8  晶









        「おやおや、お嫁に貰われたと聞いたのだけれど・・・・・・相変わらずだね、薫」
        「だって、びっくりしたし嬉しかったんだもの・・・・・・おかえりなさい、晶さん」
        「ただいま。でも、下の名前で呼ぶのはやめてくれないかな?ずっとそう言ってるだろう、男みたいで嫌なんだよ」
        「あ、ごめんなさい、つい・・・・・・」


        えへへと笑う薫の頬に触れて、細君はもう一度「ただいま」と言った。薫も再び「おかえりなさい!」と繰り返して、彼女の肩先に子供のようにぐりぐりと頭を
        すりつける。剣心は女性ふたりが睦まじく「再会」を喜びあっている姿を、あんぐりと口をあけて眺めていた。あまりに予想外な展開すぎて、目の前の状況
        を処理するのに頭が追いつかない。
        やがて薫は薙刀を手に立ち尽くしている良人に気づき、「剣心、紹介するわね」と言って細君から手を離した。

        「こちら、前に話した楠晶さんよ。楠誠心流の跡継ぎさんで、楠道場の道場主なの」
        「改めまして、楠です」
        細君―――晶は、そう言って折り目正しく礼をする。


        剣心は、彼女と晶の顔とを見比べながら「・・・・・・道場主?」と呟くように訊いた。
        「そうよ、この前ちょっと話したわよね?道場を継ぐ前に武者修行の旅に出かけたって。その、楠さん」
        薫は剣心が呆然としているのには気づかずに、晶にも「楠さん、あのね・・・・・・わたしの、主人の、剣心です」と、恥じらいながら紹介する。
        「貴殿については、こちらに帰ってきてからあちこちでお話を耳にしてきました。噂どおり・・・・・・大事な妹分を任せるに足る方でいらっしゃいました。立ち合
        うことができて、光栄です」
        そして晶は「ありがとうございます」と剣心に礼を言い、それを聞いて薫は目を大きくする。
        「え?!何それふたりで立ち合っていたの?!ずるいっ!剣心、わたしの相手は滅多にしてくれないのに・・・・・・それに楠さんとだって、わたしも久々に手
        合わせしたかったわー!」
        「それなら、今からだってお相手するよ。でも、出稽古帰りなのにいいのかい?病み上がりなんだろう?」
        「え?何のこと?」

        晶は、ちらりと剣心の顔を見た。
        剣心は「ああ拙者は茶の用意をしてくるゆえごゆっくり」と一本調子でそう言うと、薙刀を晶に返してそそくさと道場から逃げ出した。



        晶は彼の背中を見送りながら、「いや、わたしの勘違いだったよ」と、くすくす笑った。








        ★








        「どうでしたか?武者修行の旅は」
        薫と晶はひとしきり道場で竹刀と薙刀を交わし、ひと汗かいた後母屋に戻ってきた。今日は天気が良くてあたたかいから、と。ふたりは二年ぶりのお喋り
        を楽しむために、縁側に並んで腰掛けた。
        「実りのある時間を過ごせたと思っているよ。修行の旅にこんな感想もどうかと思うけれど、楽しかったね」
        「それは、ご主人と一緒だったからじゃないですか?」
        「まあ、そういうことかな」
        澄ました顔で言った晶に、薫はきゃーと華やかな悲鳴をあげる。お茶を淹れてきた剣心はふたりの間に湯呑みを置くと、自身も薫の隣に腰をおろした。
        「その・・・・・・旅には、ご夫婦で行かれたのでござるか?」
        「ええ、と言うか・・・・・・結婚したからこそ、両親からも旅の許可を貰えたんです」


        晶は以前から「見聞を広げ腕をみがくため武者修行に行きたい」と両親に懇願していたのだが、「女性ひとりの旅は物騒だし心細い」と、反対され続けて
        いたらしい。しかし二年前、今の良人と祝言を挙げた晶は両親に「ふたり旅ならば問題ないだろう」と提案した。両親は苦笑いをしつつ、頑固で真面目な娘
        と彼女に岡惚れな婿養子殿を、修行の旅に送り出した。

