もし、この手で触れたとしたら。
君はどんな表情を見せてくれるのだろうか。
マヨイネコ
「・・・・・・薫殿?」
さんさんと陽が降り注ぐ庭のほうに脚をおろす格好で、薫は縁側に腰掛けていた。
声をかけたのは、彼女が十数分ほど前に見たときとまったく同じ姿勢でいたからだ。剣心がいる屋内の方からでは、薫の背中しか見えないのだが―――
ずっと、じっと動かずにいる様子はどう見ても不自然である。暑さにあたったのか、気分でも悪いのだろうか。
「どうかしたのでござるか? 大丈夫で―――」
しかし、くるりと振り向いた薫は「満面の笑み」としか表現しようのない顔しており、剣心は不意打ちをくらったようにどきりとした。
「今ね、お客様が来ているの」
「お客?・・・・・・ああ、なるほど」
薫の笑顔に目を奪われた所為で気づくのが一拍遅れたが、彼女はひとりではなかった。
正確には、ひとりと一匹。淡い藤紫の着物の膝で、白い毛色の子猫が眠っていた。
首に赤い紐で、黄金色の鈴が結わえられた小さな姿には剣心も見覚えがあった。たしか近所で飼われている猫で、道場の面々が京都に行っている間に
生まれたということだったが―――
「うちの庭に迷いこんじゃったのね。あんまり可愛かったからちょっと遊んでもらってたんだけど・・・・・・」
子猫を膝の上に乗せてじゃらしていたら、いつのまにか眠ってしまった。起こすのも可哀想と思い、薫は縁側に座ったまましばらく動かないでいたらしい。
「見事に熟睡しているでござるなぁ」
「そうなの。このままお家まで届けに行ってあげたほうがよさそうね」
薫の横に腰をおろしながら、剣心は「暑くないでござるか?」と訊いた。夏も終わりにさしかかっているが、まもなく太陽が一番高い位置に昇りきるこの時
間、日差しはまだじりじりと焼け付くように強い。
「大丈夫。ここ、ちょうど日陰だし。ほら、今日は風も気持ちいいもの」
「薫殿は、猫に好かれるんでござるな」
「え? そうかしら?」
「京都の帰りの道中でも、時々そうしていたでござろう」
そう、京都から皆でぞろぞろ帰ってきた道すがら、薫は行き会った猫を撫でたり膝に乗せたりしていた。その度恵に「気をつけないとひっかかれるわよ」と
注意をされていたが、どの猫も爪を立てようとする様子もなく、撫でられるまま機嫌よく喉を鳴らしていた。
「うーん、そんなの考えたことなかったけど・・・・・・わたし猫が好きだから、それが猫にもわかるのかしらね?」
「ああ、そうかもしれぬな」
そう話しながらも、薫の視線は膝の上の子猫に注がれている。剣心は薫の横顔を眺めながら「可愛いでござるな」と呟いた。それは猫にではなく薫に向
けた言葉だったのだが、薫はそれには気づかず「ほんと、可愛いわよね」と返事をする。勿論、こちらは猫に対しての台詞だった。
剣心にしてみれば、子猫にかこつけてのどさくさ紛れの発言だったが、実際、今の薫の表情にはそう呟かずにはいられなかったのだ。
子猫を見つめる薫の視線は愛おしさに溢れていて、唇には柔らかな笑みが乗って―――
その、とろけるような瞳がこちらに向けられたらどんな感じだろうか、と思った。
そして、今まさにそんな視線を受けている子猫が羨ましい、とも思った。
猫相手に嫉妬めいた感情を抱くなんて我ながら可笑しかったが、それが素直な気持ちなのだから仕方ない。
そして―――その素直な気持ちに素直に従ってみたら、彼女はどんな反応を示すだろうか、と。そう思いながら、剣心は尋ねた。
「薫殿」
「なぁに?」
「触っても、いいでござるか?」
「いいわよ。でも、起こさないように、そーっとね」
当然といえば当然だが、薫は猫の事だと思って答えた。
だが、そうではなくて。
「いや、猫ではなく」
「え?」
「薫殿に」
一瞬、薫は驚きに息を止めて。そして、ばっと剣心のほうに顔を向けた。
まばたきを忘れたように、目を大きく見開いて。そして、あっという間に頬どころか耳まで真っ赤に血が上る。
「え、ええっ?! わ、わたしっ?! って、えっと、それって・・・・・・」
わたわたと慌てたが、じっと見つめてくる剣心の顔は思いがけず真剣で、からかわれているわけでも冗談を言われたわけでもないことが見てとれた。
薫はぱくぱくと何度か口を開閉させた後、困ったように眉を寄せて、「触るって、どこに・・・・・・?」と訊いた。
