瞬きよりも、すこし長く目を閉じてみる。
もしかしたら、今この瞬間に起きていることはすべて夢なんじゃないかと思ったから。
本当は、俺はまだ旅の途中で独りで何処かの空の下を流離っていて、夜露に濡れながら野宿をしている最中に見た夢なんじゃないかと。
けれど、目をあけて横を見ると君がいた。
花嫁衣装に身を包んだ、咲きほころぶ白芙蓉のような君が、隣に座っていた。
視線に気づいた君が、どうしたの?と問いかけるような顔で俺を見る。
「夢じゃないんでござるなぁ」
間の抜けた台詞に、君は「馬鹿ねぇ」と笑った。
瞬き
1
「あらまぁ剣心はん、見違えはって・・・・・・」
「ほんと!男ぶりが上がりましたねぇ」
台所を覗きこんだ剣心にまず気づいて、目をみはったのは妙だった。ついで、他の女性たちもめいめいに歓声を上げる。
「薫ちゃんは、まだ支度中?」
「今、髪を結っているところでござるよ」
いつもは一本に結んでリボンを飾っている髪を、今日は高島田に結い上げるのだ。台所の手伝いに来てくれた妙が「どれだけべっぴんさんになるのか、
楽しみやねぇ」と頬をほころばせ、剣心は笑顔を隠さず頷いた。
今日、剣心と薫は晴れて祝言を挙げる。
新郎である剣心は、既に紋付を身につけてすっかり準備を整えていたが、新婦の薫はそうもいかない。髪を結ってもらい化粧を施してと、支度が出来るに
はまだまだ時間がかかりそうだった。
「ほんと、感慨深いわねぇ、薫ちゃんがお嫁に行くなんて・・・・・・あら、行くとは言わないのかしら?ここで道場を続けるんだから」
「それに関しては、剣心さんに感謝しなくちゃ。薫ちゃんが遠くにお嫁に行っちゃったら、この界隈がすっかり寂しくなっちゃうもの」
近所の主婦たちのそんな会話は、薫が皆から慕われ愛されているからこそだ。剣心にしてみればその事が嬉しくて誇らしくて、いやが上にも目尻が下が
ってしまう。さぞかし締まりのない顔をしているだろうという自覚はあったが、きっと今日はこんな表情も大目に見てもらえる日であろう。
「思い出すわぁ、薫ちゃんがはじめて剣心はんと弥彦くんを連れて来はった日。あの時うち、剣心はんのこと『恋人?』って聞いたんよね。でも薫ちゃん、
『ただの居候』言うて・・・・・・」
「ああ、そんな事もあったでござるなぁ」
「今となっては、うちの目に狂いはなかったいう訳ね」
得意気に胸を反らせる妙に、明るい笑い声があがる。なごやかな空気が満ちる中、剣心は「ところで・・・・・・何か手伝えることはないでござるか?」と皆に
切り出した。
それに対して、女性たちは「は?」と揃って首を傾げる。
「いや、もう支度もできたので、ただ座っているのもなんだし拙者も何か手伝えればと思って・・・・・・・」
剣心にしてみると、暇をもてあますよりは台所で何か仕事をしたほうが―――と、ごく単純に考えての申し出だった。しかし、女性陣はその発言に色をなす。
「何言ってるんですか!新郎はそんなことしないでどーんと構えていてくださいよ!」
「いや、でも今は特にすることもないでござるし・・・・・・」
「だからといって台所仕事はいけません!せっかくの紋付を汚したりしたら、えらいことになります!」
「せや、剣心はんにそんな事させたら、うちらが薫ちゃんに叱られてまうわ」
一斉に反対されて、ぐうの音も出なくなる。確かに、叱るかどうかはともかくとして、紋付を汚したらきっと薫は悲しむであろう。
そんなわけで、剣心はしおしおと台所から退散することにしたが、その背中にむかって妙が優しく声をかけた。
「これからどんどんお客様も訪ねてくるんやから、今はのんびりしてたらええやないですか。剣心はんの今日の仕事は、皆から『おめでとう』って言われ
ることなんやから」
振り向くと、ほのぼのとした笑みをたたえた皆の笑顔があった。
剣心は胸の奥があたたかになるのを感じながら、「ありがとうでござる」と頭を下げた。
★
台所を後にした剣心は、とりあえず縁側に向かい腰を下ろす。
相変わらず、手持ちぶさたな状況のままではあるが、妙の言葉のおかげで少々の暇も悪くはないかと思うことができた。彼女の言うとおり、今に祝いの客
たちが次々訪れるに違いない。まだ支度に時間がかかるであろう薫に代わって応対をすることも、新郎の役目である。ここは妙たちの厚意に甘え、それ
までのんびりさせて貰うことに決めて、剣心は肩の力を抜いた。
そよそよと、穏やかな微風が前髪を揺らす。
頬を撫でる陽光の暖かさに、ああ春が近いのだなと目を細める。
はじめて赤べこを訪問したのも、去年の今頃―――いや、もう少し後だったかと記憶をたどる。
先程、妙はその日のことを「懐かしい」と述懐していた。そう言われてみると、確かに懐かしい。あの頃と比べて、自分の心境が大きく変化しているから、
尚更そう感じるのかもしれない。