        「実際のところ、腕っぷしはわたしのほうが強いくらいなんですが・・・・・・それでもやはり、一人旅は何かと不安なものだし味気ないですしね。彼と一緒でよ
        かったです」
        「いいなぁ、そんな旅ならわたしもしてみたいわ」
        「行けばいいじゃないか。ご主人なら絶対つきあってくれるだろう?」
        「剣心とふたり旅かぁ、楽しそう・・・・・・」
        おそらくは「修行」という旅の趣旨から離れたところで想像の翼を羽ばたかせているのだろう。うっとりと宙に視線を漂わせため息をつく薫の肩を、晶がつん
        とつついた。
        「ただ、そうなると道場の門下生たちが可哀想だね」
        「あ!そうよね・・・・・・じゃあ、留守の間は晶さん、代稽古をおねがいします」
        「わかった。でも帰ってくる頃には全員薙刀に宗旨替えさせているよ」
        「やーん!それは困るわ!」


        きゃあきゃあと楽しそうな彼女らのやりとりを眺めながら、剣心は内心で必死に状況の整理をしていた。





        ここ数日、嫉妬の炎を燃やし続けていた相手―――楠晶は、女性だった。
        子供のころから薫が「あんなふうになりたい」と憧れていたのは、晶も将来は道場を継ぐ身だったから。
        剣術と薙刀という違いはあれど、女だてらに一流を担う身の「先輩」として、薫は晶を慕っていたのだろう。父の死によって、結果的に薫のほうが先に道場
        主になったわけだが。

        そして―――薫の、そして前川たちの話を聞いて、彼が薫の初恋の相手なのではと勘繰っていたが、それは間違いだった。
        そもそも、晶は「彼」ではなく、「彼女」だったのだから。

        と、いうことは―――薫の初恋の相手は、彼女が以前語ったとおり、やはり俺で。
        それなのに、俺は彼女が「嘘をついた」と思いこんでしまって―――





        「改めて、剣心さん、どうもありがとうございます」
        早合点して薫を疑ってしまったことを脳内で猛省していたら、ふいに晶から礼を言われて、剣心は「は?」と間の抜けた声で答える。

        「わたしは薫が小さな頃から、彼女のことを妹のように思っていましたが―――なにぶん、こんな娘でしょう?お人好しが過ぎて何かしでかすのでは、と
        か、ちゃんといいひとはできるのだろうか、とか・・・・・・何かと心配だったんですよ」
        そう言いながら、晶は薫の頭をわしわしと撫でて、薫は「ひどーい!」と苦情を申し立てる。
        「だから二年前、お父上を亡くした彼女を置いて東京を出るのが、心配でならなかったんです。何しろ、辛くても、平気だと強がる娘ですから」


        それは、剣心も知っている。
        父親を亡くしたとき、薫は遠縁の者たちから「道場はたたむべきでは」と勧められた。しかし薫は「大丈夫、わたしが継ぎます」と宣言し、縁者たちを納得さ
        せてしまった。まだ十代の彼女が、ひとりで道場を守ること。それは彼女自身も不安に感じるところもあっただろうが―――薫は「強がり」を貫きとおした。

        「上手に強がり続けたら、本当に強いんだって思ってもらえるから」
        薫はいつか剣心に、そう語った。そうやって彼女は親類縁者に、「あの娘なら大丈夫」と思わせた。
        それは、道場を残したいという自分の願いに、他の者を巻き込んではいけないという彼女の優しさゆえの強がりだった。ひとりで生きてゆくことが、心細く
        ないわけがないのに。