「じゃあ・・・・・・ここに」
剣心はちょっと考えてから、すっと右手を伸ばし、薫の頬に触れる。
「・・・・・・もう、触ってるじゃない」
まぁ確かに、完全に事後承諾になってしまった。それでも「嫌でござるか?」と訊かれた薫は、小さな声で「・・・・・・嫌じゃない」と答える。
了承を得られた剣心は、すべすべした感触を確かめるように手のひらで頬を包み込んだ。指先が耳を掠めて動くのを感じて、薫はぎゅっと目を閉じる。
そっと、手を下へと移動させる。細い顎の線を伝って、軽く指を曲げ、喉をくすぐるように撫でた。
子猫ならごろごろと喉を鳴らすところであろうが、薫の震えた唇の奥では、息を飲む小さな音がした。
触れたところからぬくもりと共に彼女の緊張も伝わってくるようで―――その初々しい様子を、可愛いな、と思った。
「目、開けて」
ぴくり、と睫毛が震え、おずおずと薫の目が細く開く。
赤く染まった頬に、戸惑いの色を乗せた瞳。しかし、そこに拒絶の気配はなかった。
むしろ―――僅かに開いた唇が誘っているように見えるのは、都合のよい思い込みだろうか。
もっと、触れてみたら、どんな表情を見せてくれるのだろう。
きっと、今より、もっと―――
「もう少し、いいでござるか?」
「もう、少し・・・・・・って?」
「ここに、触れても」
小さなおとがいを捕まえて、柔らかい唇を親指でなぞる。
大きな瞳が、じっとこちらを見つめていた。
熱っぽく潤んで、言葉にしなくてもわかるくらいの愛おしさが溢れて。
―――ああ、そうだ、こんな表情を見たかったんだ。
自惚れでも思い込みでも構わない。きっと今、君は俺のことしか考えていない。
そして―――間違いなく俺も同じ表情で、同じ想いで君のことを見つめている。
「・・・・・・指、で?」
指でなら、もう触れているのだけれど。
だから、答えはそれではなくて。
「いや・・・・・・こっちで」
そっと、顔を近づける。
前髪が触れ合って視界が翳るのを感じた薫は、目蓋を閉じた。それは、どう見ても承諾の合図。
剣心は、薫との距離を零にしようとして身を乗り出した。
そしてその拍子に、薫の膝に左手をついてしまった。
この時剣心はすっかり失念していたのだけれど、薫の膝の上では子猫が昼寝中だった。
更には、手をついたところにはちょうど子猫の尻尾があって―――
みぎゃぁぁぁぁぁ、と。
次の瞬間、小さな身体に似合わぬ大きな泣き声が庭にこだました。
★
「・・・・・・おい、どうしたんだ? それ」
正午を狙って昼食をたかりにきた左之助は、剣心の顔と手を見て開口一番そう訊いた。
左手は真新しい包帯でぐるぐる巻きにされ左頬にも白い布片が貼られて、見事に負傷者のいでたちである。
「ちょっと、猫に」
剣心は平坦な声で短く答えた。
先程、尻尾をむぎゅっと押しつぶされた子猫は、飛び起きて剣心の手に思いっきり爪を立てた。
唇が重なる直前にぱちっと目を開いた薫は、慌てて子猫を抱き上げてなだめようとしたが、恐慌をきたした猫はじたばたと暴れて―――目の前にあった
剣心の顔をばりばりと引っ掻いた。
その後、落ち着いた子猫を抱いてふたりは飼い主の家へと届けに行ったのだが、剣心の傷を見て飼い主はすっかり恐縮してしまい「このくらい大丈夫だ
から」と遠慮したにもかかわらず、些か手厚すぎるくらいしっかり丁寧に処置をされた。そんなわけでの、この姿である。
剣心は事実をそのままのとおり手短に話したのだが、左之助は何故か、にんまりと人の悪い笑みを浮かべた。
「・・・・・・なんでござるか?」
「いやー、ほんとにいるんだなと思ってよ。そういう誤魔化し方する奴」
「は?」
「猫に引っかかれた・・・・・・って、女にやられた傷に使う言い訳の定番だろ。でも、実際にそう言っている奴を初めて生で見た」
剣心は目を半眼にすると、はぁぁと重苦しいため息をついた。訂正したい点は多々あったが、説明するのも面倒くさいしなんだか虚しい気もする。
「しかし、そこまで酷くやられるってことは余程無茶な要求したんだろ。嬢ちゃんならお前ぇの言う事なら大抵は聞くだろうに一体どんな・・・・・・ぐぎゃっ!」
説明するのは面倒だったが、薫の名誉を思って―――剣心は左之助を一発殴って黙らせた。
了。
2013.10.04
モドル。