あの時薫は、「恋人」と言われたことを真っ赤になって否定した。そして「ただの居候です」と、剣心を妙に紹介した。
実際のところ、ただの居候として誰かの家に厄介になる事すら、当時の剣心にとっては稀有な出来事だった。
神谷道場に来る前、流浪人だった頃。あの頃は、ひとつの場所に居るためには理由が必要だった。
苦しんでいるひとがいるから。虐げられているひとがいるから。そんなひとたちを助けるのが、貸せるだけの力を貸すことが、その場所に居る理由だった。
そんな理由を見つけては逆刃刀をふるって、一件落着したらその場から去って。その繰り返しだった。
勝気な瞳が印象的な少女に出逢った、一年前の晩冬。
流派の汚名をそそごうと必死だった少女を助けて、抜刀斎を騙る悪党兄妹から、彼女と彼女が継いだ流派の名を守った。
そして「ああ、これでこの場所にいる理由もなくなった」と思った。
理由がなくなったから、いつものようにその後はまた流れる筈だった。
それを引き止めたのは、怒った調子の薫の声だった。
「わたしひとりで、どうやって流派を盛り立てて行けっていうの?!」と。
その時の彼女の顔を、今も覚えている。語気は荒く、形のよい眉をきりりと怒らせてはいたけれど、なんだか泣きそうな目をしていたことを。
いつか薫はその時を振り返って、「あの時は必死だったのよねぇ」と照れ笑いをしていた。
「なんとか剣心にとどまってほしくて・・・・・・今にして思うと、ひとりじゃ無理だから手を貸せだなんて、図々しいったらないわよね」
そう言って薫は、恥ずかしそうに首を縮こまらせたが―――剣心にしてみると、あの時必死になってくれたことに、ただただ感謝するしかない。彼女の必死
さをいいことに、この家にとどまることを決めたのだから。
それが君の傍にいる理由なんだとこじつけて、自分自身への言い訳にしたが、今にして思うと、あの頃、既に気持ちは君へと傾いていたのだろう。
剣心は頤を上にむけた。
頭上に広がるのは、庭の木の梢を透かした水色の空。
この家の、ここからの眺めも、この一年ですっかり親しいものとなった。
最初は流浪人として訪れて、居候になって、一度去って、また帰ってきて――――そしてこれからはずっと、自分の人生はこの眺めとともにあるのだ。
「なににやにやしてるの?気持ち悪いわね」
背後から投げかけられた声は、薫とよく似ているが薫のものではない。振り向いて目が合った声の主も薫とうりふたつであるが、完全に別人である。
薫が剣心にむかってこんなトゲのある発言をする訳がないし、そこにいた「そっくりさん」が身にまとっていたのは花嫁衣装ではなく、友禅の晴着だった。
「・・・・・・馨殿は凄いでござるな。背中を向けていたのに、拙者がどんな顔をしているのか分かるとは」
「あらやだ皮肉っぽいわねその言い方。だって決まってるでしょう、あんなに可愛いお嫁さんを貰えるんですもの、にやにやしてるに違いないわ」
「それは暗に、自分のことも可愛いと主張しているのでござるか?」
「揚げ足とらないでよ感じ悪いわね!どうせ剣心さんにはわたしと薫さんの顔、まったく別物に見えているんでしょう?!」
薫と双子のようにそっくりな娘・馨は、呉服屋の一人娘である。とある事がきっかけで薫の友人となった彼女は、剣心にむけての当たりがきつい。自然、剣
心の対応もそれに準じたものになる。
そういえば、出逢った頃の薫もそうだったな、と剣心は思い出す。
馨のような喧嘩腰とは違うが、よく怒る娘できりりと眉をつり上げることも多かった。そもそも初対面の時からして、偽抜刀斎を探して夜廻りの最中だった
薫は怒り顔であった。
当時に比べると随分と表情がやわらかくなったが、あの頃の気の強いまなざしの薫もまた可愛かったな――――と、思い返していると頬が緩んでしまい、
馨に「うわ、ほんとににやにやしてるわ気持ち悪い・・・・・・」と冷ややかな視線を注がれた。
「そうだわ、それはそうとしてあなた今暇なんでしょ?弥彦くんと燕ちゃんの姿が見えないんだけど、探してきてくれない?」
「おろ、あのふたりに何か用でござるか?」
「男蝶女蝶をするのに、晴着を持ってきたのよ。そろそろ着替えてもらおうかと思って」
「ああ、そうでござったか・・・・・・かたじけないでござる」
剣心と薫の婚礼衣装は、馨が厚意で誂えてくれた。更には、盃事で酒を注ぐ役目の弥彦と燕の晴着までも準備してくれたらしい。馨の親切に対し、剣心は
素直に礼を述べる。
「他ならぬあなたたちの祝言ですもの、手伝えるところは全力で手伝いますからね」
「薫さんの」ではなく、「あなたたちの」と言ったところに、馨の最大限の祝意が感じられた。
「せっかく晴れているのに、珍しいことをされて雨でも降ったら大変でござる」と茶化すこともできたが、今そんなことを言うのは無粋であろう。
剣心は今一度、「ありがとうでござる」と、心からの礼を返した。
2 へ続く。