        「けれど、旅から帰ってきてみると、薫はもうひとりではなくなっていて、道場も盛況と聞いて・・・・・・それを知って、本当に嬉しかったんです。ありがとうござ
        います」
        晶はそう言って、剣心に向かって頭を垂れた。彼女は本当に、心から妹分の身の上を心配していたのだろう。それなのに俺は一人合点して醜い嫉妬にの
        たうちまわって―――と、剣心は深く恥じ入りながら「いや、拙者はそんな」と自分も頭を下げる。
        「道場を守ったのは、薫殿自身の努力の賜物でござるし―――それに、薫殿に出逢って救われたのは、拙者のほうでござる」
        晶は大真面目にのたまった剣心の顔を見て、次いで薫の顔を見た。案の定、耳まで赤くして俯いてしまっている。
        「本当に、いい旦那様を捕まえたね」と晶は笑い、剣心はこれまた「いや拙者のほうこそ」と身を乗り出し、そして薫は「わかったから!わかったから剣
        心!」とますます真っ赤になりながら、良人が熱弁をふるおうとするのを押しとどめた。









        帰りがけに、晶は「これを渡すのを忘れるところでした」と言って、風呂敷包みを差し出した。
        持ち重りのするそれにくるまれていたのは、鮮やかに色づいた柿の実だった。
        「わ!いいんですか?!こんなに沢山」
        「うん、うちの柿の木が今年は豊作でね。前川さんのところのと違って、ちゃんと甘いから安心していいよ」
        晶は悪戯っぽく笑い、ぽん、と薫の頭に手を置いた。



        「・・・・・・約束、ちゃんと守ってくれて嬉しいよ。じゃあ、また」



        そう言って、剣心と薫に礼をすると、晶は道場を辞した。



        姿勢の綺麗な後ろ姿が遠ざかる。門前に見送りに立った剣心は、ちらりと横に立つ妻を見た。晶の背中はもう大分小さくなったのに、頬にふんわりとした
        笑みを浮かべて、まだ彼女の後ろ姿を見つめている。
        ぽん、と。今度は剣心の手が頭の上に乗せられて、薫は「なぁに?」と瞳を動かして彼に尋ねる。剣心は「いや、別に」と言いながら、そのまま手を動かし
        て薫の頭を撫でた。それは、薫があまりに晶と仲が良いので妬けてしまったが故に、反射的にとった行動であった。

        薫の髪に触れながら、剣心は先日楠夫妻が来訪したときのことを思い返す。
        あの時、楠の夫君と対面して、思ったよりも嫉妬の念がわきあがらなかったことが我ながら不思議でならなかったが―――なんとなく、納得できた。あの
        夫君と薫が一緒にいる姿を想像しても、どうにもぴんとこなかったが、それもその筈だ。彼は薫の幼馴染でも初恋の相手でもなんでもなかったのだから。

        ―――夫君を目にして、勘というか、本能的にそれを感じ取っていたのかな。
        動物のような鼻の利きように内心で苦笑しつつ、剣心は「食べごろは、もう少し先でござるかな」と言った。
        晶がくれた、柿についてである。薫は「そうねぇ・・・・・・」と、橙色の実をひとつ手のひらで転がす。



        「とりあえず、焼いて食べましょうよ」



        その発言に、剣心は目を丸くする。
        「え?!焼くんでござるか?柿を?」
        「そうよ、何かおかしい?」
        「いや・・・・・・おかしいというか、拙者は聞いたことがないが・・・・・・」
        「・・・・・・剣心、わたしがやることだから変な料理だと思っているんでしょう」
        じとりと目を半眼にした薫に、剣心は「いや!別に、そういうわけでは!」と胸の前でぶんぶんと手を振ってみせた。薫は疑わしい視線を彼に向けつつ、
        「いいわよ、やってみましょう?」と言った。



        「百聞は一見にしかず、よ」





        それとも一食かしら?とつけ加えて、薫は柿の実を頬に押しあてて微笑んだ。












        9 「約束」へ 続く。