゃないわよ! ちょっと待ってて、わたしひとっ走りして玄斎先生連れてくるから・・・・・・」
「ああ、それは大丈夫、さっき診てもらったでござるから」
「は?」
薫は即刻駆け出そうとして玄関の方へつま先を向けようとしたが―――その足を止めて、剣心の言葉に首を傾げた。
「さっき、買い物に出たとき診療所に寄ってきたでござるよ。ちゃんと薬も貰ってきたでござる」
「そう、なの・・・・・・って、具合悪いのに買い物って」
「あ、天麩羅の屋台が出ていたから少し買ってきたでござるよ。今日は味噌汁しか作っていないから、すまないが夕飯のお菜はそれで・・・・・・」
「だからー! 風邪ひきなのに何してるのー! 休んでなくちゃ駄目じゃないー!」
「うん、だからこれから休むでござるよ」
薫はぐっと言葉に詰まった。
確かに、剣心は今まさに布団を敷いている最中だったわけで。
そう言われると、これ以上は何も言えなくて。
薫は、口をへの字の形にしたまま、すっと剣心の額へと手をのばした。
触れた額は、確かにいつもより熱い。
「・・・・・・熱、つらい?」
「うーん、朝より上がってきてはいるようだが、それほど辛くはないでござるな」
「もうこれ以上、家のことしちゃダメだからね? ちゃんと休んで、苦しくなったらちゃんと言ってね?」
じっと顔を覗きこんでくる薫の真摯な瞳に、剣心は口元をふっと緩める。
小さな白い手をそっと額から退かし、かわりに薫の頬を両手でふわりと包み込む。そして、ぐっと眉根を寄せて難しい顔をしてみせた。
「むしろ、今晩は一緒に寝られないのが、辛くて苦しいでござるよ」
ため息とともに吐き出された言葉は苦渋に満ちていて―――あまりに大仰な調子に、薫はつい笑ってしまった。
★
「ちわーっす!」
弥彦が大きな声で訪うと、中から薫の声が聞こえた。
勝手知ったる道場である。弥彦は「台所のほうかな」と見当をつけて上がりこんだ。
「よっ、妙からの見舞い持ってきてやったぜ」
台所に顔を出した弥彦は、赤べこで妙から預かってきた鍋を示してみせる。なにやら作業中だったらしい薫は、屈めていた腰を伸ばして「あら、ありがと
う!」と礼を言った。
「牛肉、小さく切ったのを柔らかーく煮たやつ。お粥にも合うから、これ食って滋養をつけろってさ」
「わ、美味しそう・・・・・・さっそく今晩食べさせるわね。今度妙さんに会ったときにお礼言わなきゃ」
弥彦が鍋の蓋を開けてみせると、食欲をそそる匂いが漂った。妙の厚意に、薫は嬉しそうに頬をほころばせる。
「剣心の具合どうなんだ?」
「うん、朝から変わりはないかな。早く熱が下がってくれるといいんだけれど」
鍋の蓋を戻しながら、弥彦は薫に「何作ってんだ?」と尋ねて手元をのぞきこむ。どうやら、湯煎で何かを温めているようだが―――
「ああ、卵酒よ。ちょうどいいわ、ちょっと味見してみて」
薫は手元の湯呑からひとさじを掬い、息を吹きかけて少し冷ましてから、そのまま弥彦の顔の前へと持っていった。弥彦はぱくっと匙を口にする。
「あ、旨い」
舌の上にとろりと広がった仄かに甘い味に、その言葉は反射的に口をついて出た。そう言ってから気づいたが、薫の作ったものを誉めたのは、ひょっとした
らこれが初めてではないだろうか。うわぁこれは雨でも降るのではないだろうか―――と弥彦は思ったが、そんな事は知る由もない薫は感慨深げにぐぐっ
と拳を握りしめた。
「やったわ・・・・・・五杯目にしてようやく大成功ー!」
その言葉に弥彦は、自分が絶妙なタイミングで道場を訪れた事を知った。もう少し早く到着していたら失敗作を味見させられていたのかもしれないと思い、
弥彦は自分の運の良さをこっそり神に感謝した。
「そっか、あっためるときに急がないでゆっくり混ぜるのがコツなのね・・・・・・うん、次からはもう大丈夫よ、きっと」
「なんだよ、卵酒一杯にどんだけ労力使ってんだよ」
「だって、仕方ないじゃない。剣心病人なんだから、ちゃんと美味しいもの食べさせてあげたいんだもん」
「もしかして、卵酒以外もそんな感じなのか?」
「お粥は三回目で成功したもん」
薫はきっぱり言い切って胸を張ったが、「それはいいんだけど、太っちゃいそうだわ・・・・・・」と付け足した。どうやら失敗作は自分の腹の中に収めたらしい。
弥彦はそんな薫に半ば呆れて、半ば感心する。いつもならそこで「ブスでデブなんてみっともねーぞ」とでもまぜっかえすところだが、この時に限ってはから
かう気は起きなかった。むしろ、なんというか―――
「剣心の奴、愛されてんなー・・・・・・」
思わずしみじみとした声が口をついて出た。薫は僅かに頬を赤らめて「あたりまえでしょ」と小さく言った。
「そんな力作なら、早く持っていってやれよ」
「ん、そうね。じきに丁度いい飲み頃になるだろうし」
「あ、ほら、あれやんねーの? ふーって息かけて冷ましてやるやつ、『あーん』ってさ」
「・・・・・・どうしてあんたはそういう恥ずかしい事を・・・・・・」
「さっき俺にやったじゃん」
「あんたにするのと剣心にするのじゃ訳が違うのっ! 照れくさいじゃない!」
―――まぁ、そう言うのもわからないでもないかな、と弥彦は思った。
もし、今しがたされたような事を燕にされようものなら、きっと自分もどぎまぎと慌てふためいてしまうだろうから。
もっとも、そんな弱みを握られるようなことをわざわざ薫に言いはしないけれど、しかし―――
「お前らに今さら照れることなんてあるのかよ? 何年夫婦やってんだ」
「まだ一年もやってません」
薫は、べぇ、と弥彦に舌を出して見せてから、少しばかり肩を落とした。
「それに、そういうの剣心遠慮するだろうし・・・・・・なんか、めちゃくちゃ模範的な病人だから」
「模範的?」
薫は首肯して、そして小さくため息をついた。
卵酒の入った湯呑を水差しと一緒に盆に乗せる。
「わたしに、余計な手間をかけさせないように、って思っているのがありありと判るのよね。ひきはじめの時からそうだったもの」
伝染らないようにと気をつかって。その日は朝から調子が悪かったのにそれを敢えて黙っていて、気づかれないよう振る舞って。
出稽古の日の夕飯は大抵彼が担当しているものだから、そこまできちんと用意をしてから、ようやく剣心は床に入った。
その行動は、大変彼らしいと思うのだけれど。
わたしによかれと思ってそうしているのもわかるのだけれど。
でも、風邪をひいているときくらい―――
「・・・・・・もっと、甘えてくれてもいいのにな」
その一言は弥彦に聞かせるつもりではなく、無意識に口からこぼれた言葉だった。
弥彦は、その一言は聞こえなかったふりをして―――
「ま、仕方ねーだろ。お前に看病されたら逆に病状が悪化しちまいそうだもんな」
拳が飛んできそうになったので、弥彦はぱっと身を翻して台所から逃げ出した。
2 へ続